幽閉された悪役令嬢は見習い騎士に恋をする
ルチアは寝台の上で震えていた。
毛皮のマントも、分厚い毛織の敷物も、外の吹雪には敵わない。
部屋の隅に置かれた木桶の水は、すっかり凍り付いていた。
ルチアのアイスブルーの瞳が、まぶたの裏に隠されていく。
このまま眠ってしまえたら、どんなに楽になるだろう。
寒さも、さみしさも、もうなにも感じなくて済むのだ。
「カルロ様……」
白い吐息と共に吐き出された声は、ひどくかすれていた。
「ルチア・リートライン、貴女には今日からここで暮らしていただきます。一生、この部屋を出ることはできません」
王太子ランベルト付きの見習い騎士に言われて、ルチアは室内を見まわした。
壁も床も、冷たい灰色の石でできている。高いところにある嵌め殺しの大きな窓からは、薄っすらと光が射し込んでいた。
置いてある物は、部屋の隅にある蓋付きの壺のみ。
王都から少し離れた丘に建つ、王家所有の城。
その北の尖塔にあるこの小さな部屋が、ルチアのための牢だった。
ランベルトの元婚約者であるルチアは、準王族としてこの部屋に幽閉されることになったのだ。
ルチアは見習い騎士である、カルロ・ハビリセン子爵令息の方へと向き直った。
ハニーブロンドの短い髪を少し乱したカルロは、切れ長の緑の目をかすかに細めたように見えた。
カルロはおかしな男だった。この国ではすでに『悪役令嬢』などと呼ばれているルチアを、自分の見習い騎士服の青いマントで包んで抱えて、この部屋まで運んでくれたのだ。
いくら正騎士になるべく鍛えているカルロでも、ルチアを抱えて長い螺旋階段を上るのは大変だっただろう。
「はい、わかりました。ここで暮らします」
ルチアは震える声で答えた。裸足で剥き出しの石の床に立っていると、足の裏から冷気が這い上ってくる。
ルチアが着ているものは、膝をやっと隠せる長さの、白い貧相な綿のワンピースと下着のみ。ワンピースが長袖だったのが、小さな救いと言えよう。
「また来ます」
カルロは部屋の外で待機している、王宮の事務官や騎士たちの元へと戻っていった。
ルチアが幽閉されるのを確認しに来た者たちは、閉められた扉の向こうで、任務が無事に済んだことを喜んでいた。
扉に鍵がかけられて、ルチアは一人、冷たい部屋に取り残された。
このルチアのいる部屋には、ランベルトの命によりカルロしか入ることができなかった。
おそらくこの命は、ランベルトによるカルロへの嫌がらせだろう。
「そんなにカルロを気に入らないのなら、意地悪なんてするよりも、別なところにやればいいのでは?」
ルチアはランベルトに訊ねたことがあった。
ランベルトは苦々し気に舌打ちをして、ルチアをにらみつけた。
「あの第二王子の母親、あの女があいつの実家の商品を気に入って、ねじ込んできたのだ。そうでなければ、辺境の前線にでも送っていただろうよ」
第二王子の母は王妃で、第一王子であるランベルトの母は側妃だった。
いくらランベルトが王妃を嫌っていても、まだ見習い騎士のカルロを辺境の前線に送るなど、それはカルロに死ねと言っているも同然だった。ランベルトのあまりにも残酷な考えを聞き、ルチアはそれ以上なにも言えなかった。
カルロは今では『子爵家の次男』だが、元は『平民の次男』だった。カルロの父親が大金持ちになり、かつて仕えていた主人から子爵位を買ったのだ。
商人として大成功したカルロの父親の口癖は、「力とは、金貨、銀貨、銅貨のことだ!」という下品なものだった。
「下品な家族のいるカルロを懲らしめるため、なかなか正騎士にしないでいる」
と、ランベルトはルチアに教えてくれたことがあった。
「たとえご家族が下品だったとしても、カルロとは関係ないのでは……?」
ルチアは不思議に思って訊ねた。
その質問は、どうやら『ランベルトに対する口答え』にあたるものだったようで、ルチアはランベルトの機嫌を損ねてしまった。
ルチアが不思議に思うことは、『ランベルトに対する不敬』なことが多くて、ルチアは何度も何度もランベルトを怒らせてしまった。
(だから、婚約を破棄されてしまったのかしら?)
ランベルトはルチアの言葉など、一つも聞いてくれなかった。
「ルチア・リートラインとの婚約を破棄する!」
ランベルトが舞踏会の夜に叫んだ声を、ルチアは忘れられなかった。
ルチアが社交界デビューを飾った舞踏会だった。
新しい水色のドレスはルチアの美しさを引き立ててくれた。
髪には、母が祖母から受け継いだという髪飾りがつけられていた。
一生に一回しかない、特別な、素敵な夜になるはずだったのだ。
ランベルトにエスコートされて大広間に入り、拍手や褒め言葉に包まれた。
国王夫妻への挨拶が済むと、ランベルトは王立学院での取り巻きたちと一緒に、アンゼリカという男爵令嬢の元へと行ってしまった。
一人になったルチアに、給仕がワインのたっぷり入ったグラスを渡してきた。
ランベルトが遠くからルチアを呼び、ルチアは少し慌てて声のした方へと向かった。
ランベルトばかり気にしていたルチアは、足元への注意が足りていなかったのだろう。
履きなれないハイヒールの爪先がなにかに引っかかり、ルチアは転びそうになってしまった。
「きゃあ!」
悲鳴を上げたのは、ルチアではなかった。
ランベルトの隣に立っているアンゼリカが、ワイン色に染まったドレスを見下ろしていた。
「あ、あの、わたくし……、ごめんなさい……」
ルチアは呆然として、中身のなくなったワイングラスを見た。
空のワイングラスを近くにいた給仕に渡し、ルチアはうつむいた。
アンゼリカになにかお詫びをしなくては、と必死に考えた。
「ごめんなさい。これ、これを……」
ルチアがアンゼリカに向かって、ランベルトに持たされていた金貨をさし出すと、アンゼリカは侮辱だと言って泣き出した。
「そんな、そんなつもりじゃなくて……」
ルチアの言葉は、ランベルトによって『言い訳』に分類された。
ランベルトの取り巻きたちが、ルチアのやってもいないアンゼリカへの嫌がらせを声高に語り始めた。
階段から突き落とそうとしたとか、教科書に悪口を書いたとか、筆記用具を隠したとか、乗馬服を破いたとか、他にもいろいろ……。
未来の王太子妃のやることとは思えない、自分より身分の低い者への酷い行いの数々。
さらには、嫉妬に狂ったルチアが、ランベルトの飲み物に毒を入れたことがあるという話まで出てきた。
「ルチア嬢はリートライン公爵家の令嬢です。糾弾するのを今までためらっていましたが、これほどの悪女だったとは……」
ランベルトは悲痛な面持ちで国王夫妻に語っていた。
「プラチナブロンドも、アイスブルーの瞳も、つんとした美しいお顔立ちも、いかにも冷たそうですものね」
どこかのご婦人の声が聞こえたのを覚えている。
ルチアには、髪や、瞳の色や、顔なんて、どうすることもできなかった。
異国には髪や瞳の色を変える薬や、顔立ちを変える医術があると聞いたことがあったけれど、そのどれもがルチアには遠いものだった。
アンゼリカは王立学院のみんなに『かわいい』と褒められていた。
ルチアはたまに『美人』と言われるくらいだった。
どうやらみんなは、『美人』よりも『かわいい』が好きなようだった。
ルチアを『悪役令嬢』と呼び始めたのは、誰だったのだろう。
その二つ名と、やってもいない悪行、やってしまった失敗により、ルチアは王太子の婚約者であることを振りかざし、非道の限りを尽くしたとして、幽閉されることになった。
「あら……?」
ルチアは部屋の扉の前に、カルロの忘れ物があるのを見つけた。
カルロが履いていたはずの、見習い騎士用の革のブーツだった。
(こんな忘れ物ってあるかしら?)
