猫柄の恋
一.
「ああ、明日なら空いてますよ」
その人は言った。
私はほっと胸を撫で下ろした。心臓が喉の奥まで飛び出してきそうだった。声が震えていなかっただろうか。変な誘い方をしていなかっただろうか。不自然に思われていないだろうか。
「じゃあまた明日」
私は精一杯明るく言った。
「──ええ」
そこで私たちは別れた。
駅前の小さな広場。夕暮れ時の薄紫色の空の下で、その人の後ろ姿が雑踏の中に消えていくのを、私はずっと見送っていた。ショートカットの髪が夕陽に照らされて、少し茶色がかって見えた。颯爽と歩いていくその姿は、いつ見てもかっこよかった。
今日、私は勇気を出して、気になる人をお茶に誘った。
正確には、一週間前から今日のために準備をしてきた。いや、もっと前からかもしれない。その人のことを意識し始めてから、ずっと準備をしていたのかもしれない。
その人を誘う前に、十分な下調べをした。カフェの場所、カフェの口コミ、カフェの雰囲気。駅から徒歩何分か、周辺にはどんな店があるか、混雑する時間帯はいつか。スマホの画面とにらめっこしながら、夜な夜な情報を集めた。
カフェに偵察にも行った。
休日の午前中、わざわざ電車で三駅先まで行って、下見をした。駅からどれくらいの距離か。歩いていけそうか。その人を疲れさせてしまわないか。道は分かりやすいか。迷わずに案内できるか。私は方向音痴だから、何度も道を確認した。スマホの地図アプリを見ながら、実際に歩いてみた。
カフェは、外観、その人が好きそうな可愛らしい猫のクッキーが乗ったケーキがあること、お皿やコップが猫柄であること、お客さんがそんなに多くなく静かな雰囲気、その人が好きそうな猫の置き物が多いことが決め手だった。
店内に入って、実際にケーキセットを注文した。味も確かめておきたかった。コーヒーは少し酸味が強めで、ケーキは甘さ控えめ。その人は甘いものが好きだと言っていたから、きっと気に入ってくれるはずだ。
店員さんに「お一人様ですか?」と聞かれて、「ええ」と答えた時の寂しさを、私は今でも覚えている。でも、次は違う。次は、その人と一緒に来られる。そう思うと、胸が高鳴った。
そしてその人が好きそうな、猫柄のワンピース、猫モチーフのバッグ、猫モチーフのピアスを買った。
ミネモトヤマコというブランドだった。その人がSNSで時々、このブランドの服を着ている写真を載せていたのを覚えていた。私はその人のSNSを毎日チェックしていた。ストーカーみたいで気持ち悪いと自分でも思ったが、やめられなかった。
私の手取りからすると少し高い買い物だった。ワンピースだけで二万円近くした。バッグは一万五千円、ピアスは八千円。合計で四万円近く。今月の食費を削らなければならない。でもその人に気に入られるなら、私はなんでもする。
猫柄のネイルもした。ネイルサロンで、某猫ブランドのイメージでやってもらったネイルだ。普段はセルフネイルで済ませているのに、今回は奮発した。施術中、ネイリストのお姉さんが「デートですか?」と聞いてきた。「まあ、そんなところです」と曖昧に答えた。デート、なのだろうか。友達としてのお茶、なのだろうか。私にも分からなかった。
話題も考えてある。その人が好きそうな猫の話題。
近所で飼われている、猫のミーヤちゃんのこと。三毛猫で、とても人懐こい猫だ。散歩中によく遭遇する。住んでる場所に猫カフェがあってたまに行くこと。これは話題作りのために何度か通った。本当は犬派の私にとって、猫カフェは少し居心地が悪かった。でも、その人のためなら、猫派になれる気がした。
近くの動物園でマヌルネコが見られること。そしてそれを口実に次の約束も取り付けるつもりだ。完璧な計画だと、自分では思っていた。
今から私の心臓はバクバクと爆発しそうに脈打っている。
帰りの電車の中でも、心臓の音が周りに聞こえてしまうのではないかと思うほど、激しく鼓動していた。スマホを握りしめて、明日の天気予報を何度も確認した。晴れ。よかった。雨だったらどうしようかと、何度も心配していた。
明日。今日は明日の準備を念入りにする。
家に帰ると、すぐにクローゼットを開けた。明日着るミネモトヤマコのワンピースを取り出して、ハンガーにかけた。シワがないか、何度も確認した。バッグの中身も確認した。財布、スマホ、ハンカチ、ティッシュ、リップクリーム、ミラー、モバイルバッテリー。
忘れ物をしないように。何かあった時のための諸々の準備。絆創膏も入れておこう。靴擦れするかもしれない。新しく買った靴だから。でも、その人の前でかっこ悪い姿は見せられない。
明日は早起きして、念入りに化粧をして早めに家を出よう。
約束は10時に駅前で。カフェのオープンも10時だ。9時45分には駅に着いているようにしよう。いや、9時半には着いていたい。早すぎるだろうか。でも、遅刻だけは絶対にできない。
私は、明日のために今日は早めに寝ることにした。
着るものもバッグも持ち物も完璧。あとは明日さえうまくいけば。「今度、一緒にマヌルネコを見に行きませんか?」と次の約束を取り付けることができれば。
私は上手くやれるだろうか。
そう思うとなかなか寝付けなかった。布団の中で何度も寝返りを打った。私が話すだけじゃ駄目だ。相手の話も、ニコニコと笑って楽しそうに聞くこと。鏡の前で笑顔の練習をした。不自然じゃないだろうか。引きつっていないだろうか。
そう言い聞かせて私はいつの間にか眠りに落ちた。
二.
