1-7
「良かったのに、俺、耳なんてどうでも、良かったのに!
み、耳が聞こえたって運動できたって、俺はおねえちゃんのこと、分かってあげられなかったのに!
おねえちゃんは俺のこと、分かってくれたのにっ!
おれ、何も、分かってなくて……っ!」
「彼女は必死だったんだ。
ただお前に嫌われたくなかった、本当にそれだけだったんだよ」
ハヤトの目元に、柔らかい布が触れる。
いつの間にか自分の前にしゃがみこんだハルが、ただ泣きじゃくるハヤトの目元に絹のハンカチを押し付ける。
彼はそれを受け取り、嗚咽ごと包むように目を覆った。
ハルはそれを見て優しく小さな頭を撫でると、隣で声を上げて泣いている自分の弟に、ポケットティッシュを無言で投げてよこしてやる。
「……あにき?」
ハルはそのまま彼らの前を通り過ぎ、そして先ほどハヤトが使っていた自動販売機の前に止まると、一本の飲み物を購入していた。
喋りすぎて喉が渇いたのか、とリクが思っていると、ハルはペットボトルの口を開けずに再び彼らの前に戻ってくる。
「俺はな。
幽霊がいるかいねぇかなんて至極どうでもいいし、奇跡とかそういった類のものにも、死ぬほど興味が無い」
ハルはハヤトの前に立つといきなりそんなことを言い出す。
彼も何の話か、と赤い目をあげる。
「だけどもし。
もしも、このクソ暑ぃ日に、若者だらけの涼しい店の中じゃなくて、見つけやすいバス停で祖母を待ち、その祖母のために日本茶まで用意しているような少年が」
リクがハヤトの持っていた飲み物を見る。
メロンソーダは既に飲みきっていたが、日本茶の方はまだ口が開いていない。
ハルは続ける。
「もしもそんな少年が、いつか出会えるかもしれない誰かのために、その誰かとの約束のために、ずっといつも大切に湯呑みを持ち歩いているのだとしたら」
そこまで言って言葉を切ると、今ハル自身が買ってきた、緑色のメロンソーダのペットボトルで、ハヤトが持っていたリュックサックにある、小さな缶ジュース程度の丸くて固い筒を軽くつつく。
彼はさらに続ける。
「年に一度の願いが叶う日。
会えなかった誰かと出会える日。
そんな日くらいは、その心優しい少年のために、バスから『織姫様』が降りてきても、バチは当たらないんじゃねぇの。
……くらいには思っているよ」
そう言って、ハヤトの手にメロンソーダを渡し、空になったペットボトルを引き取る。
「どういう、意味?」
「さてバスが来たぞ。約束の時間だ、俺の話はここまで。
後はお前次第だ」
ハヤトがその言葉で道路を見る。
ゆっくりと、祖母が乗っているはずのバスが近づいてくる。
「おら行くぞ。いつまでベソかいてんだよ、お前」
ハルは長いパーカーの裾を翻して、軽くリクの頭を叩くと、バス停から立ち去ろうとする。
「あ、兄貴! 待って!
