第3章:論理的破綻と逃走
午後十時。 相馬は雨の降る路上に立っていた。 アスファルトを叩く雨音が、耳鳴りのようにこびりついたサーバーのファンの音を洗い流していく。 傘は持っていなかった。冷たい雨がスーツを濡らし、肌に張り付く感触が、逆に心地よかった。オフィスの空調で乾燥しきった皮膚が、水分を求めていた。
「帰ろう」
そう思ったはずなのに、足は駅とは反対方向へ向いていた。 家に帰っても、待っているのは冷えた部屋と、未読メールが溜まったタブレット端末だけだ。 眠れば夢を見る。バグだらけのコードに追いかけられる夢を。
新宿の雑踏を抜け、古い雑居ビルが立ち並ぶ路地裏へ迷い込む。 極彩色のネオンが水たまりに反射し、歪んだ光の模様を描いていた。 酔っ払いの叫び声。客引きの甘い囁き。換気扇から吐き出される油の匂い。 ここはカオスの世界だ。0と1で整理されていない、生の人間が蠢く場所。普段の相馬なら眉をひそめて通り過ぎる場所だが、今の彼には、この無秩序さが救いのように感じられた。
一軒の古びたビルの前で、足が止まった。 地下へと続く狭い階段の入り口に、小さな木の看板が立てかけられている。 電飾はなく、ただ墨で一文字、こう書かれていた。
『無為』
店名だろうか。営業しているのかどうかも分からない。 だが、その文字の筆致には、奇妙な引力があった。力強くもあり、同時に力が抜けているようでもある。 相馬は吸い込まれるように、湿ったコンクリートの階段を下りていった。
重い木の扉を開けると、カウベルが低く、乾いた音を立てた。 店内は薄暗かった。 照明はカウンターの奥にある裸電球一つだけ。そのオレンジ色の光が、店内に充満する紫煙を照らし出し、幻想的な層を作っていた。 客はいない。 カウンターの中には、一人の老人がいた。 白髪交じりの長い髪を後ろで束ね、色の褪せた作務衣を着ている。年齢不詳。顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は驚くほど澄んでいて、底が見えない湖のようだった。
「……いらっしゃい」
老人の声は、枯れ木の葉が擦れ合うような響きを持っていた。 相馬は無言でカウンターの端に座った。 メニューはない。
「何か、飲むかね」 「……強いのを。思考を停止させられるくらい、強いのを」
老人はニヤリと笑ったように見えた。 彼は棚からラベルのない瓶を取り出し、琥珀色の液体をグラスに注ぐ。氷は入れない。
「思考を止めるのは難しい。脳は勝手に回る。だが、空回りを止めることはできる」
差し出されたグラスを、相馬は一気に煽った。 喉が焼けるような熱さ。その後に広がる、土とハーブのような野性的な香り。 ウィスキーではない。薬酒のような、不思議な味わいだった。
「……いい雨だ」
老人はグラスを拭きながら、独り言のように呟いた。
「雨? 鬱陶しいだけだ。服は濡れるし、電車は遅れる。非効率の極みだ」
相馬は毒づいた。アルコールが回るのが早い。空腹の胃に染み渡り、抑え込んでいた言葉が溢れ出してくる。
「俺は、システムを作っているんだ。完璧なシステムを。雨が降れば傘をさす、そんな当たり前の論理が通じない世界で、必死に秩序を作ろうとしている。だが、どいつもこいつも……バカばかりだ」
老人は手を止め、相馬を見た。
「バカ、か」 「ああ、そうだ。仕様も決められない顧客。言われたこともできない部下。責任を取らない上司。全員、バグだ。俺のコードにはバグはない。バグなのは、人間の方だ」
相馬はグラスをカウンターに叩きつけた。 老人は怒ることもなく、静かに相馬を見つめ続けた。その視線には、哀れみも軽蔑もなく、ただ「観察」があった。
「あんた、名は?」 「……相馬だ」 「わしは玄だ。相馬さん、あんたは『硬い』な」 「硬い?」 「ああ。硬い木は、強風が吹けば折れる。だが、柳や水は折れない。形を変えて、やり過ごすからな」
相馬は鼻で笑った。
「精神論か? 柔軟になれ、なんて言葉は聞き飽きたよ。システムってのはな、硬くあるべきなんだ。定義が揺らげば、データは矛盾を起こす。俺たちが作っているのは、コンクリートの土台だ。柳じゃビルは建たないんだよ」
玄はゆっくりと首を振った。
「世の中には、器というものがある」
玄はカウンターの上に置かれた空のグラスを指差した。
「このグラスが役に立つのは、なぜだと思う?」 「……液体を保持できるからだ。ガラスという素材が不浸透性で……」 「違う」
玄は相馬の言葉を遮った。
「ここが、空っぽだからだ」
玄はグラスの中の空洞を指差した。
「ガラスそのものは、ただの枠だ。本質的な有用性は、この『何もない空間(無)』にある。有は利をなすが、無(空洞)こそが用をなす。老子第十一章の教えじゃ」
「老子……?」
相馬は眉をひそめた。中国の古典哲学か。最も自分が遠ざけてきた、非科学的な領域だ。
「あんたのシステムとやらは、ガラスばかり分厚くして、中身が入る隙間をなくしてはおらんか? 仕様、ルール、正論……それでガチガチに固めて、人間の入る余地がないから、部下も顧客も息が詰まるのじゃろう」
図星だった。 井口が辞めた理由。五十嵐が求めた「心」。 それらはすべて、相馬が排除した「無駄」や「余白」の中にあったのかもしれない。 だが、それを認めることは、自分のキャリアの全てを否定することになる。
「……ふざけるな」
相馬は立ち上がった。足元が少しふらつく。
「余白なんて作れば、そこからエラーが生まれるんだ。俺は帰る」
千円札を数枚、カウンターに叩きつけ、相馬は出口へと向かった。 背後から、玄の声が追いかけてきた。
「水善く万物を利して争わず。水になりなされ、相馬さん。さもなくば、あんた自身が壊れるぞ」
相馬は振り返らなかった。 雨足はさらに強くなっていた。 だが、玄の言葉は、雨音にかき消されることなく、相馬の論理回路の奥底に、除去できないウィルスのようにこびりついていた。 「水になれ」。 その意味を彼が真に理解するのは、プロジェクトが完全な崩壊を迎えた、一週間後のことである。




