表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もしもシステムエンジニアが老子を学んだら---無為のデバッグ —— デスマーチを生き抜く「タオ」のエンジニアリング  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/7

第6章:無為の要件定義

会議室の空気は、張り詰めた弓の弦のように緊張していた。 上座に座る五十嵐の顔は怒りで赤黒く変色しており、その横に控える補佐官たちは青ざめて下を向いている。 対するSデータ側のPM佐藤は、すでにパニック状態で、ハンカチを握りしめた手が小刻みに震えていた。


「どういうことだね! 三日経っても画面が表示されないとは! 国民を愚弄しているのか!」


五十嵐の怒声が、防音壁を突き抜けるほどの音量で響いた。 机を拳で叩く音。書類が舞う音。 相馬は、その嵐の正面に座っていた。 以前の彼なら、ここで「論理的な反論」を展開していただろう。「御社の要件変更が原因です」「サーバーリソースの調達が遅れたのはそちらの手続きの問題です」と。 それは正しい。正論だ。 だが、正論は鋭い刃物だ。相手を傷つけ、態度を硬化させ、泥沼の戦争を招くだけだということを、相馬は痛いほど学んでいた。


(戦うな。受け流せ)


相馬はテーブルの下で軽く拳を握り、そして開いた。 力を抜く。 彼は五十嵐の目を真っ直ぐに見つめ、しかし敵意は込めず、静かな声で言った。


「仰る通りです。ご不便をおかけし、申し訳ありません」


反論を予期していた五十嵐は、出鼻をくじかれたように一瞬言葉を詰まらせた。


「あ、謝って済む問題じゃないんだよ! 我々が求めているのは結果だ! 『心』のある対応だと言っただろう!」 「はい。その『心』について、深く考えさせていただきました」


相馬はゆっくりと、まるでカウンセラーのように語りかけた。 老子の『無為』。 それは何もしないことではない。 相手の力に逆らわず、相手の望む方向へ導くこと。


「五十嵐様が真に懸念されているのは、画面が出ないことそのものよりも、その先にある『国民からの信頼失墜』ではないでしょうか?」


五十嵐の眉がぴくりと動いた。


「……当たり前だ。このシステムは大臣肝煎りのプロジェクトだ。失敗すれば、私の首が飛ぶ……いや、省のメンツが丸潰れだ」 「ご心中、お察しします。我々も、五十嵐様の顔に泥を塗るような真似は決してしたくありません」


相馬は手元の資料を開いた。そこには、複雑な技術用語は一切書かれていなかった。ただ一つのシンプルな図と、スケジュール線だけ。


「現在、全機能を一度に復旧させようとして、システムが消化不良を起こしています。これは、五十嵐様が仰った『柔軟性』を欠いた、我々の硬直した設計ミスです」


自らの非を認める。 隣で佐藤が「おい、何を言うんだ」という顔でギョッとしたが、相馬は無視した。 相手が攻めてくる勢いを利用して、こちらの土俵へ引き込む。


「そこで、ご提案があります。まずは、最も利用頻度の高い『申請受付機能』だけを、明日の朝までに確実に動かします。検索や閲覧機能は、その三日後。段階的な公開ロールアウトとさせていただけないでしょうか」 「……全機能リリースが契約条件だったはずだ」 「はい。ですが、全機能を揃えるためにさらに一週間停止させるのと、明日から主要業務だけでも再開させるのと、どちらが国民の皆様にとって『誠実な対応』と映るでしょうか」


五十嵐は黙り込んだ。 彼の怒りの根源は「不安」だ。いつ動くか分からない恐怖。 相馬は、その不安に対して「明日」という具体的な解と、「国民のため」という五十嵐が最も重視する(あるいは重視していると見せかけたい)大義名分を提示したのだ。


「……明日の朝、本当に動くんだな?」 「はい。そのために、不要な機能を一時的に切り離す許可をください。それが、システムに呼吸をさせるための『余白』となります」


五十嵐は数秒間、相馬の目を探るように見つめ、やがて大きく息を吐き出した。


「……分かった。申請機能だけでいい。明日の朝だぞ。もし動かなかったら、君たちの会社ごと出入り禁止にするからな」 「承知いたしました。ありがとうございます」


相馬が深く頭を下げると、五十嵐は荒々しく席を立ったが、その背中からは先ほどまでの殺気は消えていた。 会議室に静寂が戻る。 佐藤がへたり込むように椅子に崩れ落ちた。


「お前……あんな約束して大丈夫なのか!? 全機能リリースじゃなきゃ検収下りないぞ!」 「検収より、まずは信頼の回復です。それに、機能を絞ればリソースに余裕ができる。勝算はあります」


相馬の手のひらは汗で濡れていた。 だが、心は不思議と澄んでいた。 これが『無為』の交渉。 相手を打ち負かすのではなく、相手のエネルギーを利用して、共に着地点タオへ降り立つ技術。


「さあ、現場に戻りましょう。不要な機能を削ぎ落とす作業(断捨離)が待っています」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