もー! じゃあな、ハヤト!」
別れの挨拶もそこそこに、そのあとを慌ててリクが追いかける。
そんな二人と、近づきつつあるバスを交互に見ながら、ハヤトが困った顔をしている。
しかしバス停にバスが停まったのを見ると、二人に声をかけるのを諦め、降りてくるであろう祖母を待つ。
祖母はまっさきに降りてきた。
泣き顔だった彼を見て、びっくりしたような顔をしたが、なんでもないよ、転んだだけとハヤトが笑顔で言うと、それ以上は聞かなかった。
祖母に少しぬるくなった日本茶のペットボトルを渡すと、彼女は優しくハヤトの頭を撫でる。
ハヤトはそれに笑いながら、もう一本、ハルが渡したメロンソーダを不思議そうに眺めた。
ハルはなんと言っていたか。
確か、『バスから織姫様が降りてきても』と言っていた。
まさか、と思いながらハヤトが降りてくる乗客を見る。
スーツを着た、教員であろう男に引率されて、数人の女子高校生が降りてきた。
目に飛び込んでくる夏の日差しを笑顔で浴びながら、降りてくる彼女たちの中に、
「……おねえちゃん?」
リラがいた。
二年前とは違い、帽子はなくて髪は以前よりも伸びた髪は、アップでまとめている。
日に晒された白い耳には、目立たない色の補聴器が嵌っていた。
儚げな表情をしていた顔からは影が消え、大人びた顔には彼女本来の明るさが見える。
呆然と見ていた彼の視線に、リラが気づく。
一瞬で、彼女の笑顔が表情が泣きそうに歪む。
彼女の目に涙が盛り上がるのが見えた。
それを隠そうとしたのか、彼から逃げようとしたのか、彼女は顔を背けようとするが、
「待って!」
それよりも先に、ハヤトが口を意識して大きく開け、そう叫んだ。
戸惑う彼女の前で、彼はリュックサックを開ける。
そして、中から慎重にタオルに包まれた筒状のものを取り出して、彼女の前に差し出した。
するりと白いタオルの下から現れたのは、三角に縁が欠けた、小さなピンク色の花の絵が書いてある湯呑みだった。
そしてもう一つ。
可愛らしい野球道具が描かれた湯呑み。
あの自然教室の後、ハヤトは二つとも焼いて仕上げてもらうようにスタッフにお願いしていた。
そしてその後もずっと、約束を果たすために持ち歩いていた。
ハルが言っていた通り、リラが幽霊だなんて信じていなかった。
いつか自分も約束を果たせる日が来るのを、ずっと望んでいた。
リラは口元を両手で覆い、信じられないものを見たように目を見開く。
頬を流れた涙が、焦げ付くようなコンクリートにぽつんと落ちる。
そして彼女は、リスのように大きな目を、二年前よりも随分と背の伸びた年下の友人の口元に移した。
「乾杯しようよ、おねえちゃん」
精一杯口を動かしてはにかむように笑うハヤトの『声』に、頬を涙で濡らしたリラが、目を細めて笑い返した。
「リク、それでティッシュ最後だからな。もう持ってねぇからな」
「う、うぅ……っ」
先程までいたベンチの上には、日傘を差すハヤトの祖母が、互いの湯呑みでメロンソーダを酌み交わすハヤトとリラを微笑ましく見ていた。
それを後ろを振り返って確かめながら、リクが兄の2つ目のポケットティッシュを涙で濡らす。
「奇跡だ。七夕の奇跡が起こったんだ……っ!」
鼻をかみながら、リクがそんなことを言う。
「奇跡なんてモンは無ぇよ。
偶然なんてモンも無ぇ。
全ては過去の事実の積み上げと、そこから予測される確率の問題だ」
一方のハルは、一度も振り返らずにすたすたと歩を進める。
「でも起こっただろ、奇跡!
兄貴が言ったとおり、リラが会いに来たじゃねぇか」
「だから、それは確率の問題なんだって」
ため息をつきながら興奮気味の弟に答える。
「確率?」
「そう、確率。
リク、恵比寿さんの特徴は?」
またいきなり、訳の分からない問題を出される。
しかしそれもいつものことなので、文句を言わずに考えてみる。
「えっと……商売繁盛、福神、打ち出の小槌、おっさん、メタボ、ビール……」
「おっさんとメタボは放っておいてやれよ。
ビールも今は置いておけ。
それから打ち出の小槌は大黒天だ。
商売繁盛と福神は正解」
思いつく限りをあげると、ハルが採点をしてくれる。
「他には?」
「他? うーん……」
考えこむリクの前で、ハルが先程もしたように、自分の耳をちょいちょいと差す。
「あ、そうか、福耳?