あまりにも間抜けな忘れ物だ。
ルチアにはカルロが自分を馬鹿にしているように思えた。
(みんな、みんな意地悪で、あのやさしげなカルロすら、こんな意地悪をしてくるなんて……)
ルチアは余計に悲しくなった。
一人ぼっちになると、部屋はどんどん冷えてきているように感じられた。
冬が終わり、春が訪れようとしている季節なのに、この部屋は冷え切っていた。
ルチアは部屋の隅に行って、壁に寄りかかって座った。
石でできた壁と床に触れていると、背中とお尻がどんどん冷たくなっていった。
立っているのも辛く、座ったら座ったで辛い。
ここで暮らすことがルチアに対する罰なのだと、思い知らされているようだった。
ルチアはカルロの忘れ物に目をやった。
どうやら新品のようで、汚れ一つない見習い騎士用の革のブーツだ。
ルチアはブーツのところに行って、そっと足を入れてみた。
床に直接触れるより、足の裏がずっと楽だった。
ルチアはなんだかうれしくなって、そのまま部屋の中を歩いてみた。
――カッポ、カッポ、カッポ。
ルチアの足には大きすぎるブーツは、おかしな音をたてた。
ブーツが床を叩く音がなんだか面白くて、ルチアは部屋中を歩きまわった。
動くと身体が少し温まってきた。
ルチアは幼い頃からずっと、いずれは王妃となるべく教育されてきた。
あまり要領も良くなければ、器用でもないルチアにとって、王妃教育は、何時間も一生懸命に勉強したり練習したりして、やっと身につけられるものだった。
王家のしきたりや礼儀作法を教えてくれていた、元王女である老いた公爵夫人は、いつもルチアに「もうちょっと頑張りましょう」と言っていた。
他の教育係の者たちからは、ランベルトは、賢くて、要領も良く、飲み込みも早いし、器用だと聞かされた。
だから、ルチアはお友達と遊んだり、好きなご本を読んだり、花園をお散歩するのを我慢して、一人で勉強したり、練習したりをくり返した。
王立学院に入学してみると、ルチアはまわりの子たちより、なんだか自分が幼いように思えた。
みんなにはすでに仲良しのお友達がいて、流行のおしゃれも知っていて、言うことも大人びていた。
ルチアが一人で必死に勉強しているうちに、他の子たちはルチアだけを残し、どんどん先に進んでいってしまっていたようだった。
教育係の者たちの言葉は本当で、ランベルトは王立学院での成績もいつも一番だった。二番は男爵令嬢のアンゼリカで、三番は第二王子、四番は騎士団長の娘のモニカ、五番がルチアだった。
三番と四番の順位が交代することはあっても、一番と二番と五番は変わらなかった。
ルチアがどんなに頑張っても、他の四人を追い抜けなかった。
上から数えた方が早い順位は、素晴らしいものではあったけれど、誰も「五番もすごいよ」なんて、ルチアに言ってくれたことはなかった。
ルチアの両親も、「王太子の婚約者が、男爵令嬢などの下の成績だなんて恥ずかしい」と怒っていた。
両親にとって、ルチアはずっと恥ずかしい娘だったのだろう。ルチアの婚約が破棄されると、両親はあっという間にルチアとの離縁届を提出して、ルチアをただの平民にした。
――カッポ、カッポ、カッポ。
(こうして歩きまわっていれば、愉快な音がするから、嫌なことなんて忘れてしまえるわ)
ルチアは窓の下に立って、力いっぱいジャンプしてみた。
外の景色が見えたら、もっと楽しい気持ちになれるだろう。
ここの窓からならば、きっと美しい景色が見えるはずだ。
いくらジャンプしてみても、窓の位置が高すぎて、ルチアには外が見えなかった。
ルチアは窓とは反対側の壁のところに行った。
窓の外に、水色の空が見えた。
(ここに立ったら、空や雲が見えるわ。夜になったら、お月様や、たくさんのお星様だって見えるかもしれない。夕焼けや朝焼けだって、きっと素敵だわ。綺麗なものを見ていたら、悲しいことだって、きっとみんな忘れてしまえるわ)
ルチアは動き回るのに疲れてきて、その場で座り込んだ。
ブーツをお尻の下に敷くことも考えた。けれど、カルロが怒って返せと言ってきた時に、ブーツが潰れてくちゃくちゃになっていたら、叩かれてしまうかもしれない。
お上品だと言われているランベルトに怒鳴られても、あんなに怖かったのだ。
ランベルトはカルロを『粗野で粗暴な見習い騎士』と言っていた。カルロが怒ったら、きっとものすごく恐ろしいだろう。
ルチアは急いでブーツを脱いで、元の場所に戻した。
(少し履いて歩きまわってしまったけれど、ほんの少しだけだから、きっとカルロにはわからないはずよ)
足やお尻が冷たいのも辛いけれど、怒られたり、意地悪を言われたり、叩かれたり、こっそりつねられるのは、もっと辛いような気がした。
(もうすぐ春になるのだもの。この部屋もきっと暖かくなるわ。それまでの辛抱よ。暖かい季節になったら、窓の外に鳥が見えたりするかもしれないわ。さえずる声だって聞こえるかも。ここにいたって、きっと楽しいことがあるはずよ)
もう王妃様になるための勉強をしなくてもいい。
知らない平民から石を投げつけられることもない。
お友達だと思っていた令嬢たちに、ひそひそと悪口を言われることもない。
――ルチアの耳に、靴音が聞こえてきた。塔の階段を誰かが上がってきているのだ。
ルチアは急いで立ち上がり、扉から一番離れた場所に移動して身構えた。
どさり、となにかが置かれる音がして、扉が勢いよく開いた。
「失礼いたします」
カルロが息を切らしながら、丸められた毛織の敷物を抱えて入ってきた。
「あ、あの、ブーツなら、そこに……」
ルチアがそっと手で示すと、カルロは顔をしかめた。
どうやら余計なことを言ってしまったようだった。
カルロは毛織の敷物を床に下ろし、縛っていた紐を解いた。
毛織の敷物はくるくると広げられ、石の床を覆い隠した。
真っ赤で分厚い上等な毛織の敷物は、まるで王宮に敷かれている物のようだった。
「ブーツは履かなかったのですか!?」
カルロに強く問われて、ルチアはびくりと身を縮めた。
ランベルトの言う通り、カルロは怖い人のようだった。
「ああ、いや、怒っているのではありません」
ルチアがカルロの足元を見てみると、カルロは少しくたびれた別のブーツを履いていた。
ルチアは二つのブーツを見比べた。
(もしかして、わたくしのためにブーツを置いていってくれたの?)
そんなことがあるだろうか?
ルチアは悪役令嬢で、みんなの嫌われ者なのに。
「また来ます」
カルロは羽織っていた毛皮のコートをその場で脱ぎ捨てると、新品みたいなブーツを抱えて部屋を出ていった。
ルチアは恐る恐る毛織の敷物に近づいて、そっと足先で触れてみた。特になにも起こらない。ごく普通の毛織の敷物のようだった。
毛織の敷物の上に立つと、足の裏がほんのり温かい気がした。
ルチアは毛織の敷物の上を通って、カルロが落としていった毛皮のコートのところに行った。毛皮のコートをそっと拾い上げてみると、端の方に値札が下げられていた。
値段と共に、販売元として記されていたのは、ハビリセン商店。
カルロの父が経営している、ランベルトが『卑しいなんでも販売店』と呼んでいた店の名前だった。
「落とし物……、なのよね……?」
この毛皮のコートも、毛織の敷物も、カルロがここにうっかり落としていってしまったのだろうか?
毛皮のコートは暑くなって脱ぎ捨てたのかもしれないけれど、毛織の敷物を広げて落として行ってしまうなんて、そんな間抜けなことがあるだろうか?
