第3話
文香は内心ドキドキしていた。今、まさに勤務中に、もしかしたら犯人かもしれない少年を、車の後部座席に押し込んで、逃走を幇助している。
助ける義理はないが、少年の顔を一度みた時から、どうしても忘れる事が出来ず、しかもその少年が、自分に助けを求めてきたのだ。
「あの、病院はやめろよ…マズイことがいっぱいバレちまう…今世紀最大の医学的発見かされちまう…人体実験の被験体にされちまう…」
さっきからうわ言のようにごちゃごちゃ言っている。文香としても、病院に連れていくのはマズイ。
少年の怪我は、素人目にも凄まじかった。文香は警察署にはいって2年目だが、新人の頃にダンプと軽自動車の事故を見た。軽自動車に乗っていた男性は、文字通りグチャグチャだった。 その光景を思い出すほどに、少年はグチャグチャ一歩手前だった。
どうして生きているのだろう?
そんな思いが頭に浮かぶたびに、文香は首を振って追い払った。
とりあえず、なんとかしなきゃ、と思い直して、ステアリングを握り直すのだった。
車がガタガタ揺れるたびに、死ぬ、次死ぬ、絶対死ぬ、と思った。
そうしてるうちに、車が停まり、エンジンが切れた。
谷崎文香はオレの腕を無造作に掴むと、後部座席から引っ張り出した。身体のどこからか、ブチブチと音がしたが、この女は御構い無しに引きずる。
「ちょっと!痛い痛い痛い!」
か弱い声で訴えてみても、
「もうちょっとよ!頑張って!」
とんだ乱暴者だ!!
ドアの鍵を開ける音がして、開け放たれたドアに引きずり込まれる。玄関に放置された。
谷崎文香のバタバタと走り回る音の後、またもオレは引きずられていく。
そこはリビングダイニングで、そこそこ広い。一軒家のようだ。
無駄にデカいソファの上に、ありったけのバスタオルが敷かれていて、オレはその上に放り出される。
「服、脱げる?」
「ムリ」
なぜかイライラしているような谷崎文香。
「じゃあ勝手にさせてもらうわ」
谷崎文香はどこからともなくどデカイハサミを取り出して、オレに向けたかとおもうと、あっという間に上半身の服を剥ぎ取られてしまった!
「変態か…」
なんて言ったら怒り出すと思ったが、予想は外れた。谷崎文香は、お得意の複雑な顔でオレを見下ろしていた。
「なんで意識があるの?」
「そんなにヒドい?」
「人間なら死んでるわ」
でしょうね、とは口に出さなかった。
「できる限りのことはするわ」
「いいよ。このままほっといてくれ。2、3日すればなんとかなるから」
「そんなわけないでしょ!?病院にも警察にも言わないから、わたしの言うとおりにして」
従うしかない。どっちにしろもう動けそうにないから。
「わかったわかった…」
谷崎文香はオレを仰向けにすると、背中のガラス片を抜き始めた。
「なにがあったの?」
唐突な質問だ。なんと応えたものか…
「んー、ビルの屋上で、ちょっとバトってさ…吹っ飛ばされた。そしたら運悪くビール瓶の上だったわけ」
「5階から落ちたってこと、よね?」
「そ」
「相手は誰?」
「連続殺人犯」
その瞬間、手元が狂ったのか、谷崎文香が背なきにガラス片を押し込んだ。
「うぉっ!!」
オレの苦痛の叫びは無視されて、
「どういうこと?」
質問が来た。
話しているうちに、ちょっとだけ呼吸が楽になってきた。思ったよりも酷くなかったのかも。でも右足は全然感覚がない。
「血が抜かれてる死体の犯人。アレは警察にはムリだよ。まあ、オレが動けるようになったらなんとかするから」
「ちょっと待って!意味がわからない。警察にはムリってどういう意味よ!?」
声がめちゃくちゃ怒ってる。
