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1-6


「俺の湯呑みを……」


 その話になると、ハヤトはぎゅっと顔をしかめる。


「俺が嫌いだから、だろ。

 うっとおしかったんだ、多分。

 それなのに俺が調子に乗って、湯呑みまで交換しようなんて言って。

 おねえちゃんのは、すごく綺麗にできていたのに、俺のあんな下手くそなのを渡そうとして、それが……」

「違う!」

「うわっ!」

 

 説明の横からリクが叫ぶ。


「友達にそんなことするかよ! そんなの……」

「ちょっと黙ってろよ、お前」


 口を挟んだリクをハルが睨む。しかしリクは止まらなかった。


「だってそんなの酷ぇじゃんか!

 いくら『女心と秋のナスは嫁に食わすな』って言ったって、そんな心変わりあるかよ!」

「勝手に変なことわざを作るんじゃない。

 訳がわからないだろう。

 見ろ、隣のハヤト少年の混乱しきった顔を」


 『女心と秋の空』ということわざを言いたかったのだろうが、途中で雑音が入ったリクの言葉に、ハヤトがポカンとしている。


「え、えっとつまりだ!

 今まで仲良かったのに、そんな簡単に意地悪いことしたり無視したりするかよって言いたいんですよ、俺は!」


 力説するリクの隣で、ハヤトが更にしぼむ。


「……するよ。

 だから俺、学校行かなくなったんだもん」

「……あ」


 更に深い傷を抉ったリク。

 ついでに自分も、昨日まで当たり前だったのに、いきなり兄に捨てられた過去を思い出す。


「………」

「………」


 ベンチ組が二人して膝を抱えて落ち込むさまを見て、


「すいません。聞く気無ぇなら、俺帰っていいですか」


 ハルが冷たい声で告げる。


「待って兄貴! 聞くから、な! ハヤト!」

「う、うん」


 やっと頭を上げた二人にため息を付いて、ハルが説明を始める。


「ハヤト。

 お前の声は、湯呑を持ったリラに確実に聞こえていたんだよな?」

「うん。傍にいた先生にも聞こえていたもん」

「ならばなぜ、リラはその声を無視したのか。分かるか?」


 そう問われて、ハヤトが恐る恐る口を動かす。


「俺のことが、嫌いだから……じゃないの?」

「違う、根拠が無い。次」


 しかしそんなハヤトの回答を、ハルが気持ちいいくらいあっさりと一蹴する。

 簡単に自分の中の悩みのタネの半分以上が吹き飛ばされ、ハヤトが面食らう。

 その隙に、リクが手を挙げる。


「はいはい、分かったよ兄貴!

 リラには聞こえなかったんだ!」


 その答えに、ハルは意外にも面白そうに口の端をわずかに上げる。


「ほぅ、つまりどういうことだ?」

「あれだよあれ、ほら、なんて言ったかなぁ。

 ……あ、そうだ、『モンキーターン』!!」


 自信満々にリクが人差し指を立てて言うが、対するハルも、横で聞いていたハヤトも、突然の単語に一瞬思考を止める。

 ハルがこめかみの辺りを抑えながら数秒間考えこみ、


「……もしかして、『モスキートーン』と言いたいのか?」


 様々な可能性を思いつく限り浮かべた中で、最も可能性の高い単語を出してみる。


「そうそう、それ!」

「……兄弟ってすげぇ」


 どうやら合っていたらしい。

 ハヤトがその意思疎通力、というかハルの弟に対する思索力に対して感動すら覚える。


「えっと、モスキートーンって?」


 ハヤトが聞きなれない単語を、リクではなくハルに問う。

 妥当だろう。


「簡単に説明すると、子供にしか聞こえない音のことだ。

 音が空気の振動っていうのは知ってるよな?

 その振動の波が細かいと高い音、大きいと低い音になるんだが、大人になると子供の頃に聞こえていた細かい波の高い音が聞こえなくなるんだ。

 その音を蚊の飛ぶ音に例えて、モスキートーンと言う。


 ……ちなみに『モンキーターン』は競艇でボートをターンさせる技術の1つで、全く関係ない」

「へぇ」


 分かりやすく説明された単語に、興味深そうにハヤトが目を輝かせる。


「つまり、ハヤトは自分でも気づかずに、モスキートーンで叫んでたんだよ。

 だからお前には聞こえる声でも、リラには聞こえなかったんだ」


 隣ではリクが得意げに説明する。それを聞きながらハヤトがハルに向かって確認する。


「そうなの?」

「違う」

「あれ!?」


 バッサリと否定され、リクががくんと仰け反る。


「モスキートーンは文字通り『蚊の音』だ。

 そんな簡単に口から出る音じゃない。

 ましてや、近くにいた、リラよりも年上のスタッフには聞こえていたんだろ。

 だったら彼女にだって聞こえていてもおかしくないだろうが」


 正論で返されるが、リクは引っ込まなかった。

 なんとか頭脳プレイを見せようと違う案を提示してくる。


「だ、だったら! 音って空気の波なんだろ?