カルロは王立学院に通っていた頃は、ずっと成績が一番だったと聞いたことがある。
ルチアがあんなに頑張ってもなれなかった、一番。
ランベルトと同じ、一番。
「カルロなど俺にはまったく及ばない」
ランベルトは威張ってそう言っていた。ずっと一番だったカルロがランベルトに及ばないならば、ルチアはもっと及んでいないだろう。
カルロは家を継げない次男だから、王立学院に通っていた頃から騎士を目指していたらしい。王立学院を卒業したら騎士学校に入るつもりで、王立学院で習うことの他に、受験用の武術や兵法などの勉強もしていたと聞いたことがある。
カルロもランベルトやルチアと同じように、王立学院で教わること以外の勉強もしながら、それでもずっと一番だったのだ。すごく頭の良いカルロが、こんな大きな毛織の敷物を忘れていくだろうか。
ルチアは四角い毛織の敷物の上を一周して、この毛織の敷物にも値札がついているのを見つけた。こちらの値札にも、ハビリセン商店の名前が書かれていた。
ランベルトはカルロを『あの間抜け』なんて呼んでいたけれど、ルチアはカルロが間の抜けたことをするとは思えなかった。
ルチアは毛皮のコートに包まり、毛織の敷物の上に座った。
綿のワンピース一枚で、石の床に直接座っているよりも、ずっと身体が楽だった。
(カルロ……。ああ、わたくしはもう平民だったわ。カルロ様にしてみたら、わたくしを死なせるわけにはいかないものね)
カルロはおそらく、ランベルトからまた無理難題を押しつけられたのだ。
今回は、『悪役令嬢を生かしておく』という嫌な任務だろう。
ルチアはカルロを気の毒に思った。
ルチアはその場でしばらく眠ってしまっていたようだった。
部屋の扉が開く音がして、カルロがまた入ってきた。
ルチアはぼんやりカルロを見上げた。
「お食事をお持ちしました」
カルロはピクニックにでも行くみたいな、かわいいバスケットを腕から下げていた。
「あっ、ありがとうございます!」
ルチアは急いで立ち上がって、バスケットを受け取ろうとした。
「お食事をご一緒しても?」
カルロに問われて、ルチアは急いで「はい」と答えた。
もう二度と、誰かと一緒に食事をすることなんてないと思っていた。
カルロは毛織の敷物の上に、お花の柄のランチョンマットを敷いた。
保温のできる筒に入れられたお茶と、様々な具材の挟まれたサンドイッチが並べられた。
「ピクニックですね!」
ルチアはランチョンマットの前にちょこんと座った。
カルロもルチアの向かい側に座ってくれた。
「ピクニック……。ええ、そうですね」
カルロは苦笑してから、筒からカップにお茶を注き、ルチアに渡してくれた。
ルチアはカップに視線を落とした。
(これはもしかして、わたくしは毒殺されるのかしら?)
眠るように死ねる毒なら良いけれど、苦しんで血を吐いたりしながら死ぬのは怖かった。
ルチアがためらっていると、カルロが自分の分のお茶を飲んでみせてくれた。サンドイッチも先に食べてみせてくれた。
「毒など入れませんよ」
カルロにほほ笑まれて、ルチアは「すみません……」と顔を伏せた。
少しぬるいお茶も、ちょっと冷たいサンドイッチも、とてもおいしかった。
「こっちの合鴨を焼いて挟んだものもおいしいですが、このスライスしたゆで卵とハムと葉っぱのもおいしいですよ」
カルロはあまり食材に詳しくないのか、葉物野菜はみんな葉っぱと呼んでいた。
ルチアはすごく賢いはずのカルロが『別な葉っぱ』などと言うのが、なんだか面白かった。
「こんなにおいしい食事は久しぶりです」
ルチアが笑うと、カルロは切なげに目を細めた。そして、さらにいろいろなサンドイッチを勧めてきた。
カルロのバスケットからは、ルチアの大好きなプリンも出てきた。まだほんのり温かいプリンには、カラメルがたっぷりかかっていた。
「あら! すごいわ! またプリンが食べられるなんて!」
ルチアはカルロが食べるのも待たずに、プリンにスプーンを入れた。
大好きなプリンを食べながら死ねるなら、それも良いと思った。
それに、カルロは毒など入れないと言っていた。カルロがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
ほろ苦いカラメルと、甘く蕩けるプリンの甘さ。バニラの香り。
ルチアはうっとりとして幸せをかみしめた。
「これは我が家の料理人に報奨金を出さないといけないな」
カルロは満足げにルチアを見ていた。
ルチアは自分の子供っぽさが急に恥ずかしくなった。
「すみません。はしたなくて」
ルチアはうつむいて謝った。
両親ならば、きっとすごく怒ったはずだ。ルチアはもっとしっかりして、立派な王太子妃にならなければならなかったのだ。
「いえ、そんな……」
カルロは小さく息を吐いた。やっぱり子供っぽいルチアに呆れてしまったのだろう。
仲良しだと思っていた王立学院の令嬢たちも、本当はルチアを好きではなかったみたいだった。
カルロもランベルトに命じられた任務だから、ルチアが死なないように、こうして見張っているだけで、本当はルチアといるのは嫌だろう。
「とても……、かわいらしいと……、思いました」
カルロがすごく小さな声で言った。
「えっ、ええっ!? あのっ、ありがとうございますっ!」
ルチアは声を裏返らせた。
かわいらしいなんて言われたのは、人生で初めてだった。
『かわいい』という褒め言葉は、ずっと、アンゼリカやルチアの妹たちや、他の令嬢たちのものだった。
ルチアはそっと胸を押さえた。この胸の奥にある宝箱に、今の言葉をしまっておこう。
幽閉されたって、こうして宝物が増えることだってあるのだ。
ルチアはこの寒くて小さな部屋でも、なんとか生きていけそうな気がした。
カルロは翌日には、椅子を運んできてくれた。
背もたれのある、愛らしいピンクの革が張られた猫足の椅子だった。
ルチアは椅子の上に立って、窓の外を見てみようとしたけれど、だいぶ身長が足りなくて見られなかった。
さらに翌日、カルロはカルロの父と兄と共に、木製の茶色い寝台とテーブルを持ってきてくれた。
室内に運び込むのだけは、カルロが一人でやってくれた。
カルロは汗だくになりながら、簡素な寝台を毛織の敷物の上に置いてくれた。
小ぶりな四角いテーブルも、すごい形相で抱えて運び、窓の下に置いてくれた。
ルチアはテーブルについて食事ができるようになった。
お行儀が悪いけれど、テーブルの上に立って背伸びをしたら、外を見ることもできた。
窓の外には、まだ葉っぱのない木々に囲まれた王都が見えた。
王宮である大きなお城は、たくさんの塔があってとても立派だった。
大聖堂のてっぺんにある大きな鐘も見えた。あの鐘が次に鳴らされるのは、ランベルトとルチアが結婚する時のはずだった。
貴族の住む大きな館や、平民の住む小さな家々。
あちらこちらで煙が上がっているのは、料理をしているからか、それとも部屋を暖めているのだろうか。
「カルロ様、いろいろご配慮くださり、ありがとうございます」
ルチアがお礼を言うと、カルロは顔を赤くして「世話係ですから」とだけ応えた。
カルロが世話係として、ルチアが死なない程度に世話をしてくれているだけならば、簡素な寝台の上掛けに刺繍なんてなかっただろう。上掛けには、ルチアの大好きな苺が、葉っぱや白いお花と共にたくさん刺繍されていた。
そんな素敵な偶然なんて起きないと、ルチアはもう知っていた。
ルチアはカルロに椅子に座ってもらい、自分は部屋の中央に立つと、この国の国歌を歌った。ルチアの一番得意な歌が、国歌だったのだ。
こういう時、他の令嬢たちならば、かわいい流行歌を歌っただろう。ルチアだってかわいい歌を披露したかった。けれど、ルチアは残念ながら、一つも知らなかった。
王妃教育で教わったのは、国歌や騎士団歌、王国軍歌に、近隣の友好国の国歌。
ルチアの歌のレパートリーは、それらに子守歌や童謡のような子供っぽい歌と、王立学院の校歌を加えたものだった。
「良くしていただいたから……。お礼のつもりなのです」
ルチアは歌い終わってから、カルロに説明した。
今のルチアにできるのは、こんなことくらいだった。
「その……、ルチア嬢」
カルロは両手で顔を覆ってしまった。首から耳まで真っ赤だった。
ルチアは驚いて駆け寄った。
「すみません、カルロ様。国歌はお嫌いでしたか?」
「カルロ様……」
「あっ、すみません、お名前で呼ばない方が良かったですか?」
カルロはテーブルに突っ伏してしまった。
だいぶ具合を悪くさせてしまったようだった。
ルチアはおろおろしながら、カルロが少し良くなるのを待った。
「神々しかったです」
カルロが力を振り絞るようにして言った。
想定外の言葉だった。ルチアには、それが褒め言葉なのかわからなかった。
王立学院の音楽の授業では、上手とか下手とか、綺麗な声とか、澄んだ声とか、そんな称賛ならば聞いたことがあった。
ルチアだって『神々しい』という言葉自体を知らないわけではない。神話に出てくる神様の姿や、奇跡が起きた時の光に対して使われているのならば、見聞きしたことがあった。
ルチアには、自分のようなただの令嬢の歌った国歌が、『神々しい』などということがあるとは、まったく思えなかった。
