魔女裁判で死にましたが時が戻っていたので魔女になります
第一章 処刑の日
鉄の鎖が、骨に食い込んでいた。
膝まで積もる藁の上に立たされ、足元には油を染み込ませた木片が無造作に積まれている。湿った冬の空気の中、遠くで鐘が三度鳴った。処刑の合図だ。
人垣の向こうから、罵声と唾が飛ぶ。石も飛んできた。右の頬が裂け、温かい血が顎を伝う。
リディアは顔を上げなかった。上げれば、あの顔を見てしまうからだ。
領主、エドワード・ベルフォード。
裁判の間中、彼は椅子にふんぞり返り、何度も笑った。
「民が恐れるものを焼き払う。それこそが統治の務めだ」と。
彼にとっては見世物だ。群衆に恐怖を植えつけるための火。リディアが何をしていようと関係はない。
彼女の罪状は三つ。
一つ、薬草で村人を惑わせた。
二つ、悪魔と契約した。
三つ、領主の寝室に呪詛の刻まれた人形を置いた。
どれも事実ではない。だが証人はいた――雇われた証人たちが。
「神よ、彼女の魂を清め給え」
司祭の声が響き、十字の印が空に描かれる。
リディアは笑いそうになった。清めるだと? 無実の者を、炎で?
乾いた薪が、油を吸って黒く光る。火の番人が松明を持って近づいてくる。
その瞬間、リディアは心の底から強く願った。
――もしやり直せるのなら、私は。
あの偽りの証人も、あの裁判官も、あの領主も。
全員、焼き尽くす。
炎が上がる。熱が皮膚を舐め、髪の匂いが鼻を刺す。
肺に熱気が押し寄せ、視界が赤に染まった。
第二章 死に戻り
息を吸い込んだ瞬間、肺が焼けるように痛んだ。
リディアは叫び声を上げて身を起こした――いや、叫ぶつもりが声は震える息に変わった。
目の前に炎はない。代わりに、見慣れた木の梁と、窓から差し込む朝の光があった。
息が荒い。額には冷たい汗。
――私は……死んだはずじゃ……?
窓の外では、鶏の鳴き声と井戸水を汲む音が聞こえる。
壁際の棚には、自分がいつも並べていた薬草の束が吊されている。
懐かしい……いや、おかしい。これは処刑の半年前、秋の初めの光景だ。
混乱と恐怖が入り混じったまま、リディアは外へ出た。
井戸端にいた隣家の女、マーサが顔を上げ、いつも通りの笑みを浮かべた。
「おはよう、リディア。今朝は寒いねえ」
背筋が冷えた。
この女の笑顔は、やがて裏切りに変わる。
裁判で最初に証言台に立ち、「彼女は悪魔と話していた」と声を張り上げたのは、このマーサだった。
リディアは返事をせず、足早に家へ戻った。
心臓が荒ぶっている。頭が割れそうだ。
――これは夢じゃない。私は時間を遡っている。
だが、理由はわからない。神の御業か、悪魔の戯れか、それとも……。
ただひとつ確かなのは、この半年の先に、自分は再び火刑台に立つということだ。
夜になっても眠れなかった。
寝台の上で、暗闇を見つめながら、ひとつの考えが脳裏をよぎる。
あの日の自分は、必死に無実を訴えた。
だが、その結果がどうだった?
無実でも、人は焼かれる。
ならば――。
ならば、いっそ本物の魔女になってやる。
呪いも、契約も、禁忌も、すべて手に入れて、次は私が裁く番だ。
その夜、リディアは森へ向かう支度を始めた。
行き先は、村の外れの黒い森――誰も近づかない、魔女アグネスが住むと噂される場所だ。
第三章 森の奥の魔女
黒い森は、昼でも光が射し込まなかった。
枯れ葉の下からは腐臭が立ち上り、木々の幹には形の崩れたキノコがびっしりと生えている。
普通の人間なら一歩で引き返すような道を、リディアはためらいなく踏み進んだ。
半月が森をかすかに照らす中、湿った土を踏む音だけが響く。
やがて、視界の奥に灯が見えた。
それは粗末な小屋ではなく、古い石造りの塔だった。苔むした壁はひび割れ、屋根は崩れかけている。それでも、窓からは揺らめく赤い光が漏れている。
扉を叩くと、中から女の声がした。
「入れ」
重い扉を押し開けた瞬間、薬草と血の匂いが鼻を刺した。
暖炉の前に、黒い外套をまとった老女が腰掛けていた。片目は白く濁り、もう片方は金色に光っている。
「……何しに来た」
声は低く、土を這うようだった。
リディアはためらわず答えた。
「弟子にしてください。あなたの持つすべてを、私に教えてほしいのです」
老女は、しばらく沈黙した。炎の明かりが皺だらけの顔を照らす。
やがて、口元がゆるやかに歪んだ。
「代償は、命では足りぬぞ」
「命など、とっくに一度捨てました」
その夜から、修行が始まった。
アグネスの教えは容赦がなかった。
薬草の効能を覚えるのは序の口。蛇の血を飲み、毒茸を自らの体に試す。
夢に入り込む術を学び、人の記憶を抜き取る方法を試す。
精霊との契約は、己の心臓に短剣を突き立て、返り血で印を描くことで成立した。
月が巡るごとに、リディアの明るい緑色の瞳は深い琥珀色に染まっていった。
笑うことは減り、夜ごとに森の獣たちが足元に集まるようになった。
ある夜、アグネスが問うた。
「おまえ、まだ人の心が残っているな」
リディアは黙った。
