邪悪の来訪
つぎの日の朝。 雨は上がっていたけれど、空はどんよりとした鉛色のままだった。 でも、お城の中の空気は、昨日までとは少し違っていた。
お兄様が、そわそわしている。 朝早くから起きて、自分で髭を剃り、髪を丁寧に櫛でとかしている。 クローゼットの奥から、一番仕立てのいい白いシャツと、紺色のカーディガンを取りだして着ていた。 鏡の前で、何度も襟元を直している。
その姿は、いつもの「諦めたような幽霊」じゃない。 これから初デートに向かう、人間の男の子の顔だ。
――気にくわない。
あたしは、部屋の隅のソファに座って、膝を抱えながらお兄様を睨みつけていた。 どうして? どうして、あんな「部外者」のために、そんなに綺麗にするの? あたしだけに見せてくれる、あの少し乱れた、退廃的な姿でいてくれればいいのに。
「……変かな、世璃」
お兄様が、照れくさそうに振り返った。 その頬には、薄く赤みが差している。
「ううん。とっても素敵よ、お兄様」
あたしは嘘をついた。 素敵すぎて、吐き気がするほどだ。 その清潔さは、この腐ったお城には似合わない。 まるで、今すぐこの場所から飛び立とうとする、白い鳥の羽ばたきみたいで。
「そうか。よかった」 お兄様はホッとしたように笑い、窓の外を見た。
「先生、道に迷っていないといいけど。 ……ここはわかりにくい場所だから」
お兄様は気づいていない。 自分が今、「ここから連れ出してくれる救い手」を待ちわびていることに。 あたしという怪物を愛していると言いながら、心のどこかで、まだ「人間の世界」への未練を断ち切れていないのだ。
ピンポーン。
正午を少し過ぎた頃。 玄関のチャイムが鳴った。 安っぽい電子音なのに、お城の静寂を切り裂くナイフのように鋭く響いた。戦いのゴングだ!
「来た!」
お兄様が、弾かれたように車椅子を回した。 その勢いのまま、玄関ホールへと急ぐ。 あたしは、ゆっくりとその後ろをついていった。
足音が立たないように。影のように。
ガチャリ。 重厚な扉が開かれる。 そこに立っていたのは、昨日の電話の声と同じにおいのする女だった。
里見先生という女は、黒髪を後ろで束ねて、銀縁の眼鏡をかけている。
仕立てのいいグレーのスーツに、機能的なパンプス。 彼女の全身からは、「常識」と「正義」と、それから安い石鹸のにおいが漂っていた。
まぶしい。まっすぐすぎて、目が痛くなるようなにおいだ。
「静くん……! 久しぶりね」
「先生! ……よく来てくださいました」
先生の顔がほころぶ。 お兄様も、心からの笑顔を向けている。 二人の間に流れる空気は、温かくて、透明で、あたしの入り込む隙間なんてない。
……でも、先生の目は笑っていなかった。 彼女の視線は、鋭くお城の内部を観察していた。 玄関ホールの金色の壺。極彩色の絵画。 そして、わずかに漂う「血と消臭剤」の混じった違和感。 昨日、あたしが叔父様を解体した時の残り香を、敏感に感じ取っているのかもしれない。
「……少し痩せたんじゃない? 顔色が悪いわ」
「ええ、まあ。いろいろありまして」
先生は、お兄様の手を取った。 あたたかそうな、血色のいい手。 あたしのつめたい手とは大違いだ。
「立ち話もなんだから、上がってください」
「ええ。お邪魔するわ」
先生が靴を脱いで、上がり框に足を乗せる。
来るな、来るな。来るんじゃない。
お兄様に言われたからって、ずうずうしく上がり込んでくるなんて! この泥棒猫め!
その瞬間、彼女の視線が、あたしの方に向けられた。
「……あら。世璃ちゃん、よね?」
眼鏡の奥の目が、あたしを射抜く。 その目にあるのは、「警戒」と「不審」。 彼女は知っているのだ。 自分が雇った興信所の探偵が、昨日から連絡を絶っていることを。 そして、その探偵が最後に追っていたのが、この屋敷だということを。
――勘のいい女。
あたしは、内臓が煮えくり返るのを必死で抑えて、ニッコリと笑った。 練習したとおりの、15度の笑顔で。
「はじめまして、先生。 世璃です。……お兄様と一緒にお待ちしていましたわ」
あたしは丁寧にお辞儀をした。 頭を下げながら、舌なめずりをする。 この女の心臓の音。トクトク、トクトク。 規則正しいリズム。羨ましいくらい健康な内臓の音だ。 食べたら、きっとプチプチして美味しいだろうな。
「……はじめまして、世璃ちゃん。 噂には聞いていたけど、本当に那美さんにそっくりね」
先生の声が、少しだけ強張った。 あたしは顔を上げて、小首を傾げた。
「そうですか? でも、中身は全然ちがうんですよ。 ……ねえ、お兄様?」
あたしはお兄様に同意を求めた。 お兄様は、あたしと先生の間で、気まずそうに視線を泳がせた。
「あ、ああ……とりあえず、リビングへ行こう。お茶を淹れるよ」
お兄様が逃げるように車椅子を動かす。 あたしたちは、三人でリビングへと向かった。 それは、最悪のお茶会の始まりだった。やっつけてやるからな!