「あの、無理にお褒めいただかなくても……」
お礼のつもりが、カルロに気を使わせてしまった。
ルチアは自分がとても身勝手なことをしてしまったのだと思った。
たいして上手でもない歌など聞かされたら、カルロだって困るだろうということに思い至れなかった。
「すごく良かったです!」
カルロは勢いよく身を起こすと、新緑の色をした瞳でまっすぐにルチアを見た。
驚いたルチアが、戸惑いながらうなずくと、カルロは大きなため息をついた。
「あっ、あのっ、本当にご無理は……」
「無理などしていません……! 素晴らしかったです!」
カルロは苦悩に満ちた目でルチアを見つめた。
そのまた翌日には、カルロは母と姉を伴って、ルチアのところにやって来た。
「男の自分では思いつかない不便がないか、母と姉に意見を聞きたいと思いまして」
遠慮がちに言ったカルロの腕には、茶色の大きな熊のぬいぐるみが抱えられていた。
「二人が、私のいない時にもルチア嬢を護衛する者が必要だと申しまして……」
カルロは部屋に入ってくると、熊のぬいぐるみを寝台に座らせてくれた。
熊のやさしい黒い瞳が、ルチアの姿を映していた。
「ありがとうございます! とってもかわいいです!」
ルチアは綿のワンピースをつまんでお辞儀をした。
顔を真っ赤にしたカルロが、ルチアから目を逸らした。
「あらあら、まずは着る物をなんとかしないといけないね!」
「ルチア嬢、もっと扉の方に来てください。わたくしが採寸いたします」
ルチアが扉のところに行くと、カルロの姉がルチアの身体のサイズを測ってくれて、カルロの母が手帳に数字を書き込んでいった。
そうしている間に、カルロが箒と塵取りを使って、部屋の掃除をしてくれた。
「とりあえず一枚、もう少し厚手の服を買ってくるわ。やっぱり別な馬車で来てよかったわ! 待っていてね、小さなお嬢様」
カルロの母は手帳をぱたんと閉じると、螺旋階段を下りていった。
残ったカルロの姉は、ルチアがどんなドレスを好きなのかとか、好きな色とか、気に入っていたアクセサリーなどを次々と質問してきた。
ルチアが苺が大好きだと言うと、カルロの姉はカルロを見てすごくにやにやした。
「ルチア嬢、最近、カルロも苺が好きみたいなんですよ」
「あら、そうなのですね!」
ルチアは寝台の上掛けを見た。あの苺がたくさん刺繍された上掛けは、カルロの趣味だったのだろう。
「姉上、やめてください!」
カルロはまた顔を赤くした。男なのに愛らしい苺が大好きだなんて、きっと恥ずかしいのだろう。
ルチアは同じ物が好きなカルロに、少しだけ親しみを覚えた。
「私がお食事を届けられない時には、母か姉が届けに来ます。他の者からの食べ物を口にされる時には、どうかくれぐれもお気をつけください」
「わかりました。ありがとうございます。螺旋階段を上るのは大変でしょう。苦労をおかけして申し訳ありません」
ルチアはカルロとカルロの姉に向かって、またお辞儀をした。
カルロの姉は、「カルロのお邪魔でしょうからね」などとにやにやしながら帰っていった。
それからすぐ、カルロの母が戻って来た。お湯も持ってきてくれていて、ルチアの身体を拭き清めてから、毛織物のドレスとタイツを着せてくれた。さらに、革のブーツも履かせてもらった。
ココア色のやわらかなドレスも、黒いタイツも、内側がふかふかの茶色い革のブーツも、みんなとても暖かかった。
「ありがとうございます!」
ルチアは平民用のドレスを着たのは初めてだった。その場でくるりと回ってみると、カルロとカルロの母が、「似合う」と言って褒めてくれた。
そんなことをしているうちに、階段の下から賑やかな声が聞こえてきた。
カルロの姉が父と兄と共に、小さなバスタブを持ってきてくれたのだった。
「父上と兄上まで来たのか!?」
「この二人が、あんたのお姫様にバスタブを仕入れてきたのよ」
驚いているカルロに、カルロの姉が言った。
またカルロが汗だくになりながら、ルチアの部屋の隅にバスタブを置いてくれた。
「狭い部屋に置けるとなると、平民用のこんなのになっちゃうんだけど、ないよりずっといいはずですよ」
カルロの母が申し訳なさそうに言うので、ルチアの方こそ、とても申し訳ない気持ちになった。
ただの木桶を大きくしたような、あまり見栄えのよくないバスタブだったけれど、お湯を入れたらお風呂に入ることができるのだ。
(幽閉された悪役令嬢には、贅沢すぎるくらいだわ)
ルチアは毛織物のドレスのスカートをつまんで、またお礼を言いながらお辞儀をした。今度はもう、カルロは顔を赤くしたりしなかった。
「暖炉も付けてやりたいところだが、煙が王都から見えちまうだろうからなぁ」
「下手に火の桶なんて置いても、中毒を起こすといけないしな」
カルロの父と兄が口々に言った。
「カルロ、気を付けろよ。外から見える壁を変形させると、ここでなにかが起きていると感づかれるぞ」
カルロの父親は、部屋の出入口に座り込んで休んでいるカルロの肩を叩いた。
「私たちが来られない時は、こっちの男二人も来るかもしれないから、よろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします」
ルチアはカルロの家族たちに、また丁寧なお辞儀をした。
騒がしいカルロの家族は、カルロをからかいつつ、みんなで仲良く帰っていった。
しんとしてしまった部屋は、少しさみしかった。
ルチアは寝台に座っている熊のところに行った。
ふわふわの熊を抱きしめると、さみしさが少しやわらいだ。
季節は少しずつ移り変わり、寒さもだいぶ和らいできた。
ハビリセン子爵家の人々に助けられ、ルチアはなんとか春を迎えられそうだった。
ルチアの部屋の窓から見える景色は、茶色の枝だったところに、薄紅色の花が咲き始めていた。
「ピオ、見える? だいぶお花が咲いてきたわ」
ルチアはテーブルの上で背伸びをしながら、熊のぬいぐるみにも景色を見せていた。
社交界デビューをした令嬢のお友達が、熊のぬいぐるみというのは、あまりにも幼稚な気がした。
けれど、ルチアには、友となってくれる者が他にいなかった。
ルチアが『ぬいぐるみのお友達』などという、子供っぽいものを持ったのは、熊のピオが初めてだった。
ルチアは『早く立派な大人になって、王太子殿下をお支えするように』と言われてきた。
子供っぽいことは、他の子たちよりもずっと早くに卒業したはずだった。
「お花が満開になったら、きっともっと綺麗よ。また一緒に見ましょうね」
満開のお花の下を一緒に歩くことは、この先もきっとできないだろう。けれど、ここから一緒に景色を眺めるのだって、充分に素敵なことだと思った。
ルチアはピオを抱えなおし、もう一度、窓の外をのぞいた。
王都の上を、白い鳥の群れが右から左に向かって飛んでいた。
(あれは渡り鳥なのかしら?)
なんて、ルチアが考えていると、いきなり扉が開いた。
ルチアはつま先立ちのままふり返ろうとして、テーブルの上でバランスを崩してしまった。
「あっ!」
ルチアは目をきつく閉じ、ピオをぎゅっと抱きしめた。
なにかがどさっと落ちる音がして、次の瞬間、ルチアはたくましい腕に抱えられていた。
「ルチア嬢!」
呼ばれて、目を開けると、カルロの顔がすごく近くにあった。
「あ……、カルロ様」
こうして見ると、カルロの顔は、ランベルトなどよりもずっと素敵だった。
金色の髪は輝いているし、緑の瞳はどんな宝石より綺麗だ。
目も鼻も口も、顔の輪郭も、みんなすごく形が良い。
それに、カルロからは、とっても良い香りがした。
「お怪我はありませんか?」
やさしい声も、高すぎず低すぎず、耳に心地よかった。
「はい。あの、わたくし、外を見ていて……。決して脱走するつもりなどは……」
ルチアが脱走したら、カルロが困ることになる。
これまでカルロには、ずっと助けてもらってきたのだ。ルチアは脱走するなどということは、一度も考えたことがなかった。
「外に……行きたいですか……?」
カルロはルチアをピオごと抱きしめた。
ルチアはピオを抱えていて良かったと思った。心臓がすごく早く動いていて、音も大きくて、どうかしてしまったみたいだった。
「そんな……、そんなこと……」
ルチアは否定しようとして、できなかった。
カルロと一緒に、薄紅色の花が咲き乱れる並木道を歩く。
心に浮かんだ景色が、あまりにも幸せそうだったから。
「あっ、これは失礼を!」
カルロが慌てて、ルチアを放した。ルチアは急いで立ち上がり、ドレスの腰や裾を整えた。
カルロは落としたバスケットのところに行き、こぼれた中身をバスケットに戻した。
「わたくし、逃げたりいたしません」
ルチアはカルロに宣言した。
ここにいたら、カルロが毎日のように会いに来てくれるのだ。
(他に行きたい場所なんてないわ)
と、ルチアは思った。
窓の外で花が満開になり、散っていった。
新しい葉が芽吹き、目にも鮮やかな緑が王都を彩った。
そんなある日、カルロはペンとインク、封筒と便箋を持ってきてくれた。
「どなたかに便りを送りたいこともあるかと、いまさらながら気づきました」
カルロはとても申し訳なさそうにしていた。
(お手紙を書く相手?)
