引継ぎ
「引継ぎをしなきゃいけないねぇ」
午後の昼下がり。ナナと一緒に窓辺で日向ぼっこをしている時だった。ナナが突然、不思議な事を口にした。フローリングに気持ちよく寝そべっていたコロは、ゆっくりと頭を起こす。ふあ~っと、大きなあくびをしながら、ナナの方へ視線を向ける。
「引継ぎって、なに?」
コロは何の事か分からず、気の抜けた声でナナに尋ねた。するとナナは、少し呆れたように小さな両肩をすくめた。
「チリン」
と、ナナの赤い首輪に付いている小さな鈴が微かな音を奏でた。と同時に、ナナは口を開いた。
「猫の作法を教えるんだよ」
「えっ? 猫の……、作法? 教える? 誰に?」
「あんたに決まっているじゃない」
ナナのその言葉に、コロの瞳が大きく見開く。
「なっ、何で犬の僕が、お、覚えるの?」
動揺しながら応えるコロに、ナナは意地悪な笑みを浮かべた。
「決まっているじゃない。ご主人の家に新しい猫が来たら、あんたが色々と教えてあげるんだよ」
「そ、それって、ナナの役目なんじゃ―」
パン!
「キャンッ⁉」
突如ナナの猫パンチがコロの鼻にヒットした。コロの甲高い鳴き声が、アパートのリビングに響き渡る。
「コロ⁉ どうしたの⁉」
家のご主人である小川結衣が、慌ててソファから立ち上がった。読んでいたファッション雑誌をソファにほうりだし、2匹のもとに駆け寄った。
「クウ~ン……」
コロはご主人を見上げながら、情けない唸り声をだしていた。その横では、ナナがコロの鼻頭を優しくなめている。結衣はほっと胸をなでおろす。
「もう~、コロ。何にもないのに突然大きく吠えちゃダメ。私もナナもビックリしちゃうでしょ。ふふっ、ナナは優しいね~」
結衣はナナとコロの頭を優しく撫でた後、ソファまで戻っていった。読みかけの雑誌を手に取ってから座わり、そのままページに視線を落とす。
ナナはご主人のくつろいでいる様子を確認すると、コロの鼻をなめるのをピタッと止めた。そして、コロに意地悪な笑みを浮かべる。
「さてと、それじゃあ今日から教えるとしようかね。猫の作法」
「ええっ……、なんで僕が覚えなきゃ―」
「嫌なのかい?」
ゆらり、とナナの前足が不気味に動く。コロは慌てて口をつぐんだ。そんなコロの様子に、ナナが満足げに笑う。
「チリン」
赤い首輪の鈴が小さく、嬉しそうな音を奏でた。
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ナナが「引継ぎ」を口にした日から2ヵ月の間、コロは毎日が猛特訓の日々だった。
ナナが家の柱で爪を研げば、コロも見様見真似で爪を研ぐ。ナナが前足と後ろ足を折り畳んで香箱座りをする、いわゆる猫座りをすれば、コロも短い足を必死に折り畳んで座った。
結衣はそんな2匹の様子を見るのが楽しみの1つとなった。コロが一生懸命ナナの真似をしている姿が、とても可愛いかったからだ。だが、コロにとっては厳しい訓練でしかなかった。
厳しい訓練のなかで特に苦労したのは、最後に教えてもらった、キャットタワーの上り方だった。お尻が大きく重いコロは上手く登れず、キャットタワーの半分の高さまでしか登ることが出来なかった。そして、最後まで頂上に辿り着く事が出来ないまま、ナナから猫の作法の訓練の終わりを告げられてしまった。
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コロとナナは互いに横に並んで、キャットタワーを見上げていた。
「えっと……、ナナ」
