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1-2

 仲間から阻害される理由。

 それは時として想像もつかないような些細なものだったりする。

 昨日まで笑い合っていた仲間が、突然背を向けるのだ。


 ハヤトの場合もそうだった。

 当時3年生だった彼は、類まれなピッチング能力で、低学年ながら高学年の先輩を差し置いてマウンドに何度か立つこともあるほどに運動能力に優れていた。

 同級生は自分たちの仲間が活躍するのを鼻高々にしており、練習帰りに遊びに行く時なども、いつも自然と彼をリーダーとして歩き回っていた。


 しかし上級生はそれが気に食わなかったのだろうか、彼らに対して冷たい目を向けるようになる。

 それは段々とハヤトの同級生、そして友人たちにも派生していった。

 後で分かったことだが、上級生らは彼の仲間を懐柔するようにして、遊びに誘ったり、彼に秘密にして同級生だけに練習をしていたりということを繰り返していたようだ。

 そして彼の悪口を同級生に吹き込み、一人二人と彼から仲間が離れていった。


 おかしいな、とハヤト本人が思い始めた頃にはもう遅い。

 マウンドに立たせてもらいないどころか、誰もキャッチボールの相手すらしてくれなくなった。

 彼が声をかける前に、仲間は他の仲間と組み、あぶれた仲間も上級生が積極的に組むことで、彼は完璧に孤立していった。

 野球一筋だった彼の居場所が、彼を追い詰めるようになっていく恐怖を、ハヤトは今も思い出すと胸が苦しくなる。


 野球以外にすることがなかった。

 謝れば仲間に入れてもらえるだろうか。

 でもなんて言って謝ればいい?

 何が悪かったのか、それもわからない。

 行き場を失った彼は、学校にすら行くことが出来なくなってしまった。

 一日中、ボールを握ったまま、布団の中で泣くこともあった。

 何も分からないのが、どうすればよいのか分からないのが、悔しかった。

 それなのに友達を問い詰めることも出来ない自分が、もっと悔しかった。

 もしかしたら友達と思っていたのは自分だけだったのか、そう思うと惨めで仕方なかった。


 転機が訪れたのは、彼が学校に行かなくなって一ヶ月後。

 ハヤトの親は息子の状態をよく理解し、無理に学校に通わせることはなかった。

 話せないこと、話したいことがあるだろう。

 その時が来るまで辛抱強く待つつもりだった。

 だが一ヶ月たってもその状態が続くということは、もう待っていて良いレベルではないと判断し、ある提案をハヤトに与えた。

 それは、自然教室という福祉施設が行なっているイベントだ。

 元々体を動かすのが好きだったハヤトは、精神状態も身体の状態に依存することが多かった。

 体が健康であれば、心も健康になるのではないか。

 少なくとも環境を変えることによって、なにか新しい道がひらけるかもしれないと思い、自然教室へ申し込むことを勧めると、意外にもハヤトはすんなりと承諾した。

 彼自身このままではいけないと思っていた。

 それに、いままでずっと動かし続けていた体が、うずうずとし始めていたことにも気づいていた。

 以前と同じ目にはあいたくない。

 だが、同じくらい外に出て、思いっきり体を動かしたかった。



 自然教室は7月1日から七日間、最終日が七夕の日である。

 森の中に建てられた2階建ての木造校舎を拠点として、ボーイスカウトのようなレクリエーションや写生、陶芸などを楽しむ。

 参加者は彼のように学校生活に支障をきたした児童や生徒がほとんどであり、その数は10~20人程度の、比較的小規模なものだった。

 さらにどのイベントも強制ではなく、楽しそうだったら自主的に参加するものであり、そういった点も、未だ他人に恐怖を感じていたハヤトにとっても魅力的だった。


 彼の両親も直前まで悩んでいたのか、締め切り後に申し込み、滑りこむ形で参加となったハヤトには、寝床も兼ねている木造校舎の2階角部屋があてがわれた。

 そこは本来余った家財や電化製品などがしまわれている場所であり、彼は冷蔵庫やタンス、絡まったコードが隅に敷き詰められた部屋で寝起きすることになる。

 もっともわがままを言ったのはハヤトらの方であり、ハヤトの親と自然教室のスタッフどちらもが「申し訳ない」と言い合う謝罪の応酬となるほどだった。

 ハヤトは特に気になることもなく、むしろごちゃごちゃしている方が落ち着いた気持ちにすらなった。



 ハヤトが彼女と出会ったのは、自然教室2日目。

 敷地内のどこでも良いから、好きな場所の写生をするというイベントだった。

 思い思いに散らばる中には、既に友達となっている子供もいる。

 だが、臆病になったハヤトにはそれが出来ず、ひとり森の中を散策しながら良い場所を探していると、目の前の大きな木の上に、一人の中学生ほどの少女が座っているのが見えた。

