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もしもシステムエンジニアが老子を学んだら---無為のデバッグ —— デスマーチを生き抜く「タオ」のエンジニアリング  作者: もしものべりすと


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第1章:仕様書の独裁者

午前三時のオフィスには、独特の腐臭が漂う。 それは酸化した安物のコーヒーと、過熱されたサーバーの排熱、そして生きた人間が徐々に単なる「リソース」へと摩耗していく、音のない絶望の臭気だ。


「相馬さん、テスト環境のデプロイ、失敗しました」


背後から聞こえた声に、相馬そうまは打鍵していた指を止めた。エンターキーを叩く音が、静まり返ったフロアに乾いた銃声のように響き渡る。彼はゆっくりと回転椅子を回し、声の主を見上げた。入社二年目の若手、井口だ。充血した目は焦点が定まっておらず、顔色は蛍光灯の白さよりも青白い。


「原因は?」


相馬の問いは短く、冷たい。感情という不純物をろ過した、純粋な問い合わせ言語クエリのようだった。


「あ、あの、インフラ側の設定が……仕様書と違っていて……」 「違っていた、じゃない」


相馬は立ち上がった。身長一八〇センチの細身の身体は、仕立ての良いダークネイビーのスーツに包まれている。徹夜続きでもネクタイのノットは崩れず、シャツには皺一つない。その完璧な外見こそが、彼がこのフロアで異質な存在であることの証明だった。


「仕様書が絶対だ。世界が間違っているなら、世界の方を直すんだ。インフラ担当を叩き起こせ」 「で、でも、もう三時で……」 「明日、顧客に見せるプロトタイプだぞ。感情で論理を濁すな。彼らが寝ている間にバグが自然消滅するとでもいうのか?」


井口は唇を震わせ、何かを言いかけたが、結局は無言で自分の席へと戻っていった。その背中が「鬼」と語っているのを、相馬は無視した。 嫌われることなど、どうでもいい。重要なのはシステムが稼働すること。0か1か。TrueかFalseか。その間に「まあまあ」や「思いやり」といった曖昧な変数が入り込む余地はない。


相馬は再びモニターに向き合った。黒い画面に流れる緑色の文字列だけが、この世界で唯一信じられる秩序だった。 大手システムインテグレーター、Sデータ・システムズ。その若きエースとして、相馬はこの十年、数々の炎上案件を鎮火させてきた。彼の武器は圧倒的な論理的思考力と、完璧な設計思想。彼が書くコードに無駄はなく、彼が引くアーキテクチャに隙はない。


だが、今回のプロジェクトは違った。 官公庁向け基幹システム刷新プロジェクト、コードネーム『フェニックス』。 予算規模は数百億。関わるベンダーは十数社。エンジニアの総数は五百名を超える。そして、その巨大な船は今、氷山に向かって全速力で突き進んでいた。


モニターの右下で、チャットツールの通知が点滅した。プロジェクトマネージャー(PM)からのダイレクトメッセージだ。


『明日朝イチで、A省の担当者が仕様変更の相談に来るらしい。同席頼む』


相馬は舌打ちを噛み殺した。 「仕様変更」。それはエンジニアにとっての呪詛だ。積み上げたレンガを崩し、土台からやり直せという死刑宣告に等しい。 相馬はキーボードを叩きつけた。


『承知しました。ただし、論理的に破綻している要望であれば、その場で却下します』


送信ボタンを押すと同時に、彼は冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。苦味だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれた。 相馬はまだ知らなかった。 この巨大な論理の城塞が、まもなく「人の心」という、計算不可能なカオスによって内側から崩壊しようとしていることを。そして、それを救うのが、最新の技術論ではなく、二千五百年前の埃まみれの哲学であることを。

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