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月曜日の彼女

作者: のも

第一章:見知らぬ人、懐かしい声


月曜日の朝は、いつも少しだけ空気が重たい。

週のはじまり特有のだるさを背中に感じながら、航平は駅のホームで電車を待っていた。

冷たい風がスーツの裾を揺らす。季節は春のはずなのに、まだ少し肌寒い。


背後から、小さく足音が近づいてくる。


「航平くん、今週も、会えてよかった。」


不意にかけられた声に、航平は振り返る。

そこに立っていたのは、黒髪の女性だった。

肩までの髪が風に揺れ、淡いベージュのコートに身を包んでいる。

目元に柔らかい光をたたえたその人は、どこか懐かしい笑みを浮かべていた。


「え……?」


心当たりが、ない。

けれど、なぜか胸の奥がざわめく。初めて見るはずの顔なのに、“前にも会ったことがある”という感覚が、なぜか離れなかった。


「えっと、どこかで会いましたっけ?」


そう尋ねると、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。


「そうだね。今日は、また初めましてから、かな。」


何を言っているのか、航平にはよくわからなかった。

でも、不思議とその声は心地よかった。

まるで、ずっと昔から自分の名前を呼び続けてくれていたような――そんな気さえした。


電車がホームに滑り込んできた。

彼女は自然な動きで航平の隣に並び、電車に乗り込む。何も言えずに、航平もそのまま隣の席に腰を下ろした。


車内に揺られながら、彼女は静かに話し始めた。


「今日一日、付き合ってくれる?」


「……なんで俺なんですか?」


「だって、月曜日だもん。」


その言葉に、意味はないようで、あるようにも思えた。

すべての始まりは、いつだって何気ない出会いのふりをしてやってくる。


――そしてこの月曜日も、例外ではなかった。



第二章:一日だけの恋人


月曜日の午前十時。

駅から少し離れたカフェのテラス席。

春の日差しは柔らかく、彼女が頼んだアイスカフェラテの氷が、小さく音を立てて溶けていた。


「こんな時間にカフェなんて、いつ以来かな……」

航平はカップを手に、どこか落ち着かない様子で周囲を見渡した。


「ね、たまにはいいでしょ? 月曜日だし。」


「……月曜日だしって、さっきからそればっかり。」


「だって、月曜日ってそういう日なんだもん。」


彼女は笑う。名前も、正体もわからない。

でも、不思議と安心感があった。

初めて会ったとは思えないほど、彼女の言葉は心にすっと馴染んでいく。


「……俺のこと、どこで知ったの?」


「今日は、“初めまして”から、だよ。」


「そのわりに、俺の名前呼んでたよな?」


「うん。でも、いいじゃない。」


問いかけるたびに核心をすり抜けていくような返事。

それでも、もっと彼女の話を聞いていたいと思った。


カフェのあとは公園、昼は定食屋、午後には書店。

彼女はなんでも楽しそうに笑い、どこか懐かしい匂いがした。

話しているだけで、心のどこかが癒やされていくようだった。


「……なんでこんなに自然に話せるんだろうな。」


ぼそっと漏らすと、彼女は少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「それ、たぶん何度もそう思ってくれてるからだよ。」


「え?」


「なんでもないよ。」


午後、駅前の書店で詩集を手にした彼女は、そっと読み上げた。


 “いつかの記憶が風になる

  名もなき日々に、君がいたことを

  心だけが ちゃんと覚えている”


「きれいだね。」

航平が言うと、彼女は微笑む。


「……うん、でも、ちょっと切ない。」


その一言が、どこか引っかかって離れなかった。


日が暮れはじめた頃、彼女はふと立ち止まり、小さく言った。


「今日は、ここまでにしようか。」


「もうちょっとだけ……」


「また来週の月曜日に、ね。」


別れ際のその言葉が、航平の心に残った。


そして次の瞬間――

彼女の姿は、そこからすっと消えていた。



第三章:消えた痕跡


火曜日の朝、航平は妙な違和感とともに目を覚ました。


頭はぼんやりしているのに、胸の奥にかすかなぬくもりだけが残っていた。

夢を見ていたような気がする。でも、どんな夢だったのか、うまく思い出せない。


誰かと――誰だったかもわからない誰かと、一日中一緒にいたような。


歩いた。話した。笑った。

でも、誰と?どこで?何を?


