第5章:上善如水のエラーハンドリング
オフィスに戻った相馬を迎えたのは、嵐のような騒音ではなく、墓場のような静寂だった。 時刻は午後二時。 本来なら最も活気があるはずの時間帯だが、フロアにいるエンジニアたちは一様に死んだ魚のような目をしている。キーボードを叩く音すら、どこか弱々しく、諦めに満ちていた。 以前の相馬なら、この弛緩した空気に苛立ち、「手を止めるな」と怒鳴りつけていただろう。 だが、今の彼の胸には、昨夜の玄の言葉が、冷たい水のように静かに溜まっていた。
『水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る』
水は、誰もが行きたがらない低い場所へあえて流れる。だからこそ、すべての生命を養うことができる。 相馬は深呼吸をし、自分のデスクではなく、最もトラブルが集中しているサーバー監視チームの島へと足を向けた。そこは「汚物処理班」と陰口を叩かれる、誰もが避けたがる場所だ。
「……状況は?」
相馬が声をかけると、入社三年目の若手、田所がビクリと肩を震わせた。彼は充血した目で相馬を見上げ、反射的に謝罪の言葉を口にしようとした。
「す、すみません! ログ解析が遅れていて……その、原因が特定できなくて……」 「謝らなくていい」
相馬は田所の隣にしゃがみ込んだ。目線の高さを合わせる。いつもなら立ったまま腕を組み、モニターを見下ろしていた彼にとっては、あり得ない姿勢だった。
「ただ、今のステータスを知りたい。何が詰まっている?」 「え……あ、はい。エラーログが膨大すぎて、正規表現でフィルタリングしても、どれがクリティカルなのか……」 「見せてくれ」
相馬は田所のキーボードを奪うのではなく、彼の手元を覗き込んだ。画面には、赤色のエラーメッセージが滝のように流れている。 論理的に考えれば、これは設計の敗北だ。だが、相馬はぐっと言葉を飲み込んだ。 (水になれ。障害物にぶつかったら、形を変えて流れろ)
「田所。このログの洪水を受け止める必要はない。水抜き穴を探そう」 「水抜き、ですか?」 「ああ。この『Transaction Timeout』のエラー。これは結果であって原因じゃない。これを除外して、その直前に出ているワーニングだけを抽出してみてくれ」
田所はおずおずとコマンドを打ち込む。 滝のようなログが止まり、数行のメッセージだけが浮かび上がった。
『DB Connection Pool Exhausted』
「……コネクションプール枯渇?」田所が呆然と呟く。「でも、設定値は最大のはずです」 「ああ。だが、アプリ側でセッションをクローズし忘れている箇所があるのかもしれない。……田所、よくやった。このワーニングを見つけ出したのは大手柄だ」
相馬が田所の肩を軽く叩くと、若手の顔に血の気が戻り、次いで驚きと安堵が混じったような表情が浮かんだ。 相馬に褒められたことなど、一度もなかったからだ。
「ぼ、僕がソースコードを洗います! どの処理がコネクションを掴んだままか、心当たりがあります!」 「頼む。……無理はするなよ」
田所が猛烈な勢いでキーボードを叩き始めたのを見て、相馬は立ち上がった。 不思議な感覚だった。 怒鳴らず、急かさず、ただ相手と同じ低い位置に立っただけで、問題解決の糸口が見つかった。 (これが……低いところに処る、ということか)
だが、感傷に浸っている暇はなかった。 背後で、PMの佐藤が大声を上げながら走ってきたからだ。
「相馬! 大変だ! 五十嵐さんが……A省の五十嵐さんが、今から怒鳴り込んでくるぞ!」