 大きな、といっても彼女が座っている枝は地上から2・3メートルの高さである。

 しかし3年生であった彼には堂々とそびえたつ大木に感じられ、その枝の上で木漏れ日を浴びる少女の大人びたその表情が、小説の挿絵のように儚げで神秘的なものに映った。

 少女の首元には、大人が使うような大きなカメラが重そうにぶら下がっていた。

 肩まで伸ばした髪と、目深に被った茶色いツバ付き帽子のため、表情の詳細は分からなかった。

 帽子の影になったその瞳が、必死にすら思える真剣さで目の前の情景を写しているように見え、ハヤトはそれに倣って彼女が見ている方向に目を向ける。

 しかし、ハヤトの身長では高さが足りず、彼女が何を見ているのか分からない。

 前に出て、確かめようとすると、


「わっ!」


 と木の上から小さく悲鳴が聞こえる。

 驚いて上を見ると、少女がハヤトの方を見て口を抑えている。

 どうやらちょうど今、彼に気がついたようだ。

 驚いて見開いた色彩の薄い目は、先程までの大人びた表情とは裏腹に幼さを残し、それが細められてはにかむように笑う顔は、更にそれを濃くし、親しみやすいものにした。

 薄く長い白のスカートが風になびくのを軽く手で抑えながら、彼女がハヤトの方に身を乗り出す。


「ごめんなさい、熱中していて気が付かなかったの」


 驚かせてしまったなら、声を掛ければよかったかなと少し後悔しつつ、ハヤトは自分の疑問をぶつける。


「何を見ていたの?」


 彼女は覗きこむようにしてハヤトを見ながら、少し笑う。

 小動物を思わせるような親しみやすい笑顔に、ハヤトは少しドキリとした。


「ここまで登れる?」

「任せて。運動神経はいいんだ」


 彼女が自分の隣を指さしたのを見て、ハヤトは画材を小脇に抱えて枝に手をかける。

 少し苦戦しつつ、最終的に彼女の細い手に捕まって、やっと彼は彼女の隣に腰を掛ける。

 瞳と同じく色彩の薄い栗色の髪の毛からは、ふわりと花の良い匂いがした。


「見える?」


 彼女はハヤトの顔を覗き、そして目の前にある、同じような大きな木の幹を指差す。

 同じように低い位置から枝を伸ばしていたが、違うのはその場所に洞があることだった。

 そしてその洞からは、小さな頭がきょろきょろと顔を出している。


「あっ……っ!」


 リスだ、と声を出しかけて慌てて口を抑える。

 臆病な動物が逃げてしまう、そう思ってハヤトは口を抑えたまま身を乗り出して小さな小動物を見る。

 動物園で見たことはあるが、こんなふうに自然の中にいるリスを見るのははじめてだった。

 リスはせわしなく頭を動かすと、爪を幹に引っ掛けて駆け上がっていく。

 そして細い枝を難なく伝って行くと、隣の木に移ってしまった。

 本物のリスが目の前を通った、それだけでハヤトは誰かに自慢したいほどに心が浮き立つが分かった。

 少女の方を見ると、目を細めて笑いながらハヤトを見ている。

 そういえば、丘の上の恵比寿様と一緒に祀ってある観音菩薩像も、こんな風に優しい顔をしていたな、とハヤトは思い出した。


「リス、野生のはじめて見た」


 少しドキドキしながら、ハヤトが少女に言うと、彼女も少し興奮気味に何度か頷く。


「私も。はじめて見たよ。可愛かったね」


 そうやって満面の笑みを浮かべる少女は、やはり先程のリスのように愛らしかった。



 彼女は神林里良と名乗り、当時は中学2年生だった。

 あの時以来、ハヤトは彼女と過ごすことが多くなった。

 一緒に過ごすことで、色んな彼女の面を見ることになる。

 リラは野球少年でならしたハヤト以上に運動神経が良かった。

 はじめて出会った時は、どこか儚げに見えたが、実際はかなりアクティブで負けず嫌いな性格のようで、自由時間はハヤトと1On1で勝負したり、サッカーでドリブル対決をして競った。

