第4章:崩壊の序曲と再起動
翌日からのプロジェクト「フェニックス」は、まさに火の鳥が自らを焼き尽くすかのような様相を呈した。 井口の離脱はドミノ倒しの最初の一枚に過ぎなかった。彼の担当していたモジュールのバグが、結合テストで他のシステムを巻き込んで爆発したのだ。 データベースのデッドロック。 APIの応答遅延。 そして、バックアップ処理の失敗。
「相馬さん! バッチ処理が終わってません! 朝の業務開始に間に合いません!」 「DBサーバーのCPU使用率が100%に張り付いたままです!」 「A省から電話です! 画面が出ないぞって怒鳴ってます!」
オフィスは戦場と化した。怒号と悲鳴が飛び交い、電話のコール音が絶え間なく鳴り響く。 相馬は司令塔として中央のデスクに座り、三台のモニターを監視しながら矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
「DBのインデックス再構築を中止しろ! まずはセッションを切断だ!」 「ログレベルをERRORのみに変更! ディスクI/Oを減らせ!」 「五十嵐さんには『ネットワーク障害』と伝えておけ! アプリのバグだと認めるな!」
だが、いくら指示を出しても、火の手は収まるどころか広がっていく。 根本的な設計ミスではない。 つぎはぎだらけの修正、疲弊したエンジニアによるヒューマンエラー、そして恐怖による報告の遅れ。 システム的な問題の裏には、常に組織的な病巣があった。
(なぜだ……なぜ動かない……)
相馬の目の奥が熱く痛み出した。視界がぼやける。 コードは正しいはずだ。論理は完璧なはずだ。 それなのに、現実はカオスだ。
ふと、昨夜の玄の言葉がフラッシュバックした。 『グラスが役に立つのは、そこが空っぽだからだ』
今のチームには余裕がない。 時間的余裕も、精神的余裕も。 相馬自身が、全てをコントロールしようとして、全員の「考える余地」を奪っていたのではないか。 指示待ち人間を作り出し、その指示が追いつかなくなった瞬間、組織は死ぬ。
「……あ」
モニターの中で、サーバーのステータスを示すアイコンが、次々と赤色に変わっていく。 それはまるで、相馬の敗北を告げるイルミネーションのようだった。
「相馬さん……?」
部下のひとりが、呆然としている相馬に声をかけた。 相馬はゆっくりとヘッドセットを外した。 手は震えていた。 彼は、自分が作り上げた「最強の要塞」が、自重に耐えきれずに崩れ落ちる音を聞いた。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「えっ、でも、トラブル対応は……」 「俺がここにいても、状況は変わらない。頭を冷やす必要がある」
それは職場放棄に近かった。だが、今の精神状態でキーボードを叩けば、システムを破壊しかねないという恐怖があった。 相馬は逃げるようにオフィスを出た。
昼下がりのビジネス街。 ランチタイムの会社員たちが、談笑しながら通り過ぎていく。彼らの平和な日常と、自分の背後にある地獄とのギャップに、眩暈を覚えた。
足は自然と、昨夜の路地裏へと向かっていた。 昼間の「無為」は、夜とは違って廃墟のように静まり返っていた。 鍵は開いていた。 相馬が階段を下りると、玄はカウンターで豆の選別をしていた。
「……早いお出ましだな。外はまだ明るいぞ」
玄は相馬の顔を見るなり、すべてを悟ったような目で言った。
「顔色が悪い。死相が出ておる」 「……システムが、死にました」
相馬は力なくカウンターに突っ伏した。
「俺の論理が、敗北したんです。何もかも、うまくいかない。俺は……無能だ」
プライドの塊だった相馬の口から、弱音がこぼれ落ちた。 玄は豆の選別を止め、静かに言った。
「敗北を知ることは、始まりじゃ。強すぎる弓は折れる。お主は折れたのじゃよ。それでいい」 「……慰めはいりません」 「慰めではない。事実じゃ。『柔弱は剛強に勝つ』。老子の第七十八章じゃ」
玄は温かい茶を差し出した。湯気と共に、香ばしい匂いが漂う。
「固い岩も、滴り落ちる水には穿たれる。お主は今まで、岩として生きすぎた。これからは水として生きる術を学ぶ時じゃ」 「水として……生きる?」 「そうじゃ。抵抗せず、形を変え、低いところへ流れ、しかし最後には大海へと至る。それが最強のシステム(道)じゃ」
相馬は茶を啜った。 温かさが、凍りついた内臓に染み渡っていく。 論理では説明できない安らぎが、そこにはあった。
「教えてくれ、爺さん……いや、玄さん」
相馬は顔を上げた。その目には、まだ消えぬ光があった。
「その『老子』とやらを使えば、あのデスマーチを止められるのか?」 「さあな。だが、少なくとも、お主自身を救うことはできるかもしれん。そしてリーダーが変われば、風向きも変わるものじゃ」
玄はニヤリと笑った。
「まずは『無為』の実践からじゃな」 「無為? 何もしないということか?」 「違う。『作為を捨てて、自然の理に従う』ことじゃ。無理やり動かすのではなく、動くように整える。……さあ、講義を始めるぞ。授業料は高いぞ?」
相馬は初めて、微かに笑った気がした。
「……出世払いで頼む」
こうして、論理の鬼・相馬と、哲学の賢者・玄による、奇妙なデバッグ作業が幕を開けた。 ターゲットは、崩壊寸前のプロジェクト『フェニックス』。 武器は、二千五百年前の思想。 果たして、デスマーチという現代の病魔に、タオ(道)は通用するのか。 物語は、まだコンパイルされたばかりだ。