 だからきっと、リラには聞こえなくて、スタッフには聞こえるような微妙な音波でハヤトは叫んでいたんだよ!」

「お前はハヤト少年の声帯を、一体どうしたいんだ」

「じゃあ多分、ハヤトが音波を変えちゃうような機械を秘密裏に作って持ち歩いてたんだ!」

「小学3年生が、か」

「でもきっと俺より頭いいし!」

「お前それ、自分で言っていて恥ずかしくないのか」


 さすがに呆れたように、ハルが額を抑えた。


「うぐぐ……」


 そんな兄の反応に、さすがにリクも乗り出した身をベンチに落ちつけた。


「なんていうか、お前の柔軟な発想は刺激にはなるよ?」

「いいよ、フォローなんてしてくれなくても」


 目の前で繰り広げられた兄弟の論争をハヤトが少し面白そうに見ていた。

 タイプが全く違う兄弟にはじめは違和感があったが、このようなやり取りを見ていると、案外楽しそうでアリなんだなぁ、と一人っ子の彼はそう思いもする。

 ハルが気を取り直して顔を上げる。


「着眼点は良かったんだけどな。

 事実はもっと単純で簡単だったんだろう」

「もっと簡単?」


 ハヤトが聞き返す。


「リラには聞こえなかった。そこは正解だ。

 ではなぜ聞こえなかったのか」


 一度ハルが言葉を切る。

 リラにはハヤトの声が聞こえなかった。

 その理由をハヤトは考える。

 しかし答えは出てこなかった。


 それを見てハルは袖から僅かに出た細い指先で、髪の毛で隠れた自分の耳を差し示す。

 そして、彼女の秘密を、答えを口にする。


「正解は『彼女は耳が聞こえなかった』からだ」

「え!?」


 リクとハヤトが驚愕の顔を見せる。


「はじめから、ハヤトの声は彼女には聞こえていなかったんだよ。

 恐らく完全にではなく、ほとんど聞き取れない、というレベルの難聴だったはずだ。

 お前に会う前から、ずっと」

「そ、そうなのか、ハヤト!」


 リクが掴みかからんばかりにハヤトに問うが、彼は首を横に振る。


「そんなわけないよ!