ルチアは考え込んだ。
普通ならば、まずは両親だろう。しかし、両親はルチアから手紙なんてもらっても、きっと喜ばないだろう。ルチアの言い分も聞かずに離縁して、この幽閉先にだって、一度も来たことがないのだ
妹たちも同様だった。迷惑がられそうな気しかしない。
王立学院で一番の仲良しだった、成績が三番か四番のモニカだって、悪役令嬢から手紙が届いたら迷惑だろう。
王立学院や舞踏会などで知り合った他の令嬢たちはどうだろう。ぼんやり令嬢たちという括りしかできない彼女たちは、具体的に誰という名前も浮かんでこなかった。
ランベルトに無実を訴える? そんなことをしたら、ランベルトはきっと怒ってここにやって来る。ランベルトがルチアの牢に素敵な家具があることを知ったら、カルロが大変なことになってしまうだろう。
「ありがとうございます。少し考えてみますね」
「会いたい方がいたら、私に言ってください。なんとか連れてこられるように努力します」
「はい、そちらも考えてみますね」
ルチアの会いたい方は、今ではカルロだけだった。
かつてルチアは王宮の書庫で、誘拐されたお姫様の心理について書かれた研究書を読んだことがあった。
ルチアと同じように部屋に閉じ込められたお姫様は、誘拐犯しか頼る者がいないため、誘拐犯に恋をしてしまったと書かれていた。
その恋は誘拐されたことに対する、自己防衛のためのものであり、『誘拐病』という名前のある立派な病気だと書かれていた。
ルチアはカルロに誘拐されたわけではないし、カルロの家族も食事や季節にあったドレスを持って会いに来てくれていた。
カルロは本に出てきた誘拐犯たちみたいに、ルチアを叩いたり、首を絞めたり、食事をくれないなんてことはしなかった。
カルロの他に頼る者はないけれど、ルチアはきっと自分は『誘拐病』ではないと思った。
もし『誘拐病』にかかっているのだとしても、ルチアはかまわなかった。ルチアの世界にはもう、カルロとその家族くらいしかいないのだ。カルロを好きなら、それは幸せなことだと思った。
カルロが帰っていくと、ルチアはテーブルに便箋を広げた。字を書くのは久しぶりだった。
一通目は、窓の外の新緑に囲まれた王都と、カルロの新緑の色をした瞳を重ね合わせ、遠まわしにカルロを称賛する詩を書いた。今のルチアに書ける、精一杯の恋文だった。
二通目は、いつもお世話になっているカルロの母と姉へのお礼状。
三通目も、カルロの父と兄へのお礼状だった。重いテーブルやベッドを運び上げてもらったのだ。お礼状くらい出さないと失礼だと思った。
四通目は、いつも仲良くしてくれているピオに、お礼のお手紙を書いた。ピオだって本当は、悪役令嬢ではなく、善良な普通の令嬢を持ち主にしたかったかもしれない。『悪役令嬢でごめんね』と最後に書き添えた。
ほんの数か月前まで寒かった部屋は、夏が近づくにつれて暑くなっていった。
ルチアは風の鳴る音に混じって、誰かの泣き声を聞いたような気がしたことがあった。夏はこの国でも、お化けが出る季節だった。ルチアは気の早いお化けが出て来たのかもしれないと思って、少しだけ怖くなった。
夏の直前にある短い雨季には、カルロがずぶ濡れになって来ることが何度かあって、ルチアはカルロの体調がとても心配になった。
カルロは、雨季には雨季らしい贈り物をしてくれた。
雨季にだけ咲く、紫色の小さな花が円形に集まった、雨季花と呼ばれる花。その葉っぱにのっている一匹のカタツムリ。
カタツムリはルチアの部屋では長くは生きられないので、すぐにお帰りいただいた。
雨季花は花瓶に入れられて、かなり長い間、ルチアの目を楽しませてくれた。
ルチアは雨季花をテーマに詩を作り、カルロに聞かせることでお礼とした。
カルロは「尊い……!」という、これまたルチアには良くわからない反応をした。喜んでもらえていたようではあった。
カルロの母と姉が、刺繍用品を差し入れてくれると、ルチアはハンカチに雨季花を刺繍して二人に贈った。二人はハンカチを見て泣いてしまい、ルチアはかなりおろおろした。
本格的な夏になると、ルチアの部屋は蒸し風呂のように暑くなった。
カルロの母と姉が、南の国のゆったりしたワンピースを取り寄せてくれた。
カルロも涼しげな扇を贈ってくれた。
ルチアは毎日、カルロのくれた扇で自分とピオを扇いで、なんとか暑さをしのいでいた。
敷物も毛織物から、東の国から取り寄せた、ひんやり涼しいものに取り換えられていた。
窓の外を見るのも、夕方にならないと、石の壁が暑くて危険なほどだった。
夏の夕焼けが赤く彩る王都に、一つ、また一つと火が灯っていく様は、とても美しかった。
毎日、毎日、窓の外の景色は少しずつ変化していく。
ルチアは今では、この部屋での暮らしも好きになっていた。
カルロと家族たちは、毎日、毎日、ルチアに氷を届けてくれた。
ハビリセン商店では毎年、夏には氷を削ってシロップをかけたお菓子を店頭で売って客寄せをしていた。
けれど、今年は、氷とシロップのお菓子は売られなかった。
ある日の夕方、カルロが氷を持ってルチアの元に来てくれた時、ルチアは敷物の上で横になっていた。
「ルチア嬢……!」
「カルロ様、すみません……。わたくし、ちょっと吐き気が……」
夏の暑さによって起こる、この国では『暑さ病』と呼ばれるものだった。
カルロはテーブルに飛び乗ると、剣を使って窓ガラスを割った。涼しい風が入り込み、部屋の温度は少しずつ下がっていった。
カルロは氷でルチアの身体を冷やしてくれた。ルチアに塩と砂糖の入った水もたくさん飲ませてくれた。
ルチアはカルロのおかげで、なんとか元気を取り戻していった。
翌日、カルロは見習い騎士の仕事を休み、一日ずっとルチアのそばにいてくれた。
カルロがぐったりしているルチアの手を握ってくれた時、ルチアは『暑さ病』ではない理由で、死んでしまいそうだった。すごくどきどきして、顔も熱くて。幸せで、切なくて、うれしくて、恥ずかしくて……。いろいろな気持ちがごちゃ混ぜになって、終いには苦しいような気さえした。
夏の嵐の晩には、カルロは「清らかな乙女の部屋だぞ……!?」と嘆きながらも、一晩中ずっとルチアと一緒にいてくれた。
カルロは嵐が来るとわかってから、窓を修理するか、木の板かなにかで塞ぐか、そのままにしておくかで悩んでいた。
窓の前で行ったり来たりしながら、「窓を木やガラスで塞いだら部屋が蒸し風呂状態になるぞ」とか、「いや、ガラスが割れたままでは雨が吹き込むだろ……」とか独り言を言っていた。
カルロはルチアの『暑さ病』を恐れて、窓をそのままにしておくことにしたようだった。
窓ガラスが割れたままのため、雨が吹き込むことはどうにも避けられなかった。
カルロは家具をすべて部屋から螺旋階段へと移してくれた。
ぬいぐるみのピオも、苺の刺繍がされた上掛けと共に、螺旋階段に避難した。
稲光が部屋を照らし、遠くで雷鳴が轟く度に、ルチアは目を閉じ、耳を押さえて震えた。
カルロはそんなルチアを抱きしめて、ずっと守ってくれた。
ルチアはカルロと共に、雨でずぶ濡れになりながら、なんとか恐ろしい夜を乗り切った。
それからしばらくして、カルロは魔除けのお守りとして、ルチアに苺のペンダントをくれた。
ルチアはこの愛らしい魔除けの品を身につけると、カルロにお礼として自作の『苺の歌』を聞かせた。
カルロは床を転がって喜び、ルチアはカルロがどうかしてしまったのかと、すごく心配になったのだった。
ハビリセン子爵家の人々の力で、ルチアはなんとか夏も乗り越えられた。
秋になると、王都のまわりの木々は、赤や黄色に色づいていった。木の葉は日に日に色を変え、徐々に茶色も増えてきた。
これまでの景色の中には、いつだってカルロの瞳を思わせる緑が輝いていた。
ルチアは秋色に染められた景色を見ながら、カルロのことを思った。
カルロにも、婚約者がいるかもしれない。赤や金色や茶色の髪をした、素敵な女性といずれ結婚するのかもしれない。
(わたくしは悪役令嬢だから、一生ここから出ることができない。いずれ正騎士となるカルロ様を、妻としてお支えすることはできない……)