 上級生でさえ勝てなかったハヤトの運動神経に、リラは五角以上の健闘を見せ、二人して汗だくになるまで走り回る姿は、歳相応の無邪気な少女だ。

 しかしハヤトにとって年上の女の子がこのように自分の遊びに全力で付き合ってくれるというのは、どこか不思議な感じもしていた。

 事実、活発な彼女だったが、広い校庭で駆けまわる子どもたちに交じろうとはせず、体を動かして遊ぶのはハヤトと共にいる時くらいであった。


 彼女といることで楽しいのはそれだけではない。

 彼女はいつも真剣にハヤトの話を聞いてくれていた。

 親にも話せなかったチームのこと、学校に行けなくなったこと。

 そんな彼の弱点とも言えるような話を、リラは時に涙ぐみながら聞いていた。

 じっと彼の顔を見て、まるで探るような目でハヤトの心中を読み解こうとするリラの視線は、全く不快ではなく、むしろ見守られているようで、とても心地よかった。


 色んな話をした。

 今までのスポーツ戦歴、二人共メロンソーダが好きなこと、リラが森の中で撮った動物の写真、それからこの街ではお決まりの怪談話―切り裂き魔がこの森にも住んでいて、数年前に女の子が殺されて埋められた、なんていう話まで。

 さらにこの時期に多くなるお祭りにも詳しく、丘の上にある恵比寿様の祭りの由来、近所のお祭りではどんな神様がいるのか、どんな行事があるのか、ハヤトの家の近所にありながら彼ですら知らないことまで教えてくれた。