 だって普通に話してたし、そんなことおねえちゃんは言ってなかったもん!」

「どういうことだ、兄貴」


 混乱の表情を見せる二人に、ハルが人差し指を立てる。


「他の誰かにそれを知られたくなかったんだよ。

 特にハヤト、お前にはな」


 そういって人差し指をハヤトに向ける。


「1つずついこうか。

 まず1つ目、『彼女は髪が長く目深にかぶった帽子をいつも外さなかった』。

 これはなぜか。

 答えは耳に嵌っている補聴器を見られたくなかったからだ」


 彼はもう一度自分の耳を指さす。


「2つ目。

 『彼女はいつも覗きこむようにして、ハヤトの顔を見ていた』。

 これはなぜか。

 答えはハヤトの口の動きを見ていたんだ」


 そう言うと、今度は細い指を形の良い唇に押し付ける。


「話の中で、ハヤトは『自分を探るように』と言っていたが、文字通りそうだったんだよ。

 わずかに聞こえるお前の声と唇の動きで、お前の言っている言葉を理解していたんだ」


 そう言われ、ハヤトは自分の口元に手を当てる。

 そうだ、いつも彼の目ではなく、彼の『顔』を見ていた。

 ハヤトは思い出す。


「その他にも『彼女は結構ぼうっとして人の話を聞いていなかった』『活発なのに他の子供に混じって遊ぼうとはしなかった』だったか。

 これは彼女の性格とも考えられるが、もし耳が聞こえないという前提なら違う意味を持つ。

 ぼうっとしてたのは、聞こえていなかったから。

 彼女にとっては、口の動きがあってはじめて言葉になるんだ。

 他の子供に混じって遊ばなかったのは、大勢の口の動きを見ることは出来ないから。

 一対一ならともかく、大勢の中で耳が聴こえないことを隠すのは困難だろう」


 そこまで聞いて、理屈としてはわかるが、ハヤトはどことなく疑問を感じているようだ。

 それは実際にリラと生活をしたハヤトだから分かることなのだろう。


「でも、そんな感じはしなかったし。

 それにどうして、隠すようなことを……」


 彼のつぶやきを聞き、ハルが口元に細い指を付けたまま、少し言いにくそうに答える。


「多分それが、彼女が自然教室に来た理由なんだよ」

「自然教室にって、どういうこと?」


 ハルはもう一度、人差し指を立てる。


「恐らく彼女の難聴は、後天的なものだったんだろう。

 ……えっとつまり、生まれつき聞こえないのではなくて、病気か事故かで聴力を失ったんだよ。

 それは多分、当時の彼女にとってかなり最近の出来事だったはずだ」

「なんでそんなことが分かるんだよ」

「ハヤトが気づかなかったからさ」


 リクの問いかけに、ハルが人差し指をぴっとハヤトに向ける。


「自分の声を聞いたことがない、つまり生まれつき難聴の場合は、自分の発声が正しいかどうかを見極めるのが難しい。

 結果として相手が違和感を覚える可能性が高い。

 だがハヤトは気づかなかった。

 つまり彼女の耳が聞こえなくなったのはそう遠くない過去で、これが彼女にとって悲劇だったんだ」

「悲劇?」

「ハヤト、お前野球少年なら分かるよな。

 野球に限らず、スポーツに必要なのは何だ?」


 人差し指を向けたまま問われ、ハヤトが考える。


「えっと、運動神経と頭の良さ、技術、精神力……?」

「それだけでゲームが成り立つか?」


 そう言われ、ハヤトがハッとする。


「あ、チームワーク!」

「正解」


 短く言うと、ハルが腕を組む。


「ハヤトと彼女が行ったスポーツは、バスケやサッカー。

 どちらもチームワークが必要だ。

 活発な彼女の性格も鑑みて、おそらくチームワークを大切にする仲間思いのスポーツ少女だったんだろう。

 友達も多かったんだろうな。

 そんな彼女がある日、聴力を失くした」


 そこから先は、ハヤトにはなんとなく分かった。

 彼女は仲間を失ったんだろう、と。


「勿論今までどおりのスポーツは出来ない。

 加えて友達とコミュニケーションを取ることもできなくなった。

 だからといって相手に手話を学べというわけにもいかない。

 彼女は必死だったんだろうな。

 なんとかいつも通り普通に喋りながらも相手の意志を汲み取ろうとした。

 その結果が『読唇術』だったんだろう」


 今まで普通に喋っていた状態から、相手の唇の動きを読むなんて、そんな簡単なことではない。

 それはハヤトにも理解できる。


「具体的に彼女に何があったのかは、もはや想像しかできない。

 ただ結果だけ言えば、それは残酷なまでに上手くいかなかった。

 それが彼女を深く傷つけたんだ。

 自力で読唇術を会得しようとするくらいだ、相当友達思いだったんだろう。

 そして、同時に寂しがり屋でもあったんだ。

 聴力と同時に、スポーツを失い、友達を失った……お前と何か通じるものがあったんだろうな」


 ハヤトは思い出す。

 自分の話を、涙を流して聞いてくれたリラ。

 そこには自分の姿を重ねていたのだろうか。

 はじめて会った時からもしかしたら、同じものを抱いていることを感じ取っていたのかもしれない。


「彼女はお前と親しくなり、同時に恐れたんだ。

 なぜか、もう分かるよな」


 耳が聴こえないことで、大事な友だちが離れていった。

 もしもまた、同じ事があったら。

 耳が聴こえないことがハヤトに分かり、また同じ事があったなら。

 また大事な友だちを失うことになる。


「だけど、言ってくれたら俺は、そんなこと……」


 聞こえるふりをして、怯えながら友達でいることは、どれほど辛かっただろう。

 たった一言、言ってくれればそれでよかったはずだ。

 ハヤトは自分を信じてもらえなかったことが、また悲しくもあった。

 だが、ハルはその疑問に対しても、答えを用意していた。


「なぁハヤト。

 彼女と俺と、何か共通点がなかったか?」

「え? ……えっと」


 そういえば、ハルとリラは何処か似ているところがあると感じていた。

 髪のこともそうだが、儚げなところとか、顔立ちが整っているところとか。

 ただ、リラはともかく、男の人に美人というわけにもいかず、口ごもる。

 ハルはヒントと言わんばかりに、両の手の平を肩まで上げて、ひらひらと動かす。


「彼女は、夏の炎天下に、こんなふうに長袖を着ていたんじゃないかな」 


 その言葉で思い出す。

 そうだった。たしかに、長くて白いスカートと、上には長袖のカーディガンを羽織っていた。


「なんで分かったの?」

「『湯呑み作りの時間に、彼女は袖についた土を洗いに行った』と言ってただろ」

「あぁ確かに。

 でもよ、兄貴。長袖がなんだってんだ?