次の日。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。時計を見ると、朝の六時だった。約束の時間まで、まだ四時間もある。でも、もう眠れなかった。
シャワーを浴びて、念入りに髪を乾かした。前髪の分け方を何度も変えてみた。どっちが可愛く見えるだろうか。その人に気に入ってもらえるだろうか。
化粧には一時間かけた。ファンデーションは薄めに。チークは控えめに。リップは少し明るめの色。アイラインは跳ね上げないで、優しい印象になるように。何度も鏡を見た。完璧、とは言えないけれど、今の私にできる最高の仕上がりだった。
ワンピースを着て、ピアスをつけて、バッグを持った。全身鏡の前に立って、何度も確認した。おかしくないだろうか。変じゃないだろうか。
八時に家を出た。早すぎたかもしれない。でも、遅刻するよりはましだ。
約束の時間より早く駅に着いた私は、ソワソワとその人を待った。
駅前のベンチに座って、スマホを見たり、周りを見渡したり、落ち着かなかった。時計を見る。まだ九時四十五分。まだ十五分もある。長い。とても長い。
その人は時間の十分前にやって来た。
遠くから、その姿が見えた。ショートカットの髪。颯爽と歩いてくる姿。心臓が、また激しく鼓動し始めた。
そういうところも好感が持てる。時間をきちんと守る人。いや、十分前に来るなんて、時間を守るだけじゃなくて、相手を大切にしている証拠だ。
「──お待たせしてすみません」
その人が言った。少し息を切らしていた。走ってきたのだろうか。
「いえ、私も今来たところです」
嘘だった。三十分も前から待っていた。でも、そんなこと言えない。お約束の言葉が口をついて出る。
その人は言って、すぐ、
「あれ?そのワンピ、お揃いですね」
と言った。
え?
本当だ。色違いで、私たちはお揃いのワンピースだった。私のは白地に黒い猫の柄。その人のは黒地に白い猫の柄。まるで、ネガとポジのような、対照的な色合い。でも、確かに同じデザイン。
「ミネモトヤマコ、良いですよね。かわいくて」
その人が言う。
私はそのブランドを買ったのは今回が初めてだったのだが、つい知った被りをしてしまう。その人と話を合わせたかった。その人と同じ世界にいたかった。
「そうなんですよね。かわいくていつもついつい新作を見に行っちゃいます」
「──私もです」
その人は微笑を浮かべてそう言った。その笑顔に、私の心臓はまた跳ねた。
「それじゃ、行きましょうか」
その人が言う。
「は、はい!」
声が少し裏返ってしまった。恥ずかしい。
──緊張する。
ちゃんと案内できるだろうか。下調べは完璧にしたはずだが、私は方向音痴だ。何度も下見に来たけれど、本当に覚えているだろうか。
「丸山さんの行きつけのカフェ、とっても楽しみです」
誘う時、私はまたまた見栄を張って、私の行きつけのカフェ、ということにしていた。本当は一回しか行ったことがないのに。
「すっごくかわいくて、落ち着くカフェなんです。山本さんにもきっと気に入ってもらえると思います」
私は心臓をバクバクさせながら答えた。
