顔無狐と孤独少女
蝉の鳴き声が神社に響く。
夏の冷たい風が頬を撫でて、身体が冷え始めてきている。
お父さんもお母さんが来ないのは、珍しいことじゃないからわかってるけど。
「でも、今だけは、今回だけは三人で遊びたかったのに」
「そこでなにしてるの? 一人でいるのは危ないよ」
座り込んでいるわたしに、声をかけてきた人がいた。
狐のお面を顔につけて、涼しそうな服を着たおにいちゃん。
穏やかな声で、胸に広がる痛みが少し和らいだ。
「おにいちゃん、だれ?」
「こどもでもあるし、大人でもあるね」
「……何かのトンチ?」
「名前を教えてくれたら答えるよ」
「ほんとう? わたしがいったら、おにいちゃんも名乗ってよ」
「うん、いいよ」
「神座未知子っていうの、おにいちゃんは?」
「僕は、顔無狐っていうんだ」
「ヘンな名前だね、聞いたことないよ。おに……うーん、名前教えてもらったし。狐さんがいい?」
「そうだね、じゃあ僕も未知子って呼んでいいかい」
「いいよ」
「未知子はどうしてここにいるんだい?」
「祭りの帰りにお母さんを怒らせたから……ここで、少し泣いてたの、まだ帰りたくなくて」
「でも帰らなかったら後でもっと怒られるんじゃないかな」
「ううん、でも……今は、戻りたくないの」
うるさい音、思い出すだけで胸がチクチクする。
頬の音も、ガラスが割れる音も、お母さんの部屋から聞こえるあの音も。
あの場所は、わたしが聞きたくない音で溢れてる。
「そっか……じゃあ、今は少しお話でもしていようか。未知子はイチゴは知ってるよね」
「うん、赤くて甘くて誕生日のケーキに乗ってるのでしょう、狐さんはイチゴ好き?」
「どう答えたら、君は嬉しい?」
「好きって言ってくれたら嬉しいよ」
「あえて普通って選択肢を選ばせてもらおうかな」
「えー!? なにそれー」
「ははは、ごめんごめん。未知子、夏のイチゴ色のお月さまは知ってるかい?」
「イチゴ色のお月さま……?」
「お菓子の商品名じゃないよ。ストロベリームーンとも言うんだ」
「へー……」
「僕は何度も見たことあるよ。未知子も見たことはないかい」
「ないよ。でも、お母さんは金色って言ってたから……」
「未知子自身はどんな色だって思うの?」
「わたしは、銀色だって思う。お父さんと一緒によく見るお月さまはそれだもん」
「じゃあ、未知子のお父さんもお母さんもまだ見たことがないんだね、未知子自身も」
「狐さんは、どこで見たの?」
「どんな場所でも見えるよ、未知子が本当に見てみたいって思えばね。でも、そうだな……未知子はイチゴ色のお月さま、見てみたい?」
「うん!」
「じゃあ、空を見て」
「え……」
狐さんに言われて、わたしは空を眺める。
夕暮れに現れる蝶の群れ。
たくさんの赤色に身を彩る蝶たちはわたしたちの前に現れた。
赤くて光る蝶なんて、見たことない。
微妙に形や大きさに違いがあるけど、私を取り囲むように舞う蝶はどこか切なくなる。
「……狐さんって、お化けなの」
「お化けじゃないよ……僕はね、妖怪なんだ」
「だから、狐さんなの? 狐のヨウカイさん? でも簡単にそんなことわたしに教えてもいいの? お母さんなら、教えちゃダメだって言うよ。ヨウカイって言う生き物はよく知らないけど……わたしのこと、殺すの?」
「未知子は頭のいい子だね。いい子の未知子なら、僕の秘密を誰にも言わないでくれるかい」
「どうして? ……言わなかったら、殺さないでくれるの」
「そういう意味にもなるね。でもさっきのは僕しか知らないおまじないなんだ。それと、もう一つのおまじないを教えてあげる」
狐さんが唐突にわたしを抱きしめた。
わたしのワンピースのポケットに何かを入れて。
「何を入れたの、狐さん」
「後で分かるよ、どんなものか知りたい?」
「聞いたりしたら、ダメなんでしょう」
「未知子はいい子だ、優しいいい子だから、君の心にはそんなにも腫れあがった傷があるんだね」
「傷なんてつけてないよ。転んだときとかはしちゃうかもしれないけど、お父さんもケガをしたらお薬塗ってくれる、よ? 怪我したら、怒るもん」
「だからこそ、これは君にとってのおまじないなんだ。自分の周りをたかって自分を殺してくるかもしれない虫を殺すのに、君は抵抗があるかい?」
「……? ない、けど。どうして、そんな話するの? もっと、ふわふわしたお話聞かせてよ狐さん」
「また、僕に会いたい?」
「うん……うん。また、会えるなら……会いたい」
「なら、それを自分が正しいと思った使い方をすればいいさ。君にならできるよ」
狐さんはわたしの頭を撫でる。
お母さんに撫でてってお願いしても、髪の毛を引っ張ることばかりだったから狐さんの撫で方嫌いじゃない。お父さんが機嫌のいい時の撫で方と、少し似てる。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
「おにいちゃん、いっちゃうの?」
「うん、またね。未知子」
「……ばいばい」
狐さんが帰って行って、私は夜まで神社にいた。