 女の子なんだし、日焼けとかそういうの気にしたんじゃないのか?」


 リクの言葉に、ハルは長い袖をひらひらと動かして否定する。


「普段ならな。

 だけど土をいじる作業中にも、彼女は袖をめくらなかったんだろ。

 それはきっと彼女の髪や帽子と同じく、めくることができない理由があったんだ。

 ……例えば」


 ハルは、自分のパーカーの左裾を引っ張る。


「っ!」


 白く浮かぶ手首には、直角にミミズが這ったような太い傷跡が走っていた。

 彼の容姿に反するような、グロテスクな赤い肉の色をしている。

 ハヤトは思わず息を呑んだ。


「あ、兄貴、それ……」


 リクも知らなかったのだろう。目を見開いていた。

 しかし彼らの反応に構わず、ハルはダランと手を垂らす。

 重力に任せて袖が下がり、また指先だけがちらりと見えるようになる。


「俺の傷は自分でやった訳じゃねぇ。

 だが、もし彼女が自分で、こんなふうに自分の体に傷をつけていたとしたら?」


 あの白い袖の下に、今ハルが見せたような傷があったのだろうか。

 何度も繋いだ手の下に、ずっと痛みを隠し持っていたのだろう。

 何も気づかなかったハヤトが唇を噛む。


「ハヤト。

 彼女はね、お前に嫌われるのが、文字通り『死ぬほど』怖かったんだ」


 平坦な音調が僅かに下る。

 なぜ彼は、見たこともないリラの傷について、これほどまでに詳しく分かるのだろうか。

 それは彼自身が持つ卓越した洞察力もあるだろう。

 だが、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。

 隠された傷について敏感な彼もまた、多くの傷を隠し持っているようにハヤトの目には見えた。

 そっとハルの袖を見る。

 なぜハルとリラが似ていると思ったのか、やっと分かった気がした。

 一人で隠した傷と向かい合う様子が、その白く細い指先が、とても良く似ているのだ。


「さてハヤト少年。

 今まで話したことを踏まえて最終日までの出来事を軽く振り返ってみよう」


 ハルがその細い指先を軽く組む。


「お前たち二人が仲良くなった辺りはもういいよな。

 そして日が経つに従って、彼女はお前から距離を取り始める。

 きっとお前といることで耳が聴こえないことがバレるのが怖かったんだろう。

 取り留めもない違和感も、重なれば大きなものとなる。

 何が決定打となってバレるのかわからない。それを恐れて彼女はお前から離れていった」

「そっか。いつまでもごまかせるわけじゃないもんなぁ」


 リクが一人心地でそう呟く。


「そして最終日、彼女は最後だからと、思い切ってお前といることを選んだ。

 もし上手くいかなくても、最後ならばもう会うこともない。

 傷も軽くて済むし、何より、彼女自身がお前といたかったんだろうね。

 だけどここで一番恐れていた決定打が、最悪の形で訪れてしまう」

「湯呑みを捨てちゃったことか」

「そう。

 後ろを向いていた彼女に、ハヤトの『声』は届かなかった。

 お前がゴミ袋をひったくって湯呑みを手に彼女を見上げて叫んだ口を見て、やっと彼女はそれに気がついたんだよ」


 ハヤトはその時の状況を思い出す。

 彼は涙目で、責めるような目で彼女を見て、そして大声で口を開けて彼女に『怒鳴った』。

 それが、彼女に聞こえたハヤトの『声』だったのだ。


「愕然としただろうね。

 泣くことも謝ることもすっ飛ばして、ただただ愕然としてたんだ。

 大事な友人の大事なものを、またも聞こえないことで、自分から捨ててしまったんだから」


 その時の彼女の目を、ハヤトは無表情で冷たく感じた。