「丸山さんがそう仰るなら、間違いないですね。楽しみ」
その人──山本彩さんは言った。
歩きながら、山本さんは私のコーデを褒めてくれた。
「そのバッグも素敵ですね。ミネモトヤマコの新作ですよね。私も欲しいな」
本当に?本当に素敵だと思ってくれているのだろうか。お世辞じゃないだろうか。でも、山本さんの目は嘘をついているようには見えなかった。
「ちょっと奮発しちゃいました……」
私は顔を真っ赤にさせて俯いた。本当は貴女に気に入られたくて無理をして買った、だなんて言えない。今月の食費、かなり削らなきゃいけないなんて、言えない。
「ピアスもネイルも素敵。ミネモトヤマコのデザインに似てる。ミネモトヤマコ、好きなんですね」
「え、ええ……」
本当は、貴女が好きだから、貴女の好きなものを好きになろうとしているだけ、なんて言えない。
「私も大好き。でもなかなかお高くて手が出ないんですよね。ボーナスでたまに買うくらい」
「──私もです」
ここは同調しておこう。本当は、今回初めて買ったなんて言えない。
「ミネモトヤマコの新作の財布、素敵ですよね。私、次はあれを狙ってるんです」
山本さんは言った。
しばらくミネモトヤマコの話題で盛り上がった。私はミネモトヤマコについて調べておいて良かった、と思った。昨夜、眠れなくて、スマホでミネモトヤマコの公式サイトを何度も見返していた。新作のラインナップ、デザイナーのインタビュー、ブランドのコンセプト。全部頭に入れた。
そうこうしているうちに件のカフェに到着した。
「わぁ、素敵ー!」
山本さんが歓声を上げる。
よかった。気に入ってもらえた。山本さんが好きそうな外観のカフェを選んで良かった。猫の耳をモチーフにした屋根、絵本に出てきそうな、かわいらしい外観。パステルカラーの壁に、手描き風の猫のイラスト。
「きっと中も気に入っていただけると思います」
私は言った。自信満々に言ったつもりだったけれど、声が少し震えていた。
案の定、カフェの中でも山本さんは目をキラキラさせていた。
「素敵!こんなカフェがあったんですね!さすが丸山さんです!」
「そんな、そんなことはないです……」
貴女のため、貴女が好きそうなカフェを必死で探したのだとは言えなかった。何時間もスマホで検索して、レビューを読み漁って、実際に足を運んで確認したなんて、言えない。
店内は、予想通り空いていた。オープン直後だからだろうか。お客さんは他に二組だけ。静かで、落ち着いた雰囲気。猫の置き物が棚に並んでいて、壁には猫の絵が飾られている。BGMは静かなジャズ。完璧だ。
山本さんは案の定、猫のクッキーの乗ったケーキとコーヒーのセットを注文し、私も同じものを注文した。
本当はコーヒーよりも紅茶の方が好きなのだが、山本さんに合わせた。
「丸山さんも猫好きなんですね!知らなかったな。嬉しい!」
山本さんが嬉しそうに言った。その笑顔が眩しくて、私は目を細めた。
「……私も嬉しいです」
私はどちらかといえば犬派なのだが、貴女のためなら猫派に変わってもいい。いや、もう変わっている。猫カフェにも通ったし、猫の本も読んだ。猫のことなら、それなりに話せるようになった。
三.
