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もしもシステムエンジニアが老子を学んだら---無為のデバッグ —— デスマーチを生き抜く「タオ」のエンジニアリング  作者: もしものべりすと


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第2章:デスマーチの足音

翌朝の会議室は、通夜のような静けさに包まれていた。 窓の外には東京の曇天が広がり、灰色の光が、テーブルを挟んで対峙する男たちの顔に影を落としている。


「ですから、申し上げたはずです」


A省の担当補佐、五十嵐の声は低く、苛立ちを含んでいた。五十代半ばの彼は、指先でテーブルをトントンと叩く癖がある。その不規則なリズムが、相馬の神経を逆撫でする。


「我々が求めているのは、国民一人ひとりに寄り添うような、柔軟なインターフェースなのです。この画面……なんですか、この無機質な入力フォームは。これでは高齢者が使えませんよ」


プロジェクターに映し出されているのは、相馬たちが三ヶ月かけて設計し、昨夜井口が血を吐く思いでデプロイした画面だ。機能要件は完全に満たしている。アクセシビリティの基準もクリアしている。


「五十嵐様」


相馬は感情を抑え、あくまで冷静に切り出した。


「三ヶ月前の要件定義書、ページ42をご参照ください。『既存の業務フローを踏襲し、処理速度を最優先とする』と合意しています。デザインの装飾を増やせば、描画負荷が高まり、レスポンス要件である0.5秒を割り込むリスクがあります」


「君ねえ、仕様書、仕様書って」


五十嵐は大きなため息をつき、書類の束を放り投げた。バサリ、という音が部屋の空気を凍らせる。


「我々はシステムの発注をしているんじゃない。国民サービスの実現をお願いしているんだよ。そこにあるのは『心』だ。君たちの仕事には、それがない」


――心。 最も非論理的で、定義不可能で、厄介なバグの温床。 相馬の眉間に深い皺が刻まれた。


「心でシステムは動きません。動くのはロジックです。今からUIを大幅に変更すれば、バックエンドの改修も必要になります。納期には絶対に間に合いません」 「それはそちらの事情でしょう? プロならなんとかしなさいよ。予算はこれ以上出せないけどね」


典型的な「丸投げ」だった。権力を傘に着た、暴力的なまでの無責任。 隣に座っていた自社のPM、佐藤が慌てて割って入った。


「あ、いや、相馬の言い方は少々ストレートすぎましたが……持ち帰って検討します! 善処しますので!」 「おい、佐藤さん」


相馬が睨みつけるが、佐藤は机の下で相馬の足を蹴った。事なかれ主義の佐藤にとって、顧客の機嫌を損ねることは死を意味する。だが、その皺寄せが現場のエンジニアの本当の「死」を招くことを、彼は直視しようとしない。


「期待していますよ。Sデータさん」


五十嵐は冷笑を残して退席した。 会議室に残されたのは、沈黙と、増大した絶望的なタスクの山だけだった。


「……どうするつもりですか」


相馬の声は震えていた。怒りではない。呆れと、徒労感で。


「やるしかないだろ、相馬ちゃん」佐藤はハンカチで額の脂汗を拭った。「相手はお役所だぞ。逆らったら今後十年、入札停止になるかもしれない」 「現場のリソースは枯渇しています。井口は限界だ。他のメンバーも、月の残業時間が八十時間を超えている。これ以上負荷をかければ、システムより先に人間が壊れます」 「そこをなんとかするのがエースの仕事だろ! 君のその頭脳で、効率的なリスケジュールを組んでくれよ。頼むよ」


佐藤は逃げるように会議室を出て行った。 一人残された相馬は、ホワイトボードに書き殴られた「柔軟な対応」という文字を見つめた。 柔軟。 この業界でその言葉は、「無償労働」と同義語だ。 相馬は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。 論理が通じない。正論が届かない。 自分が積み上げてきた完璧な設計図が、感情論という濁流に押し流されていく。


「……クソが」


相馬は小さく呟いた。 その言葉は、彼自身の無力感に向けられていた。


オフィスに戻ると、フロアの空気はさらに淀んでいた。 井口の席が空だ。 PCの電源は落ちており、机の上には、入館証(IDカード)が無造作に置かれている。


「井口は?」


近くの席の女性エンジニアに尋ねる。彼女は目を合わせずに答えた。


「……先ほど、人事部に行きました。診断書を持って」


相馬の頭の中で、何かが切れる音がした。 エラー。致命的な例外エラー。 リソース喪失。スケジュール遅延確定。プロジェクト崩壊の予兆。 だが、心のどこかで、安堵している自分がいた。 (逃げられたのか。あいつは) 自分はこの沈みゆく船から逃げられない。責任感という名の鎖と、プライドという名の重りが、彼をこの場所に縛り付けていた。

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