「んー、人間にはムリってこと。オレ、吸血鬼だから」
自慢ではないが、オレは産まれて初めて人間に正体をバラした。それほど人間社会にうまく溶け込めているというこどだ。強いて言うなら、こんなにボロボロの状態で告白したくはなかった。カッコ悪い。
「まあいいわ。頭でも打ったのね。少しでも寝たら?」
それから谷崎文香は、一言も話さなかったので、オレは言われたとおりぐっすり寝てやった。
オレがしっかり目を覚ましたのは、ここに運び込まれて、もとい、引きずり込まれて二日後の朝だった。
それまでにも何度か起きていた気がするが、谷崎文香はいないことの方が多かった。
そして今日、久々にしっかりした意識で起き上がってみると、なんとオレはパンイチで。
下着が新しいものになっていたが、あえて考えないようにした。
上半身を起こすと、まあまあ元に戻っていることがわかった。吸血鬼様様だ。
ソファから起きようと両足を下ろす。でも、右膝の調子はそんなに良くなかった。なんとか立ち上がることはできるけど、支えがないと不安だ。
まだ陽が出て間もない時刻みたいで、カーテンの隙間から弱い光が差し込んでいる。
「お腹すいた」
声に出すと同時に、腹の虫が盛大に鳴いた。
右足を引きずりながら、キッチンに向かって、冷蔵庫の中を漁る。なかなかに充実している。強いて言えば、日持ちのするものに偏っているが。
適当に食材を取り出して、オレはキッチンに立った。フンフンフーンと鼻歌を歌いながら、食材を調理していく。それほど時間をかけずに、一通り調理を終えると、ちょうどご飯が炊けた。
我ながらなかなかの出来栄えだ。
そこに、見慣れたスーツではなく、シャツにデニム姿の谷崎文香が二階から降りてきた。オレの耳には、彼女が目を覚ましてからの行動が、逐一聞こえていたので、それにあわせて料理を完成してやったのだが、人間はそういうのを好まない。プライバシーがなんたらと言って。なので黙ったまま、ナイスタイミング!という顔で出迎えてやった。
しかし谷崎文香は、リビングに入るなりギョッとした顔をして、踵を返して出て行った。
すぐに戻って来た彼女は、オレに黒い半袖のTシャツと、これまた黒いスウェットのズボンを押し付けた。
「着て!」
言われたとおりに着た。サイズはちょうどだった。
「自分用に買っておいたんだけど、アンタにあげるわ」
それは黙ってて欲しかった。
「ありがと。ちょうど朝ごはんができたんだ」
谷崎文香はものすごく怪訝な顔をした。
「なに?毒なんて入ってないよ。それとも、吸血鬼でも料理できるんだとか思った?」
オレは谷崎文香の背中を押して、ダイニングテーブルに座らせる。それから、料理をテーブルに並べてやる。肉じゃが、きんぴらゴボウ、ワカメの味噌汁、炊きたてご飯。
怪訝な顔をしていた彼女は、こんどは目を丸くしてテーブルに並ぶ料理を見ている。
「先に言っとくけど、多分かなり薄味だ。オレら吸血鬼は、嗅覚が鋭くて、強い香辛料とか苦手だから」
谷崎文香はオレの顔を凝視した。それからもう一度テーブルを見つめて、おもむろに箸をとった。
「その、迷惑をかけた。お詫びのつもりなんだが…」
「すごい、とってもおいしいよ!」
ちょっとずつ箸をつけていた谷崎文香がにっこり笑って言った。
「久しぶりの手料理でビックリしただけよ。警官になって、さらに料理する機会も減ったの。だからビックリした」
「よかった」
向かいに座って、同じ料理を食べながら、オレもにっこり笑う。
と、谷崎文香の笑顔が、途端に消えて、こんどは疑うような顔になった。
「待って、おかしいわ。あなたなにかしたんでしょう?」
何か、とはなんだ?