 話のうまいリラは、様々な話題を提供し、ハヤトから色んな表情や感情を引き出していった。


 ささやかな幸福だった。

 彼の求めていた救いは、リラの中にあったのだろう。

 真剣な顔をしたと思ったら、イタズラっぽい顔を見せたり、少し顔をしかめがちにしてファインダーを覗いてシャッターを切ったり。

 活発な性格なのに、結構ぼうっとしていて人の話を聞いていなかったりと、様々な発見があり、ハヤトはそのどれも楽しくて好きだった。


 彼女の明るさは、太陽のようにぎらぎらとした華々しいものではなく、ころころと笑う姿は澄んだ水面のように気持ちのよいものだ。

 時に姉のように優しくて、時に自分よりも年下のように笑い合う、歳も性別も違うけれど、ハヤトはもう一度『友人』を見つけた嬉しさに満たされていた。


 楽しい日々が立つの早い。

 7日ある自然教室が2日、3日と時が立つに従って、時間の速度が増していくように感じていた。

 リラの様子が変わり始めたのも、その頃だっただろうか。

 たまに呆けたように呼びかけてもぼうっとすることはあったが、4日めを過ぎた辺りから、なぜかその時間が多くなった。

 最終日が近くなるに連れてその頻度が高くなり、一人でふらりとどこかにいってしまうことも多くなる。


 話す時間が減ったことに、ハヤトは不安を覚えていた。

 また自分は何かをしてしまったのではないか。

 チームメイトが自分から離れていった時のように、何か気に触ることしてしまったのか、と。

 考えてみれば不思議な少女だった。

 他の子と遊んでいるのは見たことがない。

 関わろうともしない。

 ハヤトといる時以外は、まるで煙のようにふとした瞬間に消えてしまっても、自分以外は誰も気づかないんじゃないかと、そう思うほどに儚い印象を覚えていた。

 少なくなっていく彼女との会話の中で、いつものように覗きこむようにして自分を見るリラの表情が、少しずつ曇っていくようにハヤトには感じられた。


 決定的な事件が起こったのは、最終日。

 その日は湯呑みを作るというイベントがあり、二人も朝からそれに参加していた。

 作業自体は簡単なもので、既に素焼きされた湯呑みに絵を描いて、あとは後日焼きあげるだけである。

 久しぶりに朝から一緒にリラといられるということもあり、ハヤトは心がはしゃぐのを抑えきれなかった。

 リラもどこか嬉しそうに器用に筆を動かしながら作業を楽しんでいるのを見て、ハヤトはホッとしたのを覚えている。

 平面の紙に絵を描くのでさえ苦戦する不器用なハヤトに対して手先の器用なリラは、他の誰よりも早く綺麗な絵を描きあげていた。

 一番早く作業を終えてしまった彼女は、ハヤトにからかうような口調で色んなアドバイスをする。

 それでも手持無沙汰なのか、次に素焼きする湯呑みのために土を捏ねる作業までしていた。

 久しぶりに心地の良い時間であった。

 彼女のアドバイスを聞きながら、ハヤトは二つの提案をする。


「ねぇおねえちゃん。湯呑みが完成したら、乾杯しようよ」

「乾杯? お酒なんて飲めないわよ?」


 きょとんとするリラに、ハヤトは笑いながら言う。


「お酒じゃないよ。メロンソーダで!」

「メロンソーダ? 湯のみで? あははは、いいね、それ!」


 チグハグな感じが受けたのか、彼女はお腹を抑えて笑っていた。


「それとさ、これが上手く出来上がったら」


 少し不安になりながら、ハヤトはもう一つの提案を口に出す。


「うん?」

「交換しない? おねえちゃんのと、俺の湯呑み。

 俺も頑張って描くからさ。

 ……駄目かな?」


 その言葉に、リラは少し驚いた顔を見せ、一瞬口篭った。

 やっぱり駄目だろうか。描き途中の絵を見せないように湯呑みをきゅっと握りながら、ハヤトが不安になる。

 しかし、彼女はすぐに破顔すると、


「メロンソーダが横から零れないように、ちゃんと作ってよね?」


 そう言ってハヤトの額を軽くつついて笑った。

 