コロは恐る恐る口を開き、ナナの方に振り向いた。すると、ナナの前足がスッとコロに近づいてきた。コロの全身がググッと強ばる。条件反射で鼻頭がピクピクと動き、ナナの猫パンチを覚悟した。だが、コロに向けてゆっくり伸びてきたナナの前足は、コロの鼻頭を通り越し、ふわっと、コロの頭に乗せられた。ナナが意地悪く笑い、優しくコロの頭を撫でる。
コロの目が大きく見開く。丸い瞳がナナを不思議そうに見つめていた。ナナはそんな事お構いなしに、優しくコロの頭を撫で続ける。
「この2ヵ月、コーギーにしちゃあ、あんたは良くがんばったね。とてもできた犬だったよ」
突然のナナの優しい言葉。コロはただ目を丸くするばかりだった。ナナはその後黙ってしまい、ゆっくりとコロの頭を撫で続ける。コロは何を言えばいいのか分からなかった。でも今は、ナナに褒められたこと、優しく頭を撫でられていることが嬉しかった。コロの短い尻尾がぴこぴこと揺れ動く。
そんなコロに、ナナが嬉しそうな、そして、寂し気な笑みを浮かべた。コロが不思議そうな目でナナを見つめる。ナナがゆっくりと口を開いた。
「これからは自分でしっかり、忘れないように練習するんだよ、新入り猫が来た時のためにね。……コロ」
「ん……、なに?」
「今まで、ありがとうね。ふふっ、ずっと楽しかったよ。あんたがこの家に来てから、ずっとね。」
そう言って微笑んだナナは、キャットタワーを登り始めた。寝床である頂上まで、少しおぼつかない足取りで辿り着くと、そこでいつもの様に体をおろした。そして、そっと目を閉じ、永い眠りについたのだった。
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「もうナナの真似はやめて‼ コロッ‼」
結衣は大きな声を張り上げた。コロはその声に驚き、家の柱で爪を研ぐ仕草を止めた。慌ててご主人の方へ振り向くと、赤く目を張らした涙目の御主人がそこにはいた。
「クウ~ン……」
コロの悲しそうな唸り声に、結衣は座っていたソファに弱々しく、うつ伏せに倒れ込んだ。ソファに埋もれた結衣の顔の隙間から、小さくすすり泣く音がリビングに響き渡る。
ナナが居なくなってからこの2週間。コロは、ナナが最後に言ってくれた、猫の作法の練習をずっと繰り返していた。いつか急にナナが戻ってきて、また猫の作法を教えに来てくれるんじゃないかと思ってしまう。そうしていないと、心にぽっかり大きな穴が空いたみたいで、ただただ寂しくて、悲しくて、会いたくて。そんな気持ちに押しつぶされてしまいそうになる。でも、今は何もできない。ご主人の辛い様子をコロは見つめ、ただ力なくフローリングにひれ伏し、そっと両目をつぶった。
「チリン」
「ナナ⁉」
コロは顔をバッと勢いよく持ち上げた。気付いたらいつのまにか眠ってしまっていた。慌てて辺りを見渡す。でもナナの姿はどこにもいなかった。でも確かに聞こえたのだ、ナナの赤い首輪に付いていた鈴の音が。
「チリン」
「あっ!」
また聞こえた鈴の音。その音の方へ顔を向けると、コロは思わず目を見張った。ご主人が、ナナの首輪をキッチンのごみ袋に入れようとしていた。
「ワンッ‼‼」
「コロ⁉ ちょっと⁉ は、離しなさい‼‼ あッ!」
赤い首輪を咥えたコロは、ご主人から急いで離れた。
結衣が赤く腫れた目でコロを睨む。
「コロ……。もうナナは、いないの。ナナは、ナナは、もうどこにもいないのッ‼ だから、返してッ‼‼」
結衣がコロに勢いよく詰め寄る。コロは慌てて後ずさるも、コツン、と背中にキャットタワーの柱が当たった。追い詰められたコロ。結衣の片手が、コロの咥えている赤い首輪に迫った時だった。
「チリン、チリン」
「えっ⁉ コ、コロ⁉」