しばらく、山本さんの飼っている猫の話をニコニコしながら聞いた。鏡の前で練習した笑顔を、私は精一杯浮かべていた。頬が少し痛くなってきたけれど、気にしない。
ケーキセットが運ばれてくる間に、私は山本さんの新たな情報を手に入れた。
山本さんは猫を二匹飼っていて、どちらもメス。名前は、「あきた」と「こまち」。
なんでお米の名前?と思ったが、口には出さなかった。でも、山本さんは私の疑問を察したのか、笑いながら説明してくれた。
どうやら山本さんの父親が勝手に名付けたらしい。自分が知り合いから貰ってきたから、自分に命名権がある、と言って。お米の名前にしたのは、山本さんの父親が、お米を、それも、あきたこまちを愛しているからだった。
「単純でしょ?うちの親父」
苦笑まじりに山本さんが言った。でも、その表情は優しかった。父親のことを、愛しているのが分かる表情だった。
「いえ、かわいらしい名前でいいじゃないですか」
私はニコニコしながら言った。本当にそう思った。あきたとこまち。覚えやすくて、かわいい名前だ。
「あきたは少しツンデレで、こまちは甘えん坊なんです」
山本さんは楽しそうに話してくれた。あきたは黒猫で、こまちは茶トラ。あきたは普段はそっけないけれど、夜になると山本さんの布団に潜り込んでくる。こまちはいつも山本さんの後をついて回る。
「私も猫、飼いたいなあ」
そう、言っておく。本当は、犬が飼いたい。昔飼っていた犬のことを思い出す。でも、その話はしたくなかった。
「飼ったらいいじゃないですか、って言いたいところだけど、難しいところもあるよね。命を預かるって簡単なことじゃないもの」
そういうところも山本さんの良いところだ。軽々しく「飼えば?」なんて言わない。命の重さを分かっている。
「そうなんですよね。私、命を預かる自信がないです」
昔、飼っていた犬を死なせてしまった。
正確には、外に繋がれていた犬に気づかず、父が車をバックさせて轢いてしまったのだ。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。悲鳴。血。動かなくなった犬。泣き叫ぶ私。青ざめる父。
それ以来、私は動物を飼っていない。飼う勇気がない。また失うのが怖い。
でもそんな悲しい話、山本さんには聞かせたくなかった。山本さんとはもっと楽しい話がしたい。山本さんの好きなことをもっと知りたい。
ケーキセットが運ばれてきた。
「わあ!かわいい!」
山本さんが小さく歓声を上げる。
白いお皿の上に、ふわふわのスポンジケーキ。その上に、猫の形をしたクッキーが乗っている。クッキーには、チョコレートで顔が描かれていて、とても愛らしい。コーヒーカップも猫柄で、持ち手が猫の尻尾の形になっている。
山本さんは早速スマホを取り出して写真を撮り始めた。いろんな角度から、何枚も。私も、スマホで写真を撮った。本当は、山本さんの笑顔も撮りたかった。でも、そんなこと言えない。
「山本さん、SNSとかやってるんですか?」
「やってますよ。こうして、食べたものとか、かわいいものを見つけたら、つい写真に撮ってSNSにアップしちゃいます」
今時の若者らしく、山本さんは答えた。
「私も実はやってて……」
私は知っていた。山本さんのアカウントを、ずっと見ていたから。でも、それは言えない。
私たちはSNSのアカウントを教え合った。
予想もしなかった進展だ。心臓が、また激しく鼓動し始めた。これで、山本さんとSNSで繋がれる。山本さんの投稿に、いいねができる。コメントができる。
私は内心、有頂天だった。
ケーキを食べながら、私たちは色んな話をした。好きな食べ物のこと。休日の過ごし方のこと。最近読んだ本のこと。山本さんは、やっぱり猫の本が好きだと言った。私が勧めた本も、全部読んでくれたと言った。
「丸山さんのおすすめ、全部面白かったです。ありがとうございました」
山本さんが言った。その言葉が、とても嬉しかった。私が選んだ本を、山本さんが読んでくれた。それだけで、幸せだった。
時間はあっという間に過ぎていった。気がつけば、もう十二時を過ぎていた。二時間も、ここにいたのだ。でも、もっといたかった。もっと山本さんと話していたかった。
「今日は本当に楽しかったです!ぜひまたご一緒させてください」
山本さんが言う。
「もちろんです!あ、あの、山本さんは、マヌルネコって知ってますか?」
「もちろん知ってますよ。よく見に行きます」
よく行っているのか……。猫好きなら当たり前か。そうだよな。
少し萎んだ気持ちになったが、私は言った。
「よかったら、今度一緒に見に行きませんか?」
「いいですね!行きましょう!」
山本さんは快く了承してくれた。
私は内心、ほっとした。次がある。また、山本さんと会える。
「じゃあ、また」
私たちは駅で別れた。
山本さんの後ろ姿を、また見送った。人混みの中に消えていく、その姿を。もっと一緒にいたかった。でも、また次がある。そう思うと、少し寂しさが和らいだ。
四.