えっと、じゃあもしかして恵比寿様って耳がいいのか?」
そう言うと、ハルが軽く首を横に振る。
「逆。恵比寿さんって耳が遠いんだよ。
だから、わざわざ恵比寿さん詣りをするときに、裏に回って恵比須さんにも聞こえるようにドラを叩くような神社もあるんだ」
「へぇ、福耳なのに耳が遠いんだ」
「福耳と耳の良さは関係ねぇだろ。
まぁそれは置いておこう。
で、今日の恵比須さんのお祭りもそれに因んで、恵比須さんに聞こえるような太鼓だとか、耳だけではなく目で楽しませる日本舞踊なんかが行われるんだ。
今日その日本舞踊を行うのが、同じ耳が不自由なろう学校の生徒。
恵比寿さんの目を楽しませ、同時に耳の治癒祈願をするんだとか」
「そうだったんだ」
「それがまず前提。そしてここからは推論だ」
ハルが少し空を仰ぎながら、説明を続ける。
「突然聴力を失った人間が、最も自分にあった人生を選ぶのには様々なパターンがあるだろう。
それはひとえに個人の性質や性格によって決まる」
「兄貴、分かってると思うけど、あんまり難しい話はしないでくれよ」
心配そうにそういう弟にハルが肩をすくめる。
「お前の知能レベルは把握している、任せておけ。
……さて、ハヤト少年の話から俺が喋った推論の中で彼女は読唇術を使うと、そう言ったのは覚えているな。
耳が聞こえなくなって、はじめに読唇術という手段を選んだ彼女は、周りよりもまず自分に働きかけるタイプだ。
そんな彼女が進学する際にどのようなコースを選ぶか。
おそらく周りとの調和よりも先に、自分のことを理解しようとするのではないだろうか、そのために特別支援、つまりろう学校への進学を選ぶのではないか、というのが一つ目の推論」
「ふむ」
「二つ目。
自分のことを知り、同じような仲間の中で彼女がどう成長するか。
これもハヤト少年からの証言でしか判断ができないが、彼女は本来仲間思いの活発な性格だった。
もはや耳が悪いことを隠す必要のない環境に置かれたことで、彼女本来の性格が出るようになるのではないか。
だとすると、このようなイベントに仲間とともに参加したがる可能性がある、という推論」
「ふ、ふむふむ」
なんとか頑張って着いていきながら、リクが唸る。
「三つ目。
今日は祭りのせいでバスの本数が少ない。
今のバスを逃したら、ろう学校やらハヤト少年の祖母がいる福祉施設街からのバスは2時間後、17時過ぎだ。
祭りに出演するんだったら、準備やら何やらでその時間じゃ到底間に合わない。
とすると、ちょうど良い時間につくためにハヤトの祖母と同じバスで来るのではないか、という推論」
「な、なるほど! 大体理解した!」
ガッツポーズでアピールするが、兄は振り向きもせずに続ける。
「そうか大したもんだ。
以上3つの推論が事実だったら、というとんでもない低い確率で予測したのが、アレだ」
そう言って、もう随分と離れてしまったバス停の方を、親指で差す。
彼が言う通り、確率の低い勝負だったのあろう。
だが、結果としてそれらは全て事実として積み上げられ、ハヤトとリラはもう一度出会うことが出来た。
「ま、別に外れても、メロンソーダがハヤト少年の腹に収まるだけだしな」
「やっぱり奇跡だなぁ」
うっとりと、リクが言う。
「……お前は俺の話の何を聞いていたんだ」
そんな反応に、ちらりとハルが振り返って苦い顔をする。
だがリクがニンマリ笑って返す。
どれだけ背が高く体つきが良くなっても、その顔は昔のままだ、と目の上で光るピアスを見ながらハルが思った。
「だって、凄い確率が低い勝負だったんだろ?」
「最っ高に低い」
それを聞いて、ふふんとリクが得意げに言う。
「そんな賭けに勝ったんだから、やっぱり奇跡じゃんか」
「だから……もういいや、なんでも」
どうしても『奇跡』としたいらしい弟に、ハルはやれやれと首をふる。
「なんかロマンだろ、奇跡って。
あ、でもそう考えたら、兄貴がいたのも奇跡だな」
「はぁ?」
また何か言い出した、とハルが弟を振り返る。
「だって、兄貴がいなかったら、ハヤトは真実を知ることはなかっただろ?