カルロはルチアの世話係をランベルトに押しつけられた。だから、こんな塔のてっぺんまで、大変な思いをしながら、毎日のように上って来てくれている。とってもやさしい方だから、ご家族にまで頼んで、ご家族にも大変な思いをさせながら、ルチアに食事を運んできてくれている。
ルチアはぐるぐると渦を巻いていた螺旋階段を思い出した。カルロに抱えてもらって上ってきたのに、目が回りそうになった。自分の足で上がるのは、どれだけ大変だろう。
(あんなにやさしくて素敵な、いずれ騎士として大活躍される方ですもの。きっと素敵な方と結婚して、それで……、それで……)
ルチアの世話係も、いつかカルロから別な人になるかもしれない。
あんなに青々としていた木の葉も、今では赤や黄色や茶色で、いずれ冬が来たら、枯れ葉となって地面に落ちる。
人間だって、ずっと同じではいられない。
ルチアだってランベルトの婚約者だったのに、今では悪役令嬢としてこの塔で暮らしているではないか。
カルロが結婚する時、ちゃんと「おめでとうございます」と言えるだろうか。
これまでずっと良くしてもらったのだから、お祝いの言葉くらい贈らないと……。
カルロが誰かと結婚すると考えただけで、ルチアは胸が痛くて、涙が出そうだった。
「ルチア嬢にご相談があります」
パンと温かなシチューを持ってきてくれたカルロが、食事をしているルチアに言った。
「なんでしょうか?」
これまでカルロから相談なんてされたことはなかった。
ルチアはカルロが、ルチアと婚約者を会わせたいと言うのではないかと心配になった。
「だいぶ涼しくなってきましたので、私が割ったこの部屋の窓を修理したいのです」
ルチアははっとして、頭上にある窓を見た。
あの暑い夏の日、ルチアを助けるため、カルロは窓ガラスを割ってくれた。
「この部屋には、わたくしの他にはカルロ様しか入れないのに……。修理なんて無理ですわ……」
こんな高いところの窓のガラスを入れ替えるなんて、ルチアにはどうやるのかまったくわからなかった。
「私が職人に弟子入りして、やり方を学んできました。修理をする日には親方も来て、部屋の外から指示を出してくれることになっています」
「カルロ様は元は平民とはいえ、今はもう子爵令息ですわ。平民の職人に弟子入りして、窓ガラスの交換を習うなんて……」
悪役令嬢である自分のために、そんな苦労をさせていたなんて、まったく知らなかった。
(大変な思いをすればするほど、カルロ様はわたくしを嫌になってしまうのではないかしら……)
窓ガラスが割れたままでは、ルチアは確実に冬を越せない。
カルロの仕事がルチアを生かしておくことならば、なんとかして窓ガラスを交換しなければならないだろう。
「申し訳ありません。わたくし、カルロ様に迷惑ばかりかけていますね……」
おいしかったシチューもパンも、急に味がしなくなった。
「ルチア嬢のことを迷惑だなどと思ったことはありません」
「ありがとうございます」
ルチアは礼を言いながら、迷惑とかそういう問題ではなく、これはカルロがランベルトに与えられた仕事だったことを思い出した。
カルロにとってルチアの世話係は、『大変な仕事』もあれば、『楽な仕事』もある、そういうものなのだろう。
それから数日後、カルロは私服姿で、二人の職人と共にやって来た。
カルロは一人でテーブルを移動させ、窓のある壁の前に脚立を置いた。
カルロが脚立に上り、割れた窓ガラスに手を伸ばした時、ルチアは叫ばずにはいられなかった。
「カルロ様、危ないです! やめて! やめてください! 危なすぎます!」
脚立はぐらぐらしていて、今にもカルロは窓の外に投げ出されそうに見えた。
「ルチア嬢、大丈夫です。なにも問題ありません」
カルロはルチアの目には、ひどく緊張しているように見えた。職人の元で修行を積んできたから大丈夫だろう、なんて思えなかった。
窓の外に飛び出してしまったら、カルロは間違いなく死んでしまう。
「カルロ様、お願いです! どうかお願いですから、やめてくださいませ!」
ルチアはぐらぐらしている脚立を両手で握った。
なんとかしてカルロの身を守りたかった。
「ルチア嬢こそ、そんなところにいてはお怪我をなさいます!」
「わたくしは退きません!」
ルチアとカルロが見つめあうと、ドアの外で笑い声がした。
ルチアが職人たちを見ると、職人たちはとても楽し気に笑っていた。
「いやぁ、俺たちときたら、なにを見せられているのやら! 参った参った、アツいったらねえや!」
「親方、笑いすぎっすよ!」
寒くなってきたから窓ガラスを入れ替えなくてはならないのに、なにがアツいのだろうか。階段を上がってきたからだろうか。
ルチアはちょっぴり腹が立った。
「まったく仕方のねえお貴族様方だよ。おい、王子様、脚立から下りな」
親方と呼ばれた中年男が、脚立を担いで部屋に入ってきた。親方の後ろからは、おそらく弟子なのだろう若い男までついてきた。
「おい、この部屋は……!」
カルロは脚立から飛び降りて、ルチアを背後に庇った。ルチアは驚きながら、カルロの後ろから職人たちを見た。
「はいはい。王太子殿下の命令で入っちゃいけねえんだろ? なあ、王子様にお姫様、この部屋にはあんたら以外、誰も入っちゃいねえと思わねえか?」
「おうよ、誰も入ってなんていやしませんぜ。俺はなにも見てねえですよ」
二人は脚立の位置を直し、ガラスを室内に運び込み、慣れた様子でガラスを交換してくれた。
ルチアとカルロは、黙って二人の匠の技を見ていた。
「こうしてガラスを入れ替えてやったわけだが、こちらのお貴族様方は、王太子殿下の命令に背いた俺らを、王太子殿下に突き出すか?」
親方が太い腕を組み、怖い顔をしてカルロとルチアに訊いてきた。
「ガラスを入れ替えてくださって、ありがとうございます。わたくし……、ここを出られないのです……。お二人を突き出すことができません……」
「お二人を突き出したら、私まで罰せられます。私はなにも見ていない」
ルチアとカルロが言うと、二人の職人は満足げに大笑いをした。
二人は脚立と道具と割れたガラスを担ぎ、部屋を出て行った。
「カルロ様、もう危険なことはしないでくださいませ」
ルチアはひざまずいてカルロに頼んだ。カルロは慌ててルチアを立たせた。
「私は見習いとはいえ騎士です。ルチア嬢のため、これからもあらゆる危険に立ち向かうでしょう」
ルチアはただ、カルロに生きていてほしいだけだった。カルロが騎士とかそんなことは、どうだってよかった。カルロと話が噛みあっていないと思った。
「危険に立ち向かうなんて、やめてほしいのです」
「ルチア嬢の頼みでも、それは聞けません」
ルチアはカルロにいっそ騎士など辞めてほしかった。カルロが死ぬかもしれないと思った時、本当に恐ろしかったのだ。
「わたくし……、カルロ様に生きていてほしいのです……」
騎士とかそういう問題ではない。カルロにとっては騎士が大事かもしれないけれど、ルチアにとって大事なのはカルロだった。
「それは……、その……、どういう意味か教えていただいても?」
「生きていてほしいとは、生きていてほしいという意味です。死んでほしくないとも言い換えられます」
ルチアはカルロに説明した。これならさすがにカルロにもわかるだろう。
カルロは王立学院でずっと一番の成績だった、すごく賢い男のはずなのに、なぜこんな簡単なことがわからないのだろう。
「なぜ生きていてほしいのか、教えていただいても?」
「え……? なぜって……」
ルチアは言葉に詰まった。『カルロが好きだから生きていてほしい』と、はっきり言うのは恥ずかしかった。
ルチアは顔を真っ赤にしてうつむいた。
カルロはずっと騎士を目指して努力してきた。
騎士とは、敵と戦ったりする危険な仕事だ。
ルチアはカルロの婚約者でもなんでもない。ただ一方的にカルロを好きなだけだった。いきなりカルロに死なないように生きることを強要しようとするなんて、筋違いも良いところだった。
「……ルチア嬢、つまらぬことをお訊ねしました。お許しください」