考えようとすればするほど、霧の中に入っていくように、記憶は輪郭を失っていた。


ふとスマホを開いてみる。カメラロールを確認する。

けれど、前日の写真は一枚もなかった。

SNSの履歴も、メッセージも空っぽ。なにも“昨日”が存在した証がない。


「……おかしいな。」

不意に胸がざわついた。


誰かといた気がするのに、何も残っていない。


それがただの夢だったなら、どうして今こんなに寂しいんだろう。



朝の支度を終えたあと、航平は気まぐれに駅に向かった。

昨日、たぶんここで、誰かと出会ったような――そんな感覚だけが頼りだった。


ホームに立っても、記憶は戻ってこない。

街並みは変わらずそこにあるのに、自分の中に“その日”だけがぽっかりと空いている。

けれど、その空白はたしかに“何か”を抱いていた。


何もないのに、温かい気持ちだけが残っている。


ふと風が吹いた瞬間、耳の奥に声がよみがえる。


「また来週の月曜日に、ね。」


その一言が、胸にじわりと沁みていく。


名前も顔も思い出せない誰かの、その言葉だけは鮮明だった。

……また、月曜日に。

その言葉を思い出した瞬間、航平はゆっくりと息を吐いた。

どうしてか涙がにじんできて、笑ってしまう。


「何を泣いてるんだよ、俺……」


自分でも理由がわからない。


ただ、次の月曜日が来るのを待ちたくなるような、そんな気持ちが確かにそこにあった。


第四章:また、月曜日に


月曜日の朝、航平は自然と駅へ向かっていた。


先週と同じホーム、同じ時間、同じ風。


根拠のない期待が、胸をざわつかせていた。


そして、電車が到着する少し前――


「おはよう、航平くん。」


その声は、背後から風に乗って届いた。

振り返ると、先週の“彼女”がいた。


やっぱり、名前は思い出せない。でも、笑顔だけは忘れられなかった。


「……夢じゃなかったんだな。」

彼女は静かにうなずいた。


そして、電車がホームに滑り込む。


「今日も、付き合ってくれる?」

「もちろん。」

ふたりは自然に並んで座った。


駅を出て、今回は少し離れた街を歩く。

彼女は相変わらず、何もかもを初めて見るように楽しそうに振る舞った。

午後、古い雑貨屋で並んでいた小さな名札のキーホルダーを見て、

航平がふと口にした。


「……澪、って名前、好きだな。」


彼女が振り返る。その目が、一瞬だけ大きく見開かれる。


「なんで、それ……」

「いや、わからない。ふと頭に浮かんだだけで……」


彼女はゆっくりと笑った。

その笑顔は、うれしさと驚きと、少しだけ痛みを含んでいた。


「……覚えてくれて、ありがとう。」


航平は戸惑った。

名前を教えてもらった記憶はない。なのに、なぜか“澪”という言葉だけが心に残っていた。

夕暮れ時、ふたりはいつものように駅へ向かう。


別れ際、澪がぽつりとつぶやく。


「来週も、ちゃんと会えるといいな。」


「それって……どういう意味?」


「……秘密。」


そして彼女は、電車が来る前にすっと消えていた。

まるで、風が連れ去っていったように。


第五章:忘却のルール


火曜日の朝。


目が覚めた瞬間、航平は胸の奥に、何かを取りこぼしたような空洞を感じていた。

現実に戻ってきたはずなのに、まるで夢から完全に覚めきれていないような、

妙な浮遊感があった。


――誰かと会っていた気がする。

――大切な時間を過ごしたような、そんな気がする。


だが、顔も、声も、出来事も曖昧だった。

ぼんやりとしたぬくもりだけが、心の片隅に残っていた。


航平はベッドを出て、机の引き出しを開ける。

取り出したのは、数日前に買ったノートだった。

なぜか「月曜の夜だけでも何かを残しておこう」と思い立ち、先週、思い出せるうちに書き留めたものだった。


ページをめくると、そこには箇条書きのメモがあった。


【4月7日(月) 夜】

・朝、駅で女性に声をかけられる

・カフェ→古本屋→電車

・名前を“澪”と呼んだ? 驚かれる

・来週もまた会う約束をした……?