そうしたら、バスから降りてくるリラに会っても気づかなかったかもしれない。
気づいても、ハヤトが真実を知らなかったら、リラとまたすれ違って、同じような悲劇が起きたかもしれない。
でも兄貴がいたから、ハヤトはリラとあんなふうにもう一度やり直すことが出来たんだよ。
ほら、奇跡だ!」
嬉しそうに言うリクに、思わずハルが押し黙る。
「あれ、兄貴照れてるの?」
驚きを照れと勘違いしたのか、リクがどこか楽しそうに聞いてくる。
ハル自身は、正直そこまで考えてはいなかっただけのようだ。
だってもしそれが本当に奇跡ならば、
「お前が遅れてきた兄貴を炎天下の中、わざわざバス停で待っていたのも奇跡か?
そのバス停でハヤト少年の祖母待ちに付き合ったのも?
一度は真実を知ることを拒否した少年に対して、『親友のために真実を知ろうぜ!』とか力説して説得したのも、……なるほど奇跡か」
「え、ちょっ……っ!」
リクもまた、その貢献者の一人となる。
淡々とそれを言ってやると、リクは明らかに動揺した声を出す。
「なんだ、照れてるのか」
感情のない声で、ふんと鼻で笑い、ハルは先程のようにさっさと前を向いて歩き出す。
案外この兄は大人げない。
「もも、もういいだろ! さっさと祭りに行こうぜ……あ!」
苦し紛れに自分で言った言葉に、思わず口を抑える。
「祭り?
これから調査だぞ。祭りに来たわけじゃない」
「わ、分かってるよ。
さっきまで祭り祭りって行ってたから、ついぽろっと出ちゃったの!」
ハルの抑揚がない声に、ずきりと痛む胸を抑えながら、リクがわざと軽い口調で返す。
最後に二人で行った七夕祭りから、もう何年たつんだろうか。
あれから色々あった。ありすぎた。
特に兄はそうだろう、リクは思う。
心身ともに傷つき果てた兄は、まるで取り憑かれたようにこの街の事件を追っている。
兄と同じ事件現場にいながら傷ひとつしか負わずに、しかも事件自体をまるっきり覚えておらず、平々凡々と生きてきた自分とは、もはや別の世界の人間のようだった。
あの日の祭りの時には存在しなかった見えない壁が、いまは何重にもなって二人を隔てている。
あの時の兄はもう帰ってこない。
昔に戻ることなんて、絶対に無理なんだ。
これはリク自身がハヤトに言った言葉である。
数年前の約束など、兄の頭の中にある膨大な事件の資料と知識でとっくに頭から追いやられているに違いない。
「……分かってるよ」
昔は当たり前のように手を伸ばせば握り返してくれた目の前の兄は、今じゃ手を伸ばしても指先すら届きすらしない気がして、そっと目を伏せた。
「まだあるのかな」
「……え?」
何気なしにハルが呟いた言葉に、聞き違いかと思い、リクがぱっと顔を上げる。
「あの射的屋」
射的屋? あの日の祭りのことだろうか。
リクは次の言葉を待つ。
「お前あの時のハンカチ、まだ持ってたんだな」
「あ……」
兄貴だってそうだろう。そう言おうとしたが、上手く言えなかった。
ハヤトの手に撒かれたリクのハンカチと、泣きじゃくるハヤトに渡したハルのハンカチが同じものであることに、リクも気づいてはいた。
あの夏の日、祭りの夜にハルが射的で撃ち落としたブランドもののハンカチ。
だが、ハルも気づいているとは思っていなかったようだ。
「二人して置いてきちゃったもんなぁ。
どうしようか」
そういえば、二人共ハヤトの元に置いてきたままだった。
いまさらリクが気づく。
「どうしようって……」
まさか今更、あの三人のところにノコノコ戻って返してもらいに行くつもりだろうか。
そう思ったが、振り返ったハルは、目を細めて僅かに口の端を持ち上げていた。
その表情に、リクは思わず目を開く。
あの夏の、夜の匂いがした。
「なぁリク?
もしまたアイツの店にハンカチがあったらさ、今日は一発で仕留めてやるよ」
どこかいたずらっぽく兄は言う。
その姿に、あの日、赤い花火の灯火が落ちる中で微笑む、浴衣姿の少年の姿が被って映された。