山本さんとは、職場で出会った。
……と言っても同僚ではない。店員と客としてだ。
私は本屋で働いている。駅前の小さな本屋。大型書店には敵わないけれど、常連さんに愛されている、アットホームな本屋だ。
山本さんはお客様だった。
最初に見かけたのは、三ヶ月前だった。
「あの、猫を題材にした本ってありますか?」
山本さんに尋ねられ、私は、
「小説ですか?図鑑みたいなものですか?」
と尋ねた。
「小説です」
正直、困った。
猫を題材にした小説など、世の中にごまんとあるからだ。『吾輩は猫である』に始まり、いろいろとある。でも書店に猫コーナーなんてものはない。文学コーナーにも、児童書コーナーにも、エッセイコーナーにも、猫の本は散らばっている。
「いろいろとありますけれど、どういった内容がお好みですか?」
私は丁寧に尋ねた。お客様の要望を正確に把握することが、良い接客の第一歩だ。
「できれば、ハッピーエンドがいいです。猫が幸せになるお話」
山本さんは言った。その目は、真剣だった。本当に、猫が好きなんだな、と思った。
「でしたら、これとかこれがおすすめです」
私が勧めたのは私の好きな作家の新作だった。一冊は、野良猫が優しい人に拾われて幸せになる話。もう一冊は、猫の視点で描かれた、人間との心温まる交流の話。どちらもハッピーエンドで、読後感が良い。
「じゃあ、これにします」
山本さんは私のおすすめを二冊とも購入して去っていった。
ショートカットで、人懐こい少年のような印象を抱いた。颯爽と去っていく後ろ姿はとてもかっこよかった。そして、少し寂しかった。もっと話したかった。どんな人なんだろう、と思った。
それから何度か職場で遭遇するようになった。
週に一度くらいのペースで、山本さんは来店した。そして、必ず私に声をかけてくれた。
「また、猫の本でおすすめありますか?」
「新しく入荷した本で、こちらがおすすめです」
そんなやり取りを繰り返すうちに、私は山本さんのことが気になるようになっていた。
山本さんが購入するのは必ず猫の本だった。小説、エッセイ、写真集。ジャンルは問わず、猫が出てくる本なら何でも読むようだった。
私はだんだん山本さんに惹かれていく自分に気がついた。
理由はうまく説明できない。ただ、山本さんと話していると、楽しかった。山本さんの笑顔を見ると、嬉しかった。山本さんのことをもっと知りたいと思った。
女性が女性を好きになるのは、おかしなことだろうか。
人が人を好きになるのはおかしなことではないはずだ。
でも、私は戸惑っていた。今まで、こんな感情を抱いたことがなかった。男性に対してすら、こんな風に思ったことはなかった。
私はそれまで人を好きになったことがなかった。この感情が恋なのかすら分からなかった。ただ、この人とお近づきになりたい、そう思っていた。
親友の美保子に相談したら、「そりゃ、恋っしょ!」と言われた。
美保子は大学時代からの友人で、何でも話せる仲だった。居酒屋で、ビールを飲みながら、私は山本さんのことを話した。
「毎日、その人のことばかり考えてるんでしょ?その人のことを知りたくて仕方がないんでしょ?それって、恋だよ」
美保子は断言した。
そうなのだろうか。
美保子曰く、毎日、相手のことばかり考え、相手のことを知りたい、自分のものにしたい、と言う感情は「恋」らしい。
確かに私はあの人のことを知りたくて仕方がなく、あわよくば自分のものにしたい、と思ってしまうまでになっていた。
朝起きたら、山本さんのことを考える。仕事中も、山本さんが来店しないかと、入り口をチラチラ見てしまう。夜寝る前も、山本さんのことを考える。山本さんのSNSをチェックして、どんな一日を過ごしたのか想像する。
自分が最近話題のLGBTQだとは微塵も思っていなかったから、自分でもびっくりしていた。
でも、ラベルなんてどうでもいい。大切なのは、この感情が本物だということ。山本さんのことが好きだということ。
その人のために猫の本を読み漁り、すぐにお勧めできるようにした。
仕事の合間に、猫の本を読んだ。休日も、図書館に行って、猫の本を読んだ。猫の生態、猫の歴史、猫が出てくる文学作品。全部、山本さんのためだった。
やがて、その人と年齢が同じだということ、近くに住んでいること、などが判明し、今回、思い切ってお茶に誘ったのだった。
会計の時に、何気なく話しかけた。
「この辺りにお住まいなんですか?」
「ええ、駅から三つ先の駅です」
「私もその辺りに住んでるんです」
「本当ですか? 奇遇ですね」
そんな会話を重ねるうちに、山本さんは二十八歳で、私と同い年だということも分かった。
店員とお客様じゃなくて、まずは友人になりたい。そう思った。
そして、勇気を出して、お茶に誘った。
一緒にカフェでお茶をした。
これはもう友人ということでいいのではないだろうか。
私は少しうきうきしながら帰路についた。
電車の中で、ずっとニヤニヤしていた。隣に座っている人に変な目で見られたかもしれない。でも、気にしなかった。幸せだった。
でも後になって、あのときこう言えばよかった、ああ言えばよかった、という後悔がドッと押し寄せてきた。
もっと面白い話をすればよかった。もっと山本さんを笑わせればよかった。緊張して、あまり上手く話せなかった気がする。
山本さんは変に思わなかっただろうか。不快に感じなかっただろうか。
不安で心の中がいっぱいになる。
その時、山本さんからメッセージが来た。
スマホの画面に、山本さんの名前が表示された。心臓が、また跳ねた。
『今日は楽しかったです。ありがとうございました。また行きましょう(^^)♪』
最後の『(^^)♪』マークに救われた気分になりながら、私はすぐに返信を打った。
『こちらこそ楽しかったです!ありがとうございました。ぜひ、またご一緒してくださったら嬉しいです♪』
絵文字をつけるか迷って、山本さんがつけていなかったので、つけなかった。いや、でも最後に♪はつけた方がいいかな、と思って、つけた。
次がある。
きっと。次がまたある。
それは嬉しいことだ。幸せなことだ。
五.