ご主人の驚く声を無視し、コロは必死にキャットタワーを登り始めた。ご主人に捕まらないために、無我夢中で目の前の段へ段へと飛び移る。コーギーなのにまるで猫の様なしなやかな動き。そしてチリン、チリンという鈴の音。まるでナナが登っているかの様で、結衣はコロに釘付けになった。そしてコロはついに、頂上までたどり着いた。
初めて来たナナの寝床。
あっ、ナナの、匂いがする。
コロはそう思った。日を追う毎にご主人と自分の匂いだけが強くなっていくこの家に、まだこんな場所があったんだ。
「コーギーにしちゃあ、あんたは良くがんばったね。できた犬だったよ」
ふとナナの言葉がコロの耳に蘇る。
コロの口が少し震えた。
「チリン」
赤い首輪の鈴が小さくも優しい音を奏でる。しばらくここにいたくて、コロはゆっくりと座った。
「コロ……、ぷふっ。ちょっと、その座り方」
コーギーなのに、完璧な猫座りをしたコロの姿。結衣は思わず笑ってしまった。
久しぶりに聞くご主人の楽し気な声に、コロは振り向いた。
涙目でも、少し楽しそうな顔。コロはなんだか嬉しく思った、その時だった。コロはあることに気付いた。そして、体が小刻みに震え出す。
「た、高い……」
目もくらむような高さ。思わず震える足で立ち上がった時だった。
「わわっ⁉ コロ‼」
「チリン」
結衣の大きな声、そして赤い首輪の鈴の音が鳴ると同時に、コロはキャットタワーの頂上から足を踏み外した。コロは全身に感じる浮遊感と共に、下に落っこちていった。
「チリン」
恐くて目をぎゅっとつむっていたコロは、赤い首輪の鈴の音に気付き、そっと目を開いた。
温かい。
コロは、結衣の胸のなかだった。結衣は両手で優しく包み込むかのように、コロを抱きかかえていた。涙目で少し可笑しそうにコロを見つめていた。
「急に立ち上がったらダメでしょ、コロ」
結衣はそう言いながらコロの頭を優しく撫でる。コロの気持ちがほっと、落ち着こうとした時だった。コロの鼓動が早くなる。ご主人の手には赤い首輪が握られていた。思わず、鼻頭を赤い首輪に近づけた。
すると、それに気づいた結衣はコロに、赤い首輪を差し出した。目を丸くするコロ。そのままゆっくり口を開き、赤い首輪を咥えた。
「ごめんね」
結衣が、コロを抱きしめる。コロは急な事にどうしたらいいか分からなかった。そのままご主人に身を任せる。
「ごめんね、コロ。ごめんね……、ナナ。ごめんね……、ごめんね……」
結衣はそのまま、赤い首輪を咥えたコロを、ギュッと抱きしめる。
「クウ~ン」
コロが穏やかな唸り声をあげると、
「チリン」
と赤い首輪の鈴が、小さく優し気な音を奏でた。
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コロがキャットタワーの頂上に登った日から1ヶ月後の事だった。
仕事から帰って来たご主人を玄関まで出迎えに行ったコロは、あるものに目がとまった。ご主人の片手に握られたペット用のキャリーバッグ。
ご主人がそっと、玄関の廊下に置く。
なんだか懐かしい匂いがする。
コロがそわそわするなか、ペット用のキャリーバッグが開け放たれた。
「えっ⁉」
コロはびっくりした。
中から出てきたのは、ロシアンブルーの子猫だった。
小さい。小さいけれど、ナナにとても似ていた。それから、赤い首輪が少し大きくて不格好だ。
「コロ。えっとこの子……、うん、ナナちゃん。ナナちゃんに、これから色々と教えてあげてね!」
結衣が笑顔で、コロに楽し気な声音で話しかける。コロの瞳が大きく見開く。息を大きく吸い込み、丸い瞳を嬉しそうに輝かせ、大きく口を開いた。
「ワンッ‼」
そんなコロの大きな声にビックリしたナナちゃん。小さな両肩が勢いよく跳ねると同時に、
「チリン」
と、赤い首輪の鈴が小さく、嬉しそうな音を奏でた。