「どういう事?オレはなにもしてない」
「してるわ。わたしは恋なんてしない。でも、あなたの顔を見ると、そういう気分になる。催眠術か何かしてるんでしょ?」
なるほど、と思った。普通の女は、それを愛だのなんだのと勘違いして、自分で気付くことはない。
「それは…一言で言えば、オレが吸血鬼だからだ。吸血鬼は人間に好かれるようにできている」
「捕食するため?」
間髪入れずに聞いてくる。
「そうだ。でも、本来なら殺してしまうほどの血はもらわない」
彼女はいたって真面目な顔で、オレの目を見ていた。オレは、その目を反らせなかった。
「信じるわ。嘘じゃないのね」
それだけ言うと、谷崎文香は止まっていた箸を動かして、料理を平らげていった。
朝食後、食器を洗うオレの前で、谷崎文香はブラックコーヒーを飲みながら、なぜかオレの顔を凝視していた。
鼻孔を突き刺すコーヒーの匂いが不快だが、我慢できないほどじゃない。
「宵人くん、でいい?」
突然の問いに、オレは首を傾げた。
「好きなように呼んでくれ、谷崎さん」
「わかった。そろそろちゃんと聞かせて欲しいんだけど」
「死体のこと?吸血鬼のこと?」
「どっちもよ」
洗い物の手を止めずに、知っていることを話す。
チンピラに絡まれ、死体を発見し、谷崎さんに尋問され(ここで谷崎さんに思いっきり睨まれた)、次の日に仲間に会って情報収集し、その日の夕方に犯人と遭遇、ビルから派手に落下して、谷崎さんに助けられた。
「で、その、吸血鬼ってのは?」
「まんまだよ。人の生き血を啜って生きる鬼。寿命が長く、太陽に弱い。ニンニクは食べられるけど、匂いがきついもの全般無理。聖水は多分大丈夫。その他伝承は多分ウソだな。あとは…心臓に杭を刺せば死ぬらしい」
「らしい?」
怪訝な顔の谷崎さん。
「やったことないからわからんってこと。死ぬかもしれないのに、試してみるわけにいかんだろ」
谷崎さんは難しい表情をしていた。
「太陽に弱そうには見えないわ」
今、この家のカーテンは開け放たれ、朝の強烈な日光が差し込みっぱなしになっている。
「そこはホラ、日差しじゃなくて紫外線量だから」
谷崎さんがオレを睨みつけてくる。
「んー、単純に吸血鬼としての格の違いってヤツかなあ。多分オレ結構強いし」
日中に外を平気で歩ける吸血鬼は多くない。ハナやユージは出歩けるが、オレほど丈夫でもない。
「こないだの怪我だって、オレじゃなかったら死んでたと思う」
谷崎さんがまた、オレの目を凝視する。
「わかった。じゃあ、今回の連続殺人は、宵人くんたちの問題でもあるのね」
「そういうこど。人間は関わらない方がいい」
これは本心だ。多種族が関わり合っていい結果が出たことがない。
「でも、被害に遭っているのは人間よ。もう捜査ははじまってるし、今更どうしようもないわ」
「そんなことは知らん。オレはオレらの秩序のために、犯人の吸血鬼を狩るだけだ」
そこで、洗い物がなくなったので、タオルで手を拭いて谷崎さんに向き直った。
「ということで、長い間世話になった。長居するのもなんだし、そろそろ帰るわ」
そんなオレの右手を、谷崎さんがそっと掴む。まさかの展開か、とオレは谷崎さんに向き直る。
ガチャ。
は?
「勝手に出ていかないで」
谷崎さんはオレの右手首と、シンク下の開きの、半円の取ってに手錠をかけてにっこり笑った。
「なるほど。谷崎さんってそういう趣味があるんだ」
「なんとでも言いなよ。わたしは、人間を殺したやつは、人間の法律で捌きたいの」
「わかるよ。でも、手錠1つじゃ吸血鬼は止められないよ」
右腕を振ってみた。ガチャガチャと音がする。親指の関節を外せば、簡単に抜けられると思う。ムリなら取っ手を破壊するか、最悪腕を落とせばいい。すぐに固定すれば引っ付くだろう。
「それも考えたんだけど」
そう言うと、谷崎さんは黒いリモコンの様なものを取り出した。
「ごめんね。ちょっと痛いかも」
リモコン、じゃなく、スタンガンだ。
「それじゃオレにはッ!!??」
効かないよ、と、言葉は続けられなかった。想像していた、というか、経験以上の電流が、全身を駆け抜けた。
それでも結構耐えたと思う。でも、それ以上に、谷崎さんはその強烈なスタンガンをオレの首筋に容赦なく当て続けた。
「進展はありましたか?」
昼頃に警察署に向かった文香は、対策室のある部屋にはいるなり、近くにいた刑事に声をかけた。
「まったくだ。同じ手口の犯行。それ以外になにもわからない」
声をかけられた刑事は、それだけ言うと、そそくさとほかの刑事のところへ行ってしまった。
自分がこの署でなんと言われているかなんて知っている。タチの悪い厄介者だ。
犯人を検挙するためなら、多少やり過ぎるところがある。自分でもわかっている。
ここへ来る前にも、宵人を、致死量の電流が流れる改造スタンガンで昏倒させ、逃げられない様にしてきたのだから。