「……俺が、これを書いたんだよな。」


文字に見覚えはある。間違いなく自分の字だ。

だけど、そこに書かれている内容は、どこか他人の体験のように感じられる。

事実としてはわかる。でも、その場にいた実感がない。


“澪”という名前。


なぜだろう、ノートを読む前から、その名前だけは心の中に残っていた。


どうしてこれだけが消えていないのか。

自分の記憶力の問題か? 疲れていたのか?


夢を現実と混同しているだけかもしれない。


「……俺、どこかおかしくなったのかな。」

独り言のように漏れたその言葉に、背中が少しだけ冷えた。


“忘れてしまった”というより、“思い出すことができない”という感じがしていた。

まるで、記憶のどこかに鍵がかかっているような――そんな感覚。


ふと、先週の夢か現実かあいまいな場面が、断片的に蘇る。

駅のホーム、やわらかな光、誰かが振り返って笑う姿。

そして、その人が何かを言っていた。たぶん別れ際に。


具体的な言葉までは思い出せない。ただ、“また”という言葉があった気がする。


“また、来週――”

そんな雰囲気の、未来を約束するような、優しい響き。


航平はそっと息をついた。


“あの人”と、もう一度会えるのか。

その問いに確証はなかったが、答えを知りたいと思った。


航平は、ノートの新しいページに書き始めた。


【4月14日(月) 準備】

・次に会ったら名前をもう一度確認

・自分の記憶のことを話す

・なぜ会うたびに忘れてしまうのか、聞けるなら聞いてみる


書きながら、自分でも滑稽だと思った。

名前も顔もあやふやな相手に、また会える前提で“準備”をしているのだから。


けれど、どうしてもその気持ちは消せなかった。


“また来週、月曜日に。”