だが、それは叶わなかった。
一週間後のことだった。
休日、買い物のために街に出た私は、偶然、山本さんを見かけた。
駅前の広場。人混みの中。ショートカットの髪が、すぐに目に入った。
山本さんだ。
声をかけようとして、私は固まった。
山本さんが、男性と腕を組んで歩いているところを偶然見かけた。
二人は親しそうだった。山本さんは笑っていた。男性も笑っていた。二人は、とても仲が良さそうだった。恋人同士、にしか見えなかった。
私は、その場から動けなくなった。
山本さんの左手の薬指に指輪がないことで、安心しきっていたのだが、そうか、山本さんに恋人がいないなんて、そんな保証はどこにもなかったのだ。
馬鹿だった。
山本さんみたいに素敵な人に、恋人がいないわけがない。私が勝手に期待していただけだった。
私はもう山本さんに連絡を取ることができなくなった。
マヌルネコに一緒に行く約束。どうしよう。でも、もう連絡できない。恋人がいる人を、デートに誘うなんて、できない。
山本さんからの連絡もなかった。
あれから、山本さんからメッセージは来なかった。SNSの投稿も、しばらくなかった。
私たちの関係は、友人関係も含めて、終わってしまったのだと思う。
山本さんは、いつの間にか私の職場に来なくなった。
一ヶ月待った。二ヶ月待った。でも、山本さんは来なかった。
どうやら引っ越したようだった。
SNSのプロフィールが更新されていた。住んでいる場所が、隣県に変わっていた。
ああ、もう会えないんだ。
そう思ったら、涙が溢れてきた。
山本さんとお揃いのミネモトヤマコのワンピース。ミネモトヤマコのピアスとバッグ。ミネモトヤマコの財布も、結局買ってしまっていた。山本さんが欲しいと言っていたから。
全部、無駄になった。
私は帰宅して、おいおい泣いた。
クローゼットを開けて、ミネモトヤマコのワンピースを見た。あの日、山本さんと一緒に着た、白地に黒い猫のワンピース。もう着ることはないだろう。
売りに行こう。ミネモトヤマコのもの、猫モチーフで揃えたもの。
バッグも、ピアスも、財布も、ワンピースも。全部売ろう。見ているだけで、辛い。
山本さんと同じにしたくて切り揃えた髪さえ見たくなかった。また伸ばそう。
鏡を見た。ショートカットの髪。山本さんと同じ髪型。美容院で、「短くしてください」と言って切ってもらった髪。
全部、リセットしよう。
でも、この感情は、リセットできない。
山本さんのことが好きだった。今でも好きだ。
この恋は、叶わなかった。でも、後悔はしていない。山本さんと出会えて、山本さんと話せて、山本さんと笑い合えて、それだけで幸せだった。
涙を拭いて、私は立ち上がった。
明日から、また普通の日々が始まる。本屋での仕事。日常。
でも、私は変わった。人を好きになるということを、知った。
次は、もっと上手くやれるかもしれない。
いや、もう恋はしないかもしれない。
でも、それでもいい。
私は、山本さんを好きになれて、よかった。
ミネモトヤマコのワンピースを、もう一度見た。そして、クローゼットに戻した。
まだ、売らない。
もう少しだけ、この恋の余韻に浸っていたい。
猫柄のワンピース。猫モチーフのバッグ。猫モチーフのピアス。
全部、山本さんとの思い出だ。
大切にしよう。
いつか、笑って思い出せる日が来るまで。