 事件があったのはその後だった。

 リラに贈るためにハヤトなりに頑張ってみたが、納得のいく絵にはならなかった。

 こんなのを見られたら格好悪いし、絶対からかわれるだろうと思った。

 何とか彼女の目が届かないうちに、上手いこと修正してしまいたい。

 運良く自分の袖の裾についた土を気にしたリラは、それを洗い落とすために席を外していた。

 一度客観的に見た方がいいかも。

 ハヤトはそう思い、頭を冷やすことにした。 

 誰もいない一番端の作業机に湯呑みを置いて、一休みするために外に出て数十分。

 作業場に戻ると、既にリラも戻っていた。

 彼に背を向けたリラは手には大きな袋を持っており、その中には幾つもの壊れた湯呑みが入れてある。

 既に作業を終えてしまった彼女は、成形して乾かしたものの、ひび割れてしまったり、絵を描いている途中で手を滑らせて割ってしまったものなどを集めているようだ。

 作業場に入ってきたハヤトとは対角線上の距離にいるリラは、ハヤトが置いた湯呑みに手を伸ばす。

 失敗作と勘違いしているのか。

 このままだと捨てられてしまう。

 そう思ってハヤトは、


「おねえちゃん、それ俺のだよ!」


 大声で注意を促す。

 その声に、彼女と同じ場所で片付けをしていた自然教室のスタッフがこちらを向く。

 しかし彼女はまるでその声を無視するかのように湯呑みを持ち上げる。


「ダメだって、おねえちゃん!」


 ハヤトはもう一度叫ぶが、彼女は無表情でその湯呑みを見つめると、そのまま袋の中にハヤトの湯呑みを落とした。


「あっ!」


 ハヤトは駆け出し、リラのところまでつくとひったくるようにしてその袋を奪う。

 下に敷かれるようにして先に集められた湯呑みがクッションとなったのか、彼の湯呑みは大破とはいかなかったが、縁が逆三角形に割れていた。


「なんで捨てちゃうんだよ! 俺のだって言ったのに! 最低だ!!」


 湯呑みを抱えるようにして、リラを見上げる。

 しかしそこにあったのは、今まで見たことがないほど表情がないリラの顔だった。

 リスのようにくりっとしたが、今は光を失い、静かにハヤトを見下ろす。

 それはハヤトが息を呑むほどに冷たい表情であった。

 リラはそんなハヤトから視線をそらすと、声をつまらせて固まっているハヤトを押しのけるようにして、早足で歩き出し、そしてそのまま作業場を出て行く。


 まるで何事もなかったような足取りだった。

 ハヤトには理解できなかった。

 なぜこんな酷いことを彼女がしたのか。

 交換しようと、そう言ったのが、それ程嫌だったのだろうか。

 後に残されたハヤトは、欠けてしまった湯呑みを見つめる。


 ぽつん、と一滴の涙が素焼きの湯呑みを濡らした。




 最終日は七夕だ。

 木造校舎の入り口には短冊が色とりどりの短冊と一緒に、細長い笹の葉が風になびく。

 夕方になると参加者たちは川沿いに出て、遠くであがる花火を見ながら、手持ち花火に興じる。

 元々の性格からか、7日間でハヤトにはリラ以外にも気軽に話をする友人と呼べる子供が出来た。

 彼らと喋りながら、川面を流れる火花を見て、リラを思い出す。


 あれは一体何だったのだろうか。

 まるで人が変わったように、彼女はハヤトのものを傷つけ、そして存在を無視するようにして何処かに消えてしまった。

 彼女はいつも目深にかぶった帽子を、例え室内でも外さなかった。

 それは彼女を見つける目印にもなったのに、今はそれが見当たらない。

 友人との会話に相槌を打ちながらも、ハヤトはどこかにいるんじゃないかと、リラの姿を探した。

 どこかで彼女はもう現れない、と諦めに近い気持ちがハヤトの中にはあった。

 その思いは彼の気持ちを急激に沈ませる。

 楽しいはずの場所に彼女がいない。

 それがたまらず、ハヤトは一人、その場を抜けだした。


 川から校舎はあまり離れていない。

 ほぼすべての参加者が花火大会のために興じている今、真っ暗な校舎はどこか不気味な静けさを見せていた。

 さっさと部屋に帰って寝てしまおう。

 明日になればうちに帰れる。

 そうしたら、きっとリラのことももう思い出さないだろう。

 思い出さないようにしよう。

 そう思いながら、自分の部屋がある2階の左端を見上げる。


「え?」


 その部屋だけ明るかった。

 まるで灯篭の火のように揺らめくオレンジ色の光が、ハヤトの部屋の中を照らしている。

 光源は彼の机の上だろうか。

 しかし地上からの高さと、出窓に横に添えられた手すりが邪魔をして、それ自体を見ることは出来なかった。

 小さな灯だったが、真っ暗な校舎の中では一際鮮やかな光を放っている。

 一瞬火事だろうかと思って、スタッフを呼びに行こうと今来た方に引き返そうとする。


 が、その光の中でゆらりと影が動く。


「おねえちゃん……?」


 光源を見つめるようにして浮かんだ人物は、リラだった。

 彼女もハヤトの姿に気がついたのか、ゆっくりと彼の方を振り向く。

 笑っているような、泣いているような、そんな表情にハヤトの心臓がぎゅっと痛む。

 闇夜の灯火に映る彼女は、幻想的な儚さに照らされ、とても美しかった。


「おねえちゃん!」


 次の瞬間ハヤトは走り出していた。

 玄関から入ると、吹き抜けとなった階段が二つあり、上の階が見渡せるようになっている。

 その左の階段を登れば、部屋が3つある。

 そのうちの一番左端が彼の部屋だ。

 そこに行くまでに、30秒もかからない。

 彼はまっすぐ自分の部屋に向かった。


「あれ?」


 しかし、部屋には彼女の姿はなく、先程まで煌々と灯っていた光も跡形も無い。

 まるで何事もなかったように、部屋の中はしんと静まっていた。

 先程まで光があった場所を見る。

 そこには、小さな湯呑みが置かれていた。

 器用に描かれていたのは、バットとボールとグローブ。

 柔らかく優しいタッチのそれを見て、直感的にそれがリラのものであるとハヤトは悟った。


「おねえちゃん!」


 ハヤトは廊下に戻る。

 しかし先程と同じく、しんと静まり返った暗闇が広がっている。

 隣の部屋のドアノブをひねって開ける。

 しかし部屋の中には誰もいない。

 電気をつけて目をこらすが、人の気配はなかった。

 その隣も同様。

 彼の部屋の隣、廊下の左突き当たりにある非常階段のドアノブを捻ってみたが鍵がかかっている。

 内側からしか開閉できない鍵がかかっているということは、非常階段から出たわけでもないようだ。

 正面の階段を通らなければ1階には降りられない。

 仮に2階の逆方向に行ったのだとしても、すぐに玄関に飛び込んだハヤトの目には、吹き抜けの廊下からその姿を捉えることができただろう。


 いなくなってしまった。

 まるで、あの灯火が消えたのと同じように。

 彼女は2階の彼の部屋から、忽然と姿を消してしまったのだ。


「おねえちゃん、どうして……」


 暗い廊下の中、彼は一人呆然と立ち尽くすしか無かった。



 ふと、彼女が話していた怪談話の1つを思い出す。

 この森では、切り裂き魔に殺された女の子が埋められている。

 そんな話だった。

 ハヤト以外と関わろうとしない少女。

 ハヤトにだけ笑いかけてくれる少女。

 その湯呑みを割ったのは、決別のためだったのか。

 そしてさよならを言うために、もう一度彼の前に姿を現してくれたのだろうか。

 

 夏の灯火とともに消えてしまったリラは、もしかしたらその幽霊だったのかもしれない。

 たった一つ残された湯飲みを両手に抱くようにして、ハヤトはただ泣くことしかできなかった。

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