「残せば、迷いが生まれる。迷いはおまえを殺す。捨てるか、死ぬかだ」
焚き火の赤が、二人の影を揺らした。
リディアはゆっくりと頷いた。
「……捨てます」
その日から、彼女の中の何かが静かに削ぎ落とされていった。
第四章 影での復讐
冬が終わり、雪解け水が川を満たし始めた頃、リディアは森を出た。
村の外れに立ったとき、彼女の姿はかつての薬草師ではなかった。
黒い外套、琥珀の瞳、首元には赤い刻印。
それでも村人たちは気づかない。半年ぶりの帰郷に、ただ「戻ってきた」と思っただけだった。
リディアは以前と同じく薬草を売りながら、静かに情報を集めた。
領主エドワードの愛人の存在。裁判官ヘンリーの不正な土地取引。
そして――告発者マーサの夫が、他所の女の家に通っていること。
事実は呪いよりも鋭く人を切り裂く。
最初の手は、夢から始めた。
ヘンリーの夢に入り、昼間の裁判での失態や、隠した書類の映像を延々と見せる。
彼は夜ごと悲鳴を上げ、ついには仕事中に発作のように震え出すようになった。
次に、エドワードの寝室に“声”を送った。
「裏切られるぞ、裏切られるぞ」と、愛人の声で囁かせる。
数週間後、愛人は行方不明になった。
そして、マーサ。
彼女には呪いは必要なかった。
ただ、夫が他の女と抱き合っている姿を、偶然を装って見せてやった。
マーサは泣き叫び、やがて周囲に当たり散らすようになり、村から孤立していった。
リディアは感情を持たなかった。
復讐は快楽ではなく、必然だった。
これは儀式だ。炎に焼かれるその日までの、前奏曲。
やがて、噂が村を覆い始めた。
「リディアが怪しいことをしている」
「戻ってきてから様子が違う」
――望んだ通り。
春が終わりに近づくころ、ついに村人たちは彼女を告発した。
裁判の日程は、半年前と同じ日。
リディアは鏡の中の自分を見て、薄く笑った。
「二度目の火刑台……幕は上がる」
第五章 二度目の火刑台
鐘が三度、冬空に鳴り響く。
冷たい風が吹き抜け、広場に集まった群衆の吐息が白く揺れた。
火刑台の中央に、リディアは立っていた。両手は鉄の鎖で背後に縛られ、足元には乾いた薪が積まれている。
だが、その琥珀の瞳は半年前のように怯えてはいなかった。
領主エドワードが高台から群衆を見下ろし、声を張り上げる。
「神の名のもとに、この女を裁く! 悪魔の手先、リディアを!」
群衆の罵声が飛ぶ。
――だが、その中に怯えの色が混じっていることを、リディアは見逃さなかった。
呪いの種はすでに芽吹いている。
松明を持った男が近づく。薪の油が冷気の中でかすかに光った。
火が放たれる。
薪がはぜる音と共に、赤い炎がリディアの足元を舐め上げる。
その瞬間、彼女の口元がわずかに動いた。
「――来たれ」
炎が、爆ぜた。
それは風ではなかった。炎は逆流するようにうねり、鎖を舐め、鉄を溶かす。
鎖が床に落ちる音と同時に、リディアの外套が大きく翻った。
次の瞬間、彼女の身体は炎に包まれたまま宙に浮かび上がった。
群衆から悲鳴が上がる。
「魔女だ……本物の……!」
リディアは空中から領主を見下ろした。
「二度も私を燃やすとは、愚かですね、エドワード」
その声は炎に溶け、広場全体に響いた。
彼の足元から、黒い影が伸びた。
それは蛇のように絡みつき、全身を締め上げる。エドワードの顔は苦痛に歪み、やがて皮膚がひび割れ、石のように灰色に変わっていった。
最後の悲鳴が上がったとき、領主は崩れ、灰となって風に散った。
裁判官ヘンリーの背後には、夢の中で植え付けた恐怖が実体化し、膨れ上がった影の手が彼を引きずり込んだ。
告発者マーサは地に膝をつき、声にならない叫びを上げながら後ずさる。
リディアは彼女に微笑んだ。
「マーサ、長く生きて。そして忘れないで」
炎はゆっくりと収まり、リディアは地面に降り立った。
群衆は道を開け、誰一人として手を伸ばさなかった。
彼女は外套を翻し、振り返らずに広場を去った。
終章 魔女の旅立ち
村を出て三日目の夜、リディアは小さな丘の上で焚き火を見つめていた。
遠くの森には梟の声が響き、星々が冬空に冴え渡っている。
火刑台の炎の熱は、まだ皮膚の奥に残っていた。だが、あれはもう恐怖ではない。
あの炎は、鎖を断ち切った。
背後で、草を踏む音がした。
振り返ると、黒い影が立っていた。輪郭は曖昧で、夜の闇と溶け合っている。
声は女のものだった。
「よくやった、我が娘」
「……誰?」
「おまえを送り返したのは、我ら魔女の母だ。おまえは選ばれた」
その言葉に、リディアは驚きも疑いも示さなかった。
すでに、自分が人の道を外れたことを知っている。
影は続けた。
「行け。おまえの力を必要とする者が、この世界にはまだいる」
影は風に溶け、夜の中に消えた。
リディアは立ち上がり、外套の裾を払った。
彼女の歩みは迷いがなく、焚き火の明かりから遠ざかるたび、闇の中で瞳が黄金に光った。
――無実でも、焼かれる者がいる。
ならば、焼く側に立つ者を、私は許さない。
その足音は、やがて夜に溶け、どこまでも続いていった。