明確に思い出せないその言葉の残響が、心に薄く残っていた。



第六章:止まった時間


月曜日の朝、目覚めた瞬間に航平は確信していた。

今日、彼女に会える。

理由はない。ただ、心が知っているような感覚だった。


駅のホーム。先週と同じ場所。

そして、同じ風の中で、彼女はふいに現れた。


「おはよう、航平くん。」


その声を聞いた瞬間、心がやわらかくほどけていく。

彼女の笑顔は、先週よりも少し大人びて見えた。


「……今週も、来てくれたんだね。」


「うん、なんとなく来なきゃいけない気がして。」

彼女は小さくうなずいた。そして電車が滑り込むホームで、ふたりは並んで乗り込んだ。


車内、向かい合わせの席で揺られながら、航平はノートを取り出す。

びっくりする彼女に、笑って見せる。


「覚えておきたくて。今日のことも、ちゃんと書くよ。」

「……そうなんだ。うれしいな、それ。」

「それで、ちょっとだけ聞いてもいい?」

「うん。」


「……どうして、俺、火曜日になると君のことを思い出せないんだろう?」


彼女は一瞬、視線を落とした。

その表情は、今まで見せたことのないものだった。


言葉を探すように唇が動くが、なかなか何も出てこない。


「……それは、わたしが、忘れられる存在だから。」

「え?」

「火曜日になると、わたしは世界から消えるの。……記憶の中からも。」

「どういうこと?」


「ほんとはね、ちゃんと説明するべきなんだけど……うまく言葉にならなくて。」


航平は返す言葉を見つけられなかった。

“世界から消える”なんて、現実の言葉としては遠すぎる。

でも、彼女の目は冗談じゃなかった。

ほんの一瞬、笑顔の奥にひどく冷たい孤独がのぞいた。


「覚えててくれるだけで、わたしはうれしいよ。」

「でも、俺……結局ほとんど忘れてるんだ。」

「それでも。“澪”って呼んでくれたでしょ? あれだけで、私すごく救われたの。」

その名前を口にした瞬間、澪の肩がわずかに震えた。


澪――


その名前を言えば言うほど、胸の奥がぎゅっと痛くなる。

なぜか、もう何年も彼女を呼び続けてきたような気さえしてくる。


午後、ふたりは小さな美術館を訪れた。

静かな展示室、額縁に収められた風景画。

澪は絵の前で立ち止まり、長いこと黙っていた。


「ねえ、止まった時間って、綺麗だと思う?」

突然そう聞かれて、航平は戸惑う。


「……どういう意味?」

「……ずっと変わらない瞬間って、…綺麗に見えるけど……

 それって、時間が動けなくなった人からしたら、ただの檻なんだよ。」


言葉の意味をすぐに理解することはできなかった。

けれど、澪のその声には、ふだんの軽やかさがなかった。

それだけで十分だった。“なにかが終わってしまっている人”の声だった。



彼女は笑った。

美術館の窓から差し込む光の中で、それは本当にきれいだった。

でも、航平には、その笑顔が今までで一番、苦しそうに見えた。


「ごめん、こんな話するつもりじゃなかったのに。」

「……いや、話してくれてありがとう。」


その瞬間、航平は気づいた。

自分は澪のことをほとんど何も知らない。

知ろうともせず、ただ“今日”を楽しんでいた。

けれど彼女は――ずっと、ひとりで止まった時間の中にいたのかもしれない。



夕方、ふたりは駅に戻った。


「ねえ、澪。」

「うん?」

「次の月曜、また会える?」


少しだけ間が空いて、彼女は静かにうなずいた。

「……うん。会えると思う。」

その答えに安心する反面、航平の胸にはまた別の不安が芽生え始めていた。


“彼女は、いつまでそこにいられるんだろう。”