それでも、文香には信念がある。全てはそのためにやっていること。
非道で悪辣な犯罪者を、法の力で裁く。
それだけの為に、文香はどんなことでもする。
宵人を助け、自分の家で甲斐甲斐しく世話したのも、全ては、真実を知った上で、犯人を逮捕する為だった。
目を覚ますと、リビングに差し込む日差しが和らいでいた。夜が近いのだろう。
「なんて女だ…」
オレは改めて今の状況を確認する。シンクの下、開きに背を向けて座らされているのはまだ良い。
右腕は相変わらず手錠で塞がれている。左手は自由だ。
一番の問題は、右腕と繋がれた半円のとってに、細い紐が巻きついていることだ。この紐、多分ピアノ線だ。それが、開きのとってと、あろうことかオレの首に巻きつけてある。
動くと首に食い込むのがわかる。
吸血鬼の強度がピアノ線より強いかわからないが、試してみようという気も起きない。
もし首と胴体が離れてしまったら、元に戻れる保証はない。なにせやった事がないからだ。
そしてもう一つ、別の問題が浮上した。
吸血鬼の根本に関わる欲求が満たされない事だ。
あれだけの怪我を負い、出血も酷かった。それを補う為の欲求だ。人間と同じ食事では満たされない欲求は、それを満たす事が出来ないと自覚すればするほど、またよりはっきりとした欲求となって自覚される。
欲しいものが手に入らないほど高額だと、より欲しくなるというヤツと同じだ。
「はあ」
本当は、あのままここを出て、足りないものを補えるはずだった。
でも、谷崎さんは想像してたよりも強烈だ。
このままでは、同族の清算をするどころか、オレの気が狂いそうだ…
なんて考えていると、いつのまにか寝ていたようで、気が付いたら谷崎さんがオレを見下ろしていた。
「起こしちゃった?」
谷崎さんは口調は優しげだが、顔は笑っていなかった。むしろ冷たい表情をオレに向けている。
「どうしたの?」
返事をする元気もなかった。これならまだ、大怪我をして、ここに引き摺られて来た時の方が、精神的に元気だったと言える。
「本当にどうしたの?」
谷崎さんがしゃがみこんで、オレの顔を覗き込んだ。谷崎さんの体内を流れる血の拍動と、濃厚な香りがして、オレは顔を動かすこともできない。
「まあいいわ」
おやすみ、と言って、谷崎さんはキッチンの電気を消して、二階の自室に言ってしまった。
オレの右脚の怪我は、思うように治ってくれない。だから、左足を抱えてその上に左腕を置く。さらにその上に顎を乗せてみた。これ以上頭を下げると、首筋にピアノ線が食い込んで苦しい。
試しに結構な力を込めて、首を下に向けてみた。ピアノ線は、吸血鬼であるオレの首に容易く食い込んで、ちょっとだけ血が滴った。
床に落ちた自分の血を、左手ですくって舐めてみた。まあまあだと思う。というか、空腹のあまりそう思うだけで、本当は多分全然美味しくない。
でも、背に腹は変えられない。少しでも満たした気になるならば…
オレは自分の左腕の内側の、薄っすら血管が見える柔らかい所に、自分の牙を突き立てた。
このオレが、飢えに負けて自分の腕に噛み付く時がくるなんて…
血液が喉を通るごとに、自分の脈拍が弱くなる。多少なりとも血液を摂取したきになったので、左腕から犬歯を離す。血は止まらなかった。
飢えに負けて、本能に任せて噛み付いたせいで、どうも重要な血管を切ってしまったみたいだ。
我ながらそんなミスは初めてだ。
もちろん人を殺した事はあるが、捕食中に誤って殺してしまった事はない。
それは自分が、今まで恵まれていて、こんなに飢えた事がないからだと思う。
フン、最期に口にするのが、まさか自分の血だとは想像してなかった。
薄れる意識のなか、誰かが、死にたくない、と言った気がした。
春と言ってもまだ夜と早朝は冷える。
文香は目を覚ますと、ひと通りの身支度を整えて、一階のリビングに向かった。
コーヒーでも飲んでから署に向かうつもりだった。
ガチャっとドアを開けて、リビングに入ると、殺人現場などでよくする臭いが鼻についた。
大量の血の匂いだ。
キッチンを除く。
「宵人くん!?」
血臭の元は、吸血鬼の少年だった。
ピアノ線が食い込んだ首も、連続殺人犯と同じ跡が付いた左腕も、手錠をかけた右腕も、全て、力なくだらりと垂れ下がっている。
ピアノ線が食い込んだ首筋から流れた血も、左腕から大量に流れたであろう血も、テカテカと艶っぽく固まってしまっていた。そしててその血液量は、刑事である文香にとって明らかに致死量を超えていた。
急いで脈をとり、呼吸を確認する。どちらも無反応だ。でも、辛うじて心臓は動いていた。それも、ごく僅かだが。
「宵人くん!!わかる!?」
試しに頬をひっぱたいてみた。
反応はない。
文香は深呼吸をして、宵人とのこれまでの会話を反芻してみた。
宵人は自殺しようとしたのか?