カルロは足早に部屋を出て行った。
いつもならば、カルロはルチアとおしゃべりをしたり、一緒に景色を見たり、ルチアの歌や詩を聞いてくれたりした。
ルチアは自分がカルロの踏み込んではいけない場所に、距離感も考えないで入り込んでしまったのだと思った。
ルチアはみんなの嫌いな悪役令嬢で、カルロはその世話係を押しつけられた気の毒な男だ。
カルロがとってもやさしいから、ルチアは自分が何者なのか、今まですっかり忘れてしまっていた。
「しずまれっ、我が心の内で荒ぶる獣よ……っ!」
カルロが螺旋階段の下の方で「うおお!」などと叫んでいるのが聞こえた。カルロはルチアが聞いたこともない、恐ろしい唸り声も上げていた。
ルチアは自分がカルロに言ってはならないことを言ってしまったのだと思った。
その日から、カルロはすっかりよそよそしくなった。部屋に入ってくる足取りも、食事を並べてくれる手つきも、なんだかぎくしゃくしていた。
「あの、カルロ様、身の程もわきまえず、余計なお願いをしてしまいました。もう申しません。お許しください」
ルチアはひざまずいてカルロに謝った。カルロは顔を真っ赤にしてルチアを立たせると、とても耐えられないとでも言いたげな様子で、部屋から足早に出て行ってしまった。
ルチアはカルロがかなり怒っているのだと思った。カルロにすっかり嫌われてしまって、顔もろくに見てもらえず、目も合わせてもらえなくなったことが、とても悲しかった。
(わたくしったら、なんであんなことを言えたのかしら……? カルロ様が死ぬかもしれないと思って動揺したとはいえ、カルロ様の人生の目標に口出しをするなんて……)
きっとカルロには、ルチアが図々しい嫌な女に見えただろう。
カルロにまで冷たくされてしまっては、ルチアはこの世界に居場所などなかった。
「ピオ、わたくし、大失敗をしちゃったの」
ルチアは涙をこらえて、お友達に相談した。ルチアにはカルロが連れてきてくれたピオがいた。ルチアはまだ、一人ぼっちではなかった。
ルチアはピオをぎゅっと抱きしめた。
ピオはただ静かに、ルチアの悲しみを受け止めてくれた。
窓の外では、木々が色づいていた葉を落とし、王都は茶色に染まっていた。ルチアがこの部屋に幽閉されたばかりの頃と、似たような景色だった。
カルロは毛織の敷物を何枚も敷いてくれた。寝具も苺の刺繍の上掛けの他に、毛織の上掛けを何枚も持ってきて、ルチアが自分で調節できるように、部屋の隅に積んでくれた。
服もカルロの母と姉が、暖かいドレスや上着やマフラー、手袋まで持ってきてくれた。
カルロの母と姉は、螺旋階段を下りながら、「カルロにもそろそろ嫁が来そうでよかったわ」と言っていた。
二人はルチアに聞こえないように言ったつもりだろうけれど、二人の言葉はルチアの耳に届いていた。
(カルロ様……、やっぱり婚約されていたのだわ)
ルチアはもう半年以上、この部屋で暮らしていた。この部屋がルチアの世界のすべてだった。
カルロがこの部屋の外でどうしているのか、ルチアには知るすべがなかった。
カルロが結婚して、相手の女性がルチアのような悪役令嬢の世話係の仕事を嫌がったら、カルロはどうするだろう。
ランベルトの命令なのだから、世話係を続けるだろうか。
カルロの結婚する相手の身分によっては、女性が自らランベルトにお願いして、カルロ以外の人をルチアの世話係にしてもらうかもしれない。
(わたくし、カルロ様がずっとわたくしのお世話係をしてくれると思ってしまっていたわ……)
ルチアは自分がだいぶ変なのではないかと思い始めていた。
こんな風では、カルロも自分を重荷に思うだろう。
これはきっと『誘拐病』みたいなものに違いない。今のルチアの世界には、カルロとカルロの家族しかいないから、カルロを自分のものみたいに勘違いし始めてしまったのだ。
『誘拐病』は治るまでにとても長い年月がかかるし、まわりの手助けがたくさん必要だと書かれていた。
ルチアは自分で自分をどうしたらいいのかわからなかった。
カルロは以前ほど頻繁には、ルチアのところに来てくれなくなった。
食事はカルロの母か姉が運んできてくれることが多くなった。
カルロの母と姉もなんだか忙しそうで、ルチアに食事を渡すとすぐに帰ってしまうことが多かった。
「もうちょっとだよ」
と、二人はルチアに言っていたけれど、ルチアにはなにが「もうちょっと」なのかさっぱりわからなかった。
真冬になると、ルチアは部屋の中でコートとマフラーと手袋を身につけていないと、とても耐えられなくなってきた。
部屋の外では、一年が終わり、次の一年が始まって、お祭りをしているようだった。
窓から見える王都の街には、新年を祝う赤い旗がたくさん掲げられていた。
幽閉されているルチアにとっては、新年になったからといって、特になにかが変わるわけでもなかった。
たまに雪がちらつく日が増え、ルチアは窓から雪景色を眺めた。
窓に白い息を吹きかけて、ガラスが白く染まるのを楽しんだりもした。
気分が落ち込んだ時には、カルロのために作った『苺の歌』を歌ったり、新緑の詩を思い出してみたりした。
ルチアはカルロが恋しかったけれど、カルロはそうでもないようで、ルチアのところには来なかった。
ルチアは何度も、この塔を抜け出して、カルロに会いに行こうかと考えた。けれど、もしもルチアがカルロに会っているところを誰かに見られでもしたら、『カルロが手引きをしてルチアを逃がそうとしている』などという話になってしまうかもしれない。
カルロがルチアのせいで、ルチアと一緒に処刑されるなんてことになったら、ルチアは死んでも死にきれないと思った。
その日は、明け方から雪が降りだした。暗い空から大きな雪の塊が落ちてくるのが、ルチアの部屋の窓からも見えた。
夜が明けると、風まで出てきて、窓の外はすっかり吹雪になった。
窓の外の王都は、吹雪でほとんど見えなくなった。
雪に沈んだ王都から、何度も鐘の音が聞こえてきた。
ルチアの部屋にまで聞こえるほど鐘を鳴らすなんて、きっと王都ではなにかが起きたのだろう。
ルチアはカルロが心配だったけれど、吹雪があまりにも強いせいか、ハビリセン家の人たちは来なかった。
ルチアは寝台の上でピオを抱え、毛皮のマントに包まった。どんどんお腹が空いてきたし、ひどく寒かった。
ルチアは服の上から、カルロにもらった苺のペンダントを押さえた。ほんの少しだけ、辛い寒さが和らいだような気がした。
部屋の隅では、木桶に入った水が凍っていた。その水は、この部屋に運ばれてきた時にはお湯だった。数日前にカルロの母と姉が、ルチアが身体を拭けるよう、着替えと共に持ってきてくれたのだ。
吹雪は、石の壁一枚で外界と隔てられているだけのこの部屋ごと、ルチアの身体を冷やしていった。
寒さとひもじさの中で、ルチアのアイスブルーの目が閉じられていった。
このまま眠ってしまえたら、どんなに楽になるだろう。
寒さも、さみしさも、もうなにも感じなくて済むのだ。
「カルロ様……」
白い吐息と共に吐き出された声は、ひどくかすれていた。
ルチアはもう一度、カルロに会いたかった。
そのためには、なんとかして起きていなければならなかった。
(もうちょっと頑張らなくちゃ……)
そう思うのに、ルチアは眠気に耐えられず、ついに意識を失った。
ルチアが目を覚ますと、寝台の横でカルロが手を握ってくれていた。
「あ……、カルロ様……。来てくださったのですか……」
もしかしたら、カルロはもう二度と来てくれないのではないかとさえ思っていたから、ルチアはとてもうれしかった。
ルチアが身を起こそうとすると、カルロがそっと手助けをしてくれた。
カルロがいてくれるだけで、ルチアはなんだか部屋が暖かいように思えた。
ルチアの隣では、ピオがずっと添い寝をしてくれていたようだった。
ルチアは寝台が窓辺に移されていることに気が付いた。
寝台の脇にある窓から見えるのは、いつもとはどこか違う感じのする王都の街並み。
「あら、窓がこんなに下の方に! カルロ様が窓の位置を下げてくださったのですか? すごいわ! 魔法みたい!」
