六畳間から始まる創世記
同じ学部の久井くんは優しいけど臆病な人間だ。
変化を恐れ、石橋を叩くことすらないような臆病者だ。
そして友人たちは皆、その橋を渡って向こう岸へと行ってしまった。
彼に残された居場所は空き巣にでも荒らされたかのように散らかった六畳間とその真ん中に鎮座する折りたたみベッドだった。
「俺の部屋から徒歩ニ十分でどこまで行けると思う?」
「どこまでって……大体だけど大学くらいじゃないの?」
大学に入って三ヶ月と少し経った頃、夕食を買いに来たのだろう。学校帰りの私はコンビニで買い物する久井くんを見かけたので話しかけた。
その姿は出会った頃よりもだいぶやせ細っていて、しばらく切っていないであろう髪の毛は肩のあたりまで伸びていた。
「ハズレ。正解はこのコンビニでした」
コンビニ前の喫煙スペースで彼は雪印コーヒーを飲みながら言う。
「えっ、でもここって」
彼の住むアパートからは五分くらいの場所にあるはずだ。
「不安なんだ。鍵を閉めたか、もし閉め忘れていたら、もしそこに空き巣が入ったら、もし去り際に火を放っていったら、そしたら責任は誰に行くのか、とか。バカバカしいとおもうだろう? わかってるさ。これがおかしいってことも、放火していく空き巣もそういないってのも、そもそも鍵は閉まっているってことも。でもさ、そういう世界に生きているのよ俺は」
私が答えに窮していると、しゃがんでいた彼は立ち上がって雪印コーヒーの入っていた紙パックを潰してゴミ箱に入れた。
「じゃあそろそろ帰るわ、悪いね、変な話して。今度飯でも行こうよ」
「待って!」
なんとなくだった。けれどこの機を逃したら彼の言う今度は無い気がした。
彼は歩みを止めて振り向いた。
「なに?」
長い前髪から覗く目には生気が感じられなかった。
何とかしなければ、そう思ったときには私は彼に言っていた。
「今から部屋に行っていい?」
断られそうな気もしたが、久井くんはあっさり承諾してくれた。
「いいけど。俺の部屋すごく汚いよ」
歩きながら彼は念を押すように言う。
「いいよ。私は大丈夫」
「そう……」
彼がそう言って会話を終わらせると私たちは所在なさげに周りに視線を飛ばす。
そうしながら私たちは住宅街に入り、路地の先の一メートル程の幅しかない道を通る。どうやらこの道は住宅と住宅の間の隙間らしく、つまりは私有地だそうだ。立ててある看板に書いてあった。ゴミを捨てたら通行止めも辞さないとも。
「こんな道あったんだね」
「最近見つけたんだ。便利でしょ。これでコンビニに行くまでの十分の道のりが五分になったんだ。まあ部屋を出るのに十五分かかるんだけど」
一体、彼の目には世界はどう映っているのだろうか。私がそう思っているうちに彼の住むアパートが見えてきた。
薄い黄色の外壁の四部屋しかないアパート、そこの202号室に彼は住んでいる。
知り合ってすぐの頃学校に近いって理由で宅飲みの会場になっていて訪れた以来の彼の部屋であった。
彼は階段の入り口に備え付けられた郵便受けを開けて中身を確認した。
ちらりと見えた郵便受けの中身はポスティングされたチラシで溢れんばかりになっていた。
「中身、捨てないの?」
「なんか面倒でね、大事なの捨てていたら嫌だし」
「でもさ、それだと大事な手紙読めなくない?」
そう言うと久井くんは耳の上あたりを掻きながら曖昧に笑った。思えば何かあると彼はいつもそうしていた気がする。短い付き合いの私から見ても印象に残るのだからきっと癖なのだろう。
「階段、少し急だから気を付けて」
「うん、ありがと」
私たちは階段を昇って廊下の突き当りまで歩いた。
彼はドアの前に立ってポケットから鍵を出す。
「もっかい言っておくけどとても散らかっているからね」
「大丈夫だって」
「そう、じゃあ開けるね」
そう言って彼はドアを開けて中へ入っていった。
「お邪魔します……」
「どうぞどうぞ」
私は彼に続いて部屋に踏み入れて靴を脱いだ。
キッチンのあるスペースは仕送りで送られてきたであろう段ボールとさっきまでいたコンビニの袋が散乱していた。
「あ、包丁はこの戸棚に入っているから」
「なんで包丁?」