そんな問いが、初めて心に浮かんでしまった。


第七章:さよならの選択


月曜日の朝。

駅へ向かう足取りは、どこか落ち着かない。


春の風は穏やかで、空は晴れているのに、胸の奥にだけざわつきが残っていた。


「……今日、会えるかな。」


不安と期待が入り混じる中、航平はホームに立った。

そして、ほんの数秒後。

背後から、変わらない声が届いた。


「おはよう、航平くん。」


振り返ると、彼女がいた。

いつも通り、やわらかく微笑んでいたが、その表情にはどこか、決意のようなものがにじんでいた。


「今日は、少し……話したいことがあるんだ。」

「……うん。俺も。」

ふたりは駅を離れ、郊外の丘へと向かった。


風がよく通る、静かな場所。

木々の緑が揺れるたび、まるで時間そのものがささやいているようだった。


「ここ、先週来たときと……ちょっと違うの。わかる?」

航平は見渡した。

以前あったはずの桜の木がなくなっている。

ベンチの位置も、ほんの少しずれている気がした。


「いつもと同じはずなのに、少しずつ景色が変わってきてるの。

 それが怖くて……たぶん、私の時間が崩れかけてる。」

「……繰り返しが、終わる?」

「うん。この世界の“型”が、少しずつ壊れてきてる感じがするの。

 でも、私にはどうすることもできなくて。」

彼女は手を組み、ゆっくりと息を吐いた。


「ねえ……もし、私がこの時間から離れられる方法があるとしたら、

 あなたは、それを知りたいと思う?」


航平は少しだけ迷い、でもすぐにうなずいた。


「知りたい。君が……この繰り返しから解放されるなら。」

その言葉に、彼女は目を伏せ、声を絞り出すように言った。


「本当はね……こんなこと、言いたくないんだけど……」

「あなたが、もし……私のことを“完全に思い出さなくなったら”、たぶん私は――この繰り返しから離れられる気がするの。」


「……!」


「これまで何度もあなたに会って、たくさん話して、何度も“初めまして”を繰り返したけど……

 でも、あなたの中には、いつも“何か”が残ってた。

 名前だったり、手のぬくもりだったり、言葉のかけらだったり。」


「だから、今になってようやくわかったの。

 私を覚えてくれることが、私をこの時間につなぎとめてたんだって。」


「じゃあ……俺が君を忘れたら――?」


「きっと、私は消える。でも、それはきっと“自由になる”ってことなんだと思う。」


航平は黙ったまま、彼女の横顔を見つめた。

彼女は、悲しい顔をしないように微笑んでいた。けれど、その笑顔が何より悲しかった。」


「俺は……君を助けたい。

 何も思い出せなくなっても、君のためになるなら……やってみたい。」


その言葉に、澪の瞳が揺れた。

ほんの一瞬、こらえきれなかったものが光った。


「……ありがとう、航平くん。」

「でも、覚えていなくてもさ。心は覚えてる、って……前に言ってたよね?」

「うん。心は、うそつかないから。」

「ならきっと、またどこかで会える。たとえ“初めまして”からでも、また好きになると思う。」

澪はその言葉を聞いて、何も言わずに目を伏せた。

口元は笑っているようで、震えていた。

きっと、泣いてしまわないように、必死に抑えているのだとわかった。


「……ねえ、航平くん。」


「うん?」


「私のこと、全部忘れてもいい。名前も、声も、姿も。

 でも……もし、ほんの少しだけでも、“誰かを大切に思った感覚”が残るなら、それでいいの。」


「……」


「私は――本当に、あなたに会えてよかった。」


最後のその言葉は、ほとんど風に紛れるほど小さかった。

それでも、航平の心に深く、確かに突き刺さった。


春の風が吹き抜け、澪の髪をやさしく揺らす。

その姿が、光に溶けるように、静かに淡くなっていく。

航平は最後まで、その輪郭を目に焼きつけていた。

“さよなら”とは、彼女は一言も言わなかった。


だけど――それが、すべてだった。



最終章:心が覚えてる


火曜日の朝、航平はゆっくりと目を覚ました。

特別な夢を見ていた気がするが、内容は何も思い出せなかった。


目を閉じればまだ続きそうな夢の輪郭だけが、まぶたの裏にかすかに残っていた。


起き上がり、キッチンで湯を沸かす。

いつも通りの朝。特に変わったことは何もない。


だけど、何かが欠けている。そんな気がしてならなかった。


ふと、机の上に置かれたノートに目をやる。

手に取って開いてみるが、そこには何も書かれていなかった。


それが当たり前のはずなのに、なぜか胸が少しだけ痛んだ。



会社への道すがら、ホームに立つ。

風が吹き抜け、電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。

何気なく振り返った瞬間、誰かがそこにいる気がした。


でも、誰もいなかった。


「……誰かと、ここで……」


そうつぶやいてみても、続きが出てこない。

ただ、胸の奥にざわざわとした感覚だけが残っていた。


昼休み。駅前のカフェにふらりと入った。

はじめて来たはずなのに、どこか懐かしい。

店内の奥、窓際の席。なぜかそこに座りたくなって、注文もせずに腰を下ろす。


目を閉じてみる。

音も光も消えて、心の奥だけが静かに揺れていた。


何も知らないはずなのに、涙がにじみそうになって、慌てて目を開けた。


「……誰なんだろう。」


誰かがいた。

名前も、声も、思い出せない。


でも――“大切だった”という感覚だけが、どうしても消えてくれなかった。

その晩、航平はノートを開いて、何も書かれていないページに、ただ一言だけ、こう書いた。


「また、どこかで。」


そして静かにページを閉じる。

ほんの少し、心があたたかくなった気がした。


その言葉は、風に乗ってどこかへ届いたかもしれない。

あるいは、もう届くことのない空へ消えていったのかもしれない。


それでも――


澪という名前を知らない男が、

澪という名前を忘れた男が、

それでも“澪のことを、大切に思っていた”という事実だけは、心の奥にずっと残っていた。


そして、また月曜日がやってくる。



「完」


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