夜になったというのに、その赤色の輝きを絶えず放つ蝶を眩しいと思った。
「……私も蝶だったら、空を飛べたのかな。前のお母さんも、大丈夫だったのかな」
夜の空に飛ぶ蝶は、まるで自由の象徴。
暗闇の中だろうと、その輝きはまるで生きている証を示すよう。
「未知子ちゃんじゃないか。探したんだよ? お父さんも心配してたんだから」
前からやってくる聞きなれた声、お父さんの友だちのおじさんの声だ。
でも、どうしてだろう。こんなふうにお顔がピンク色のゼリーみたいなのだったかな。
まるでミミズみたいに顔が赤い。
「……お父さんとお母さんは」
「大丈夫、すぐ家に帰ってくるよ、二人で待ってよう?」
「……で、も……あ」
立ち上がるのを拒んでいると、私の周りに飛んでいた蝶は気がつけばもういなくなっていた。
「ほら、帰ろう。お父さんたちが待ってるよ」
「……はい」
私はおじさんに手を握られ歩き始める。
真っ白なマンションが見えてきたので、階段を使って部屋まで行く。
玄関を通って中に入るとおじさんは息を荒くし始めた。
「未知子ちゃん。お父さんがどこにいるのか、お母さんが何をしているのか……知ってるだろう?」
「うん」
「だから、おじさんと一緒にいようよ。もう遅いから、はやくベットに行こう? ほら、絵本を読んであげるから」
「……ありがとう」
ベットまで行くと、おじさんはわたしを突き飛ばした。
肩に伝うおじさんの温度に吐き気がする。
お父さんの石鹸の優しい香りよりも、やけに煙臭い匂いがした。
――――ああ、知ってる。今のお母さんのあの臭いも混じってるけど、一緒。
わたしは狐さんから貰ったのをおじさんに向かって突き出した。
銀色に光った折りたたみナイフにおじさんはうめき声を上げる。
「な、なんでそんなものを!!」
「………あは」
だんだんおじさんのからだがミミズ張りみたいに腫れあがって、だんだん目も当てられなくなっていたけど……そんなことをしてくるなら、こうするしかないよね。
わたしは思いっきりおじさんの身体に刺すと、赤い煙を吐き出した。
わたしは飽きるまで、おじさんが吐き出す赤い煙を見た。
ワンピースが赤黒くなっていくのにだって気にしない。
煙の臭いは鉄臭くなって、おじさんの動きが止まったのに気づく。
私は倒れてきた叔父さんの身体をベットに置く。
「おじさんがいけないんだよ? 自分の奥さんいるのにわたしに手を出そうとするんだもん。知ってた。前からずっと、今のお母さんのことをそういう目で見てる人と同じ目でわたしを見てることくらい……気づかないほど、わたしバカじゃないよ」
ふと、ガチャ……と玄関が開いた音がした。
わたしはリビングまで行くと大きなミミズが二匹いた。
一匹は、私の大っ嫌いなあの声と似ていた。
「どうして……!? どうして未知子がここにいるの!?」
「そんなこと今は後だ! 未知子ちゃん、そんなものいますぐ捨てるんだ!!」
もう一匹のミミズも、わたしに必死に声をかけてくる。
……うるさいなぁ。
「気持ち悪い、ミミズが喋らないでよ。虫ケラのくせに」
わたしはミミズを刺すと、そのミミズも赤い煙を吐き出した。
もう一匹も赤い煙を出さなくなったのを見て、つまらなくなったわたしはベランダに出た。
塀の上に乗って、ミミズたちが出した煙よりも赤い月を見る。
リンゴの赤よりも濃くて、イチゴの赤よりも鮮明で、チェリーの赤よりも頭がトロけそうになる……そんな、私ごと覆うように存在する月。
「…………ははは」
真っ赤なお月さま、狐さんが言ってたイチゴ色のお月さまってこれのことだったんだ。
「っふ、ふふふ。狐さんの言ってたこと、本当だったんだぁ」
思わずお月さまを見て笑い出す。
狐さんの白いお面についた赤も、こんな色だったな。
嘘吐きだったらさっきのミミズたちよりももっとひどいことしてたよ。
よかったね、狐さん。
でも、お月さまがもっと赤くなる方法があるならどうすればいいのかな。
「さぁ、おいで。未知子」
どこからか、狐さんがわたしの名前を呼んだのが聞こえた。
「狐さん? どこにいるの?」
「君を迎えに来たよ、おまじないは役に立ったかい?」
月から目を離したくなくて、ずっとわたしは空を見つめる。
「うん! 楽しかったよ、とっても、とっても!」
「そっか、未知子。どうすればあのお月さまはもっと赤くなるか知ってるかい?」
「どうすればいいの?」
「君が見た虫を、みんな殺してしまえばいいだけだよ。さぁ、今よりももっと楽しい場所へ連れて行ってあげる、だから僕の元までおいで」
「本当? うん! うふ、っふ………あは、あははははははははは!!」
わたしは両手を広げた。
そのままわたしは街の街灯の赤に溶けていく。
お月さまに照らされながら、彼岸花の咲いた花壇で二つに裂けた三匹の蝶を見つめて。
皆々様こんちには。
絵之色と申します。
今回の作品は文章が抽象的になるように意識して書いてみました。
もしネタが思いつけば、顔無狐シリーズなるような物も書いていく予定です。