吸血鬼は頑丈だと言っていた。
それに、宵人は吸血鬼のなかでも、飛び抜けて優秀だというニュアンスで語っていた。
そんな吸血鬼が、なぜ、自分の腕を、しかも致死量の出血をする血管をかみきるほど噛んだのか。
文香はすぐに答えに行き着いた。
キッチンから小ぶりの、果物ナイフを引き抜く。
自分の左の掌を、果物ナイフで切り裂いた。思ったよりも深く切れてしまって、溢れ出した血が腕を伝って、カッターシャツを濡らした。
「宵人くん!目を覚まして!」
文香は、宵人の顎を持ち上げて、その唇に左の掌を押し当てた。
「ッ!!」
急に酸素が肺に入ったような、突き刺す痛みで、オレは飛び起きた。
今まで呼吸を忘れていたかのように、酸欠状態だった。
「あれ?オレ死んだ?」
そういえば思い出した。オレはキッチンに囚われた哀れな王子様だ。
右手がガチャガチャと音を立てた。状況は変わらないようだ。
それから、あまりにもお腹が空いて、自分の左腕に噛み付いたんだった。
左腕を確認する。乾いた血液が、致死量を超えている事がわかった。でも、左腕の噛み跡は綺麗に消えていた。
またもや謎が浮かんだ。
なんでオレ元気になってんだ?
左腕の噛み跡だけじゃなく、全身の調子が良かった。右膝の怪我も、気にならないほどだ。
「んー、まあ、いいか」
深く考えるのをやめて、谷崎さんの帰宅を待つことにした。
昼寝してみたり、歌を歌ってみたりしながら待っていると、
ガチャリと玄関の鍵を回す音がした。それから、文香が玄関に入り、靴を脱いだ。
「谷崎さん、お帰り」
オレは、純朴な少年を演じながら、谷崎さんに声をかけた。
また冷たい目で一瞥されるだろうと思った。
でも、想像してた反応の、どれともちがった。
「宵人くん!!」
谷崎さんは、オレに駆け寄って、なんでか抱きしめた。しかも、なかなかに熱い抱擁。
今までそれなりに長く生きてきたなかで、1番ビックリした。
「な、なに?どうした?」
谷崎さんはオレに抱きついたまま、ちょっとだけ涙ぐんでいた。
「わたしが宵人くんを監禁したから、自殺しようとしたのかと思った」
そこでオレは、谷崎さんが、俺の血みどろ姿を見たのだと想像した。
「アハハ、違うよ。その、吸血鬼にとっては、プライドの問題で言いにくいんだが……ものすごくお腹が空いて…」
自分の左腕で満たそうと思いました。とは、口に出せない恥ずかしさがあった。
「言ってくれればよかったのに」
谷崎さんが怒った口調で言った。
「それはまた吸血鬼のプライドにかけて、頼む事じゃないんだ。あくまで、自分に惚れさせて、自ら血を差し出すくらいに虜にする。それから血を、少しずつ貰う。それがオレたちのやりかたなんだ」
オレは谷崎さんに睨まれながら、きっと谷崎さんがオレに血をくれたんだと思った。谷崎さんの左手から、まだひっついていない傷の匂いがしたから。
「吸血鬼って頭悪いの?」
「心外だな…」
そう答えながらも、オレは、これ以上飢えることがあるなら、殺人鬼として殺される事になっても、人間の血が欲しいと思った。
前は、少し喉が渇いたなあ、くらいのものを、満たしているに過ぎなかった。
でも今は知ってしまった。
血が飲めないことが、吸血鬼にとってどれだけ恐怖であるかということに。
その飢えを満たすためなら、自分が自分でなくなってもいいとさえ思ってしまうことに。
「次、辛くなる前に言ってね」
谷崎さんはそう言って立ち上がった。
「うん…」
オレは多分、前のオレには戻れない。