 だがそれはハヤトの目から見たリラだった。

 実際彼女側では、あまりに突然起こしてしまった悲劇に、ただただ呆然としていたのだ。


「そして彼女は思ったんだ。

 『あぁまたやってしまった』と。

 『これでもうダメだ』と」


 だから彼女はそのまま部屋を出た。

 自分の手で壊してしまった友情に、愕然としながら、起こしてしまった悲劇から逃げるようにして。


「彼女が過去に自殺未遂を起こしていたのならば、スタッフたちの対応は早かっただろう。

 おそらく自然教室に集まったデリケートな問題を抱える学生の中でも、彼女は特にデリケートな部類だったはずだ。

 そんな彼女が、スタッフたちにこう頼んだんだ。

 『自分はいなかったとハヤトに言ってほしい』と」

「おねえちゃんが、自分で?」


「おそらくね。

 自分がいなかったことにしたかったんだろう。

 聞かれたくないし、探られたくもなかった。

 このまま終わりにしたかったんだと思う。

 繊細な彼女のためにスタッフたちは承諾し、後にお前が彼女の行方を聞いた際に、『彼女はいなかった』と証言するようになる」


 だからハルは、最初にこのことを確かめたのだろう。

 彼女の持つ傷について、そのストーリーを裏付けるために。


「でも、それはおにいさんが考えていることだよね。

 確かにおねえちゃんの行動や格好からは、そういう『推測』はできるけど、だけど……」


 ハヤトはどこか納得がいかないのだろう。

 もしかしたら、認めるのが怖かったのかもしれない。

 彼女が抱いていた感情を、ハヤトは何も気づかなかったことになるから。

 悲劇を引き起こしたのは、彼女ではなく、彼自身ということにもなる。


「なんだよお前。兄貴を疑うのか、あ?」


 ハヤトの頭をぐりっと掴んでリクが凄む。

 なんとなく分かっていたけれど、この人、もの凄い勢いのブラコンだ。

 ハヤトは顔を引き攣らせながら、ブンブンと横に首を振る。


「そ、そういうわけじゃないけど!」


 そんなハヤトにフォローを入れたのはハルだった。


「お前の気持ちはわかる。

 実際に彼女と一緒にいたのはお前だからな。

 さっき出会ったばかりの訳の分からん人間に言われても、まぁピンとこねぇだろうよ」


 どうやら自分たちが訳の分からん部類に属していることは理解しているようだ。

 ハルは続ける。


「そこで、最終日の出来事だ。彼女はいったい何がしたかったのか」


 ハヤトの部屋でランプを灯した彼女を思い出す。

 あの幻想的なまでに儚い姿が、彼にとって最後の姿となってしまった。


「彼女は自分がいなかったことにして欲しかった。

 だけど、最後に約束を果たしに行ったんだよ。

 ……したよな? 約束」


 ハヤトは無意識にリュックを握って唇を噛む。


「湯呑み、交換しようって言ったこと……?」


 その言葉にハルが軽く頷く。


「そうだ。

 そしてその日は七夕だった。

 会えなかった二人が出会える日。

 笹に短冊を吊るして願い事を叶えてもらう日。

 あぁそうだ。

 あと七夕祭りに灯籠流しを行うところもあるんだよ」

「灯籠、流し?」


 さきほど、部屋に見えた光が灯籠のようだと言った事をハヤトは覚えていた。


「送り火、と言ってもまだハヤトには分からないかな。

 灯火を魂に見立てて、川に流して死者の魂を慰めるっていうのが一般的な灯篭流し。

 だけどそれだけじゃなくて、純粋に願い事を込めて火を灯してお願いをする、というものもある。

 彼女は年に一度、願い事が叶う日に、灯籠を作って願い事をしていたんじゃないかな」

「願い事?」

「神社やお祭りに関して、彼女は詳しかったんだろ?

