鼠狩り
雨脚が強くなってきた。 俺は泥に足を取られながらも、懸命に森の中を走った。 心臓が早鐘を打ち、息が切れる。だが、足は止められない。
――ありえない。 俺は走りながら、何度も背後を確認した。 誰もいない。闇と雨だけだ。 だが、気配が消えない。 足音もさせず、枝葉が擦れる音もしないのに、何かが「すぐそこ」にいるという圧迫感だけが背中に張り付いている。
相手はただの少女だ。 いくら常軌を逸しているとはいえ、身体能力は子供のはずだ。 大人の男、それも場数を踏んだ俺が本気で走れば、追いつけるはずがない。 頭ではそうわかっている。 だが、本能が警鐘を鳴らし続けている。 『止まるな、止まったら食われるぞ』と。
俺は崖沿いの小道を選んだ。 地盤が緩く危険だが、ここを抜ければ国道に出られる。車を止めて逃げれば、俺の勝ちだ。
「……ハァ、ハァ……!」
木の根に躓きそうになりながら、俺は斜面を駆け下りた。 あと少し。あと50メートルでガードレールが見える。 助かる。
その時だった。 頭上から、クスクスという笑い声が降ってきた。
「見ぃつけた」
え? 俺が顔を上げるより早く、黒い塊が樹上から落下してきた。 ドサッ! 目の前の地面に、少女が着地する。 音もなく。膝のクッションだけで衝撃を吸収して。
パジャマ姿のまま。泥ひとつついていない裸足。 彼女は、まるで公園で遊んでいるような無邪気な顔で、逃走経路を塞いでいた。
「な……なんで、前に……!?」
俺は絶句して後ずさった。 先回りされた? あの悪路を? しかも木の上を伝って? 人間じゃない。野生動物でも、こんな動きはできない。
「おじさん、足が遅いのね」
世璃が、首をコテンと傾げた。 その口元は、まださっきの血で赤く濡れている。
「あたし、10秒数えてあげたのに。 まだこんな所にいるんだもの」
「く、来るな……!」
俺は懐から護身用のナイフを取り出した。 震える手で構える。 相手は子供だ。化け物だろうがなんだろうが、刺せば死ぬはずだ。
「どけ! どかないと刺すぞ!」
俺が叫ぶと、世璃は目を丸くした。 そして、面白そうに目を細めた。
「すごい。爪を持ってるんだ。 でもね、おじさん。 この森は、あたしの庭なの。 ここではね、あたしがルールなの」
少女の姿がブレた。 消えた? いや、速すぎる。 視界から消失した次の瞬間、俺の手首に激痛が走った。
「ぐあぁッ!?」
バキッ、という嫌な音がして、ナイフを取り落とす。 俺の手首は、ありえない方向に曲がっていた。 いつの間にか懐に入り込んだ世璃が、俺の腕をへし折ったのだ。 細い腕のどこに、そんな馬鹿力があるんだ。
「あはは! 脆いね。枯れ木みたい」
少女が笑う。 俺は泥の中に倒れ込み、折れた手首を抱えて悶絶した。 勝てない。逃げられない。 俺は、ここで死ぬ。
「た、助けてくれ……頼む……金ならある……!」
「いらないよ」
少女は俺の顔を覗き込んだ。 その瞳は、深淵のように黒く、底が見えなかった。
「お兄様を守るためにはね、目撃者は消さないといけないの。 それに、ちょうどデザートが欲しかったところだし」
少女の口が、みしりと裂ける。
怖い!なんだこれ!助けて
***
ネズミさんは、ちょっと筋っぽかったけれど、叔父様よりはずっと健康的な味がした。 あーあ、パジャマが汚れちゃった。 お兄様に叱られるかな。 でも、「お掃除」してたって言えば、きっと褒めてくれるはず。
あたしは森の土を掘り返して、食べカス(服や靴)を埋めた。
雨が土を柔らかくしてくれているから、作業はすぐに終わった。 ここには元々、たくさんの「悪いもの」が埋まっているから、一人や二人増えたところで誰も気づかない。
「ごちそうさまでした」
あたしは手を合わせて、屋敷へと戻った。
リビングに戻ると、お兄様はまだソファに座っていた。窓を開け放ったまま、冷たい風に吹かれている。
叔父様の死体は、もうそこにはなかった。お兄様が、隣の部屋の収納庫に引きずって隠してくれたみたい。
「……世璃」
あたしが窓から飛び込むと、お兄様が顔を上げた。
その顔は青白く、幽霊みたいだった。
「ただいま、お兄様。ネズミさん、いなくなったよ」
あたしはニッコリと笑って報告した。お兄様は、あたしの血まみれの口元と、泥だらけのパジャマを見て、痛ましそうに顔を歪めた。でも、責めることはしなかった。ただ静かに、手招きをした。
「おいで、世璃。 ……顔を、拭いてあげるから」
お兄様はハンカチを取り出し、あたしの顔についた他人の血を、丁寧に拭き取ってくれた。 優しくて、冷たい指先。
「お兄様、紅茶が飲みたいな」
「そうだね。……叔父さんがいなくなって、静かになったから。久しぶりに、二人でお茶にしようか」
お兄様は微笑んだ。お兄様は男なのだけど、まるで聖母様のような笑みを向けてくれる。あたしは、この笑みを向けられると胸がキュッとして、あたたかいものに満たされる。
――なんて幸せなの!――
こうして、あたしたちの城に、再び静寂が戻った。 叔父様も、ネズミもいない、とても静かで清らかな夜だ。
……どうかこれ以上、悪い奴が来ませんように。
月よ、おやすみ。
星よ、おやすみ。
おやすみなさい。お兄様。