ルチアは雪に彩られた美しい王都を、大好きなカルロと一緒に見られるのがうれしかった。
ルチアが笑顔でカルロをふり返ると、カルロは笑い返してくれた。
「窓が下がったのではありません。幽閉を解かれたのです。ここは城内の別の部屋です」
カルロの言葉に驚きながら、ルチアは部屋を見まわした。幽閉されていた部屋にはなかった暖炉があるし、家具も見たことがないものばかりだった。
「国王陛下と王妃殿下がルチア様を養女にしてくださいました。今日からルチア様は悪役令嬢ではなく、この国のお姫様です」
「え……っ! お姫様……!?」
ルチアは王家についてよく知っていた。ルチアのような悪役令嬢を養女にして、お姫様にする理由など一つしかない。
本物のお姫様が嫁ぐのを嫌がる、遠い国に嫁がされるのだ。
そのようにして嫁がされていった『本物ではないお姫様』のお話を、ルチアはいくつも知っていた。
「わたくし……、遠い国に嫁ぐのですか……?」
「遠い国!? そんなところに行かせませんよ」
「そうなのですか……?」
遠い国に行かなくても、ルチアは子爵令息であるカルロの妻にはなれそうもなかった。この国のお姫様の嫁ぎ先は、公爵家か侯爵家だと決まっていた。
「わたくし……、悪役令嬢のままがよかったです……」
悪役令嬢のままならば、これからもカルロに世話係をしてもらえる。
いまさらそんなことを言ったところで、王家が下した決定が覆るわけではない。
ルチアにもそれくらいわかっていたけれど……。
それでも、ルチアは言わずにはいられなかった。
「ルチア様」
カルロが寝台の横でひざまずいた。
「カルロ様……? どうされたのですか……?」
戸惑うルチアの右手を、カルロがそっと握った。
ルチアは驚きながら、頬を真っ赤に染めた。
「ルチア様、どうかこの私の元に、降嫁してくださいませんか」
「え……!? 降嫁……!?」
降嫁とは、お姫様が貴族の元に嫁ぐことだ。
ルチアだって許されるならば、カルロの元に嫁ぎたかった。
「あの……、この国のお姫様は、子爵家には嫁げないはずです……」
ルチアは小さな声でカルロに教えた。王家のしきたりに詳しい自分が悲しかった。なにも知らないで、カルロに嫁ぐと答えられたら、どんなに良かっただろう。
「ハビリセン家は子爵家から侯爵家になりました。私は侯爵令息になったのです。先に言えばよかったですね。申し訳ありません」
「子爵家が侯爵家に!? そんなことがあるのですか!?」
いきなり爵位が二つも上がるなど、聞いたこともなかった。ハビリセン家が、この国が滅亡するのを防いだとかなのだろうか……。
「ハビリセン家全員でルチア様の無実を証明するため、あちらこちらに金をばら撒いておりましたところ、気づいたら我が家は第二王子擁立派の先頭に立っていたのです」
ルチアはいきなり出てきた政治的な話に戸惑った。ハビリセン家の人々は、王太子を廃して第二王子を立てようとしたりする、ギラギラした野心家の群れには見えなかった。
「なぜか最初から騎士団長が私に協力してくれて、この城の警備を王太子の息のかかった兵士から、配下の騎士に変えたりしてくれていました。その騎士団長のお嬢様が、第二王子殿下の婚約者になられたのです。第二王子擁立派は、最初は、騎士団長のお母様と辺境大公閣下が率いておられました」
「モニカが第二王子殿下の婚約者に!? それに、先生が第二王子を擁立!?」
王立学院でいつも成績が三番か四番だった、ルチアのお友達のモニカが、ルチアが幽閉されている間に第二王子の婚約者になっていたのだ。
モニカの祖母で、騎士団長の母である人は、ルチアに王家のしきたりや礼儀作法を教えてくれていた、あの公爵夫人だった。
元は王女だった公爵夫人も、自分の孫娘を王妃にしようとするような、ギラギラした野心家ではなかったはずだ。
いきなり出てきた辺境大公に至っては、すでに充分な領地と軍事力でこの国の中枢にまで食い込んでいて、いまさら第二王子の派閥に入る必要などまるでないように思えた。
「私も知らなかったのですが、私の祖父は辺境大公閣下だったようでして……。辺境大公閣下が侍女と恋仲となり、父が生まれたようで……。子爵位も辺境大公閣下から貰ったものでした」
「そうだったのですか!?」
貴族にはいくつもの爵位を持っている者もいて、自分の持つ爵位の一つを子供や孫に与えるというのは、普通に行われていることだった。ハビリセン子爵は侍女の子供だったため、爵位の譲渡の理由が、間違って世間に広まったのだろう。
「昨日、大聖堂で元王太子ランベルトとアンゼリカの結婚式が行われ、私は神の前で彼らの罪を暴きました。ルチア様の冤罪が晴らされ、その場でルチア様は国王陛下と王妃殿下の養女となられました。そうしたら、ランベルトが子爵令息の私と王女になったルチア様では、どうせ結婚できないと嘲ってきたのです。そこへ激怒した辺境大公閣下が飛び出してきて、父の子爵位とご自分が持っている侯爵位を交換しました」
ルチアはとても困惑していたし、カルロもいまだに戸惑っているようだった。
いまだ独り身の辺境大公とカルロの祖母は、どんな関係なのだろうか。よくある『貴族が侍女に手を付けて捨てた』とは、なんだか違いそうな気がした。
「モニカ嬢と公爵夫人がランベルトとアンゼリカに対して、雷鳴でもあれほど轟くまいというほどに怒りまして、あの時、辺境大公閣下が出てきてくれなかったら、どうなっていたかと思うほどでした」
「そんなに怒ったのですか……!?」
一通の手紙もくれず、会いにだって来てくれなかった二人が、自分のためにそんなに怒ってくれるなんて、ルチアには信じられなかった。
「お二人は『手紙では証拠が残る。王太子派に足をすくわれたくない』と言われて、何度もルチア様に会うため、螺旋階段の半ばあたりまでは来たのですが……。二人とも『こんなジメジメしたところにルチアが……』とか『こんな暑いところにルチアが……』などと言って座り込んで泣いてしまわれまして……。自分たちの泣きはらした顔を見たら、ルチア様が余計にお辛くなるだけだ、と言って帰っていかれました。ルチア様はそういう心根のやさしい方だからと……」
「そう……。そうだったのですか……」
風の鳴る音に混じって、誰かの泣き声が聞こえたような気がしたことがあった。あれがモニカと公爵夫人の泣き声だったのだろう。
「元王太子ランベルトは氷の女王のハーレムへ、アンゼリカは砂漠の王のハーレムへ、それぞれ送られることが決まりました。もう二度とルチア様と顔を合わせることはないでしょう」
どちらもとても遠い国で、使われている言葉は難しく、氷の国は男性の地位が低く、砂漠の国は女性の地位がとても低い。
ルチアは氷の女王のハーレムには、すでに百人もの男性が集められているらしいと聞いたことがあった。ランベルトは、この国では完全に終わった存在となったのだろう。
「ルチア様、もうなにも心配いりません。ですから……、どうか……、この私の元に、降嫁してくださいませんか……?」
「はい! わたくし、カルロ様に嫁ぎます……!」
元気に返事をしたルチアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。すでにカルロも泣いていた。
ルチアは大好きなカルロの腕の中で、ずっとずっと我慢していた涙を流したのだった。
時が過ぎ、この国にカルロの瞳のような新緑があふれる頃、ルチアとカルロは大聖堂で結婚式をした。
ルチアはこの国のお姫様として、大好きな苺のついた冠をかぶり、白い苺の花がたくさん刺繍された可憐なウェディングドレスをまとった。
ルチアは王家からの結婚祝いとして、王都から少し離れた丘に建つ、王家所有の城を贈られた。カルロとの思い出のつまった、あのお城が貰えたのだ。
『王女ルチア殿下』の夫となった侯爵令息カルロは、公爵の位を授けられた。ハビリセン公爵家の紋章には、かわいい苺と勇猛なる熊が採用された。
こうしてルチアとカルロは、美しい季節が巡りゆく中で、いつまでもいつまでも二人仲良く、幸せに暮らしたのだった。