「もしも俺が襲ってきたらそれ使っていいよ」
冗談かと思ったが、彼の表情からはそんな感じはしない。
「襲うことあるの?」
「もしもの話よ」
「なんだ、もしもの話ね」
「期待してたの?」
「いや、そうでもないかな」
そう言いながら彼は奥の部屋に入って電気をつける。
私もそれに続く。
「ほんとに散らかっているね……」
「だから言ったろ?」
以前宅飲みの会場になった頃は本と漫画が多いくらいであとは殺風景だった部屋はいつ洗ったのかわからない衣服や授業などで配られたであろうレジュメで足の踏み場もないくらいになっていた。四角いちゃぶ台の上には何やら細々としたものが散乱している。
彼はその細々を腕で薙ぎ払うように落とした後、衣服の山を部屋の隅にむりやり追いやった。山がなくなった後には座布団が敷かれていた。
「そういや電気つけたけどなんで?」
私は座布団に座りながら彼に聞く。
すると彼は窓を指さした。
カーテンの暗幕だから暗いのかなと思ったが違う、雨戸だ。雨戸を閉めていたのだ。
「なんで雨戸を……」
「日光で火事が起きるかもしれないって話を聞いてね。あと単純に落ち着くんだ」
「不健康だよ、そんなの。火事なんか普通起きないし」
「起きなくてもいい、とにかく不安なんだ」
「ねえ、なんでこうなっちゃったの?」
彼は頭を掻きながらうーん、と唸る。
「笑わない?」
私は頷く。
「まあ、結論から言うと一度鍵を閉め忘れたの。そこから俺の安心していられる世界は崩れた。出窓を少しでも開けているとカラスが悪さをするかもしれない、日光で火災が起きるかもしれない、鍵の閉め忘れた部屋にわるいやつらが入ってきてなにかするかもしれないってさ。そう考えたら徒歩ニ十分の距離にある大学に行くのに一時間以上かかった。バカバカしいよな。それでだ、一応休みがちながら授業には出れているのよ、まあ半分くらいはもう単位落としているだろうけどさ。出れない日は布団の中で一日を過ごすんだ。俺にとって唯一安心できる世界だから」
「久井くん……」
彼の世界を変えなきゃ、安心できる環境をつくらなきゃ、私はそう思った。
「ねえ、久井くん」
「なに?」
「このままじゃ安心できる世界はどんどん狭くなっていくと思うよ。いつか布団の中も安心できなくなるよ」
「じゃあどうすればいいのさ」
「まずは変えられるところを変えていこ? 部屋を片付けるとか、郵便受けを空にするとか、雨戸を開けるとかさ、それと諦めないで授業に出るとかさ。手伝うからさ」
私がそう言うと久井くんはため息をついてから困ったように微笑んだ。
そして耳の上を掻きだした。
「ねえ、西島さん」
彼は今日初めて私の名前を呼んだ。
「多分ね、こうなってからここまで俺に接してくれているのはあなただけだと思うんだ。他のやつらは皆俺から離れていった。だけどあなたは違った。俺と話してくれたし、俺の話も笑わずに聞いてくれたし、俺のために考えてくれた」
「いきなりどうしたの?」
そう言うと久井くんはいいから聞いてと笑った。
「だからかな、俺はあなたに親しみを覚えたんだ。そしてそれを俺は恋愛感情に近いものと勘違いしていると思うんだ、だとしても言わなきゃなって思ったのよ、まあ何が言いたいかっていうと、あなたの事が好きなんだと思う」
「えっ?」
長い前髪の隙間から覗く目は真っ直ぐこちらを見つめていた。
それはさっきまでの生気の感じられない目ではなかった。
「つまりは付き合って欲しいんだけど、どうかな?」
彼の言葉は部屋に溢れる物に吸い込まれていった。
まさか告白されるとは思わなかった
しかし臆病な彼のことだ、きっと勇気を振り絞ったのだろう、それを無碍にすることはできない。真剣に考えなければならないと私は思った。
そして私は覚悟を決めた。
「いいよ、でも髪は切ってね。そうすればきっと久井くんの世界が変わるから」
「わかった。そしてありがとう、これからよろしく」
「うん、よろしく」
こうして散らかった六畳間から久井くんと私の世界は始まろうとしていた。
「あ、でもどうしよう」
久井くんは少し不安そうな顔をする。
「どうしたの?」
「俺こっちで散髪できるところ知らないんだ」