 だったら灯籠のことも知っていたはずだ。

 で、いざ実行していたら途中でお前自身に見つかってしまった。

 自分はいないことになっているのだから、お前に会う訳にはいかない。

 だからお前が玄関から入ってくるのを見て、急いで灯籠を片づけ湯呑みを置いて、窓から部屋を出たんだ。

 ここら辺の流れは、一番初めに説明したとおり」


「どうして、俺のために。

 そうだよ、願い事なんてしてなかったのかもしれない、俺の部屋を燃やそうとしていたのかもしれないだろ」

「お前、まだそんなことを言ってんのか」

「だって!」


 認めてしまったら、彼女への罪悪感で溢れてしまいそうだった。

 彼女が残した湯呑みにはバットやグローブが描かれていた。

 その湯呑みを使って、彼女が祈ったことは何だったのか。

 自分が諦めてしまったスポーツに、彼がもう一度向き合えるように。

 一番好きな野球を、また精一杯出来るように。

 湯呑みの灯籠に向かって祈りを捧げるリラの姿が、ふとハヤトの心に映される。

 もう会えないのに、ただただ、罪悪感といとおしさだけが募り残ってしまうだけだ。


「灯籠を作った意味は彼女に聞くのが一番なんだけど。

 でも一番肝心だったのは、湯呑みをお前に届けることだった。

 その約束を果たすためにお前の部屋まで行ったことは事実だ」

「あんな約束、俺が勝手に押し付けたようなもんだよ。

 おねえちゃんは本当は嫌だったのかもしれない。

 だから、自分の湯呑みを使って、俺の部屋に火をつけようと……」

「そこまでいくと、さすがに俺より論理の飛躍が激しいだろ。

 彼女は純粋に自分の湯呑みを届けに行ったんだ」

「なんでそんなこと分かるんだよ!

 見てもなかったくせに!」


 ムキになってハヤトが突っかかる。

 だが、ハルは平然と


「見てねぇよ? お前がそう証言しているんだ」


 顎でハヤト自身を差しながら、短くそう返す。


「俺が?」


「お前が湯呑みの交換を申し出たのは、彼女が既に湯呑みに絵を描いてしまった後だ、とそう言ったな?」


 ハヤトに向けるように、ハルが人差し指を立てる。


「う、うん。それが何?」


 その答えに頷くと、更に中指を並べて立てる。


「もう一つ。

 お前が彼女としたスポーツは、バスケやサッカーだったよな。

 何で野球、というかキャッチボールの話がなかったんだ?

 お前が野球少年なら、まっさきに出てきそうなんだが」


 ハルの言葉に、ハヤトが思い出すように上を向き、


「あぁそういえば。

 したよ、キャッチボール。

 だけどおねえちゃん下手くそなんだ。ノーコンだし、野球したことないんだって。

 だからやらなかったんだよ」


 それがどうしたんだ、と答える。


「つまり彼女は野球に興味がなかったんだよな?」

「うん。バットも握ったこと無いって言ってた」


 ハヤトがなぜそのようなことを聞くのだ、と訝しむ。

 しかし、ハルはその言葉に、少しだけ空を見上げた。

 まるで当時の情景を眼の前に映しているように、伏し目がちの目が二三度、ゆっくり瞬く。


「……なぁハヤト?

 もしもお前が湯呑みの交換を言い出した『後』だったなら、お前の言っていることも分かる。

 だけどさ、なんでお前が交換しようと言う『前』に、彼女は野球に興味もないのに、自分の湯呑みにバットやらボールやらグローブの絵を描いたんだろうな?」

「……え?」


 ハヤトの思考が少しだけ止まる。

 そしてゆっくりとハルが言っている意味を考えた。

 リラの顔を思い出す。彼女が何をしたかったのか。

 あの日見た灯籠の明かりが心のなかで揺らめく。

 それを見ているうちに、段々とその答えが、自分の中で形となっていった。

 あの日から離さず持っている湯呑みには、可愛らしい野球少年のための絵が描いてあった。

 何度も何度もそれを見て、指でなぞってはその問いを投げかけていた。

 今、形を成した答えは、自分が思っていた以上に、とても優しいものだった。


「お前が言い出すよりも先に、彼女は自分の湯呑みを大事な友人にあげるつもりだったんだ。

 そのつもりで心をこめて丁寧に、お前用の湯呑みを描き上げたんだよ。

 だからお前が彼女が考えているのと同じ事を言った時、彼女は凄く驚いて、同時に言葉にならないほどに嬉しかったんだ」


 自分が交換しよう、と約束したときの彼女の顔を思い出す。

 とても驚いていた。あの時は嫌だったのか、とそう思ったがそうではなかったのだ。

 ハヤトの目から涙があふれる。


「お、ねえちゃん」


 もう駄目だった。

 認めるしか無かった。

 彼女の優しさを、その愛情の深さを。

 それを理解できずに、怒鳴りつけた『言葉』で壊してしまった自分を。

 あの日、部屋の中で灯火に照らされた彼女の顔を思い出す。

 ハヤトを見て、嬉しそうで泣きそうな顔をしていた。

 今も思い出すのは、その時の顔だ。

 彼女もきっと悔いていたのだろう。

 怖がって本当のことを話せなかったことを。

 それが招いてしまった悲劇を。

 

 だから、姿を消してしまったのだ。

 儚く揺れる夏夜の灯火とともに。


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