ああ、時に女は何者にも勝る事がある
朝、かどうかは判らない。二人はいつ眠りについたのかすら覚えていない。まどろみと呼ぶ、そんな朝。
二人がいるこの部屋は、ホテルの一室のような造りになっている。魔神の趣味だろうか、窓ひとつない部屋ではある。だが室内は程よく明るい。
天井には豪華なシャンデリア、壁面には魔法の光を放つランプが灯され、立派な鏡を据えた鏡台もある。隣りの部屋はバスルームになっており、トイレもある。
「私、シャワー浴びてきますね」
カスミは恥ずかしそうにバスルームに消え、バンドーは半身を起こしてぼんやりとしている。
交互にシャワーを浴びた後、二人は出立の準備をする。まあ、別に何処へ行くという訳でもないのだが。ただ、それは儀礼的なものであった。
「バンドーさん、しっかりしてくださいね? 」
その言葉はバンドーの脳内にまで響く。彼は両手で頬を叩き、ベッドの傍らに置いていた皮装備に手を伸ばす。装着した後に、左肘にはいつもの双頭蛇、そしてバックパックも腰に巻く。
二人は立ち上がり、手をつなぐと一つしかない扉へと足を運ぶ。
扉をくぐったその先に、当たり前のようにソファに座った魔神がいた。二人の背後で扉は閉まると消える。
魔神の傍らには、メイド服姿のラケシスも両手を前に沿えて控えている。
「お早う、昨夜は楽しめたかね? バンドー、君には過ぎた夜だったろう。その思い出を胸に地上に帰るといい」
二人は顔を見合わせ、頷く。最初に言葉を紡いだのはカスミだった。
「ヴァルケラスス様?! 」
彼女の口元には満足そうな笑みが浮かんでいる。
「いろいろお世話になりました。さようなら! 」
その言葉を合図に、バンドーはカスミを分解消去した。笑顔のまま、カスミは塵となって消える。
『バンドーは魔力組成のスキルを手に入れた』
バンドーの表情は般若である。目は吊り上がり、しかし口元にはアルカイックスマイルをたたえている。心の中と、顔に出す表情が相反する時、人はこのような表情になる、……なる。
「魔神ヴァルケラスス、お前に、カスミは、使わせない! 」
カスミ、俺はうまく笑えているだろうか。
魔神は立ち上がってはいたが、反応は無かった、すぐには。
なんだ、この間は。
「あっ、あ…… 」
魔神が何か言ったようにみえた。
彼の脳裏を今、占めていたのはカスミの記憶だった。泣き叫び許しを乞う少女は、しかし今はもういない。
馬鹿な、私が人間の女ひとりの喪失に動揺するなど、有り得ん。
馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な
「……カスミ、一体お前は私に、何をしたー?! ……いや違う! 」
魔神の視線の先にはバンドーがいる。彼は悪そうな笑みをたたえていた。そこで魔神は更に混乱する。そもそも自分が望んでいた事は、バンドーが愛する者を殺る事であったはず。なのに何だ、この感覚は?
「お父様? 」
心配そうに近寄るラケシスを制し、魔神は両腕を上げ、その腕を真っ白に光り輝かせる。魔力組成によって現出したのは細長い白銀のランスだった。彼は弓のように上半身を反りかえらせる。
「……バンドー、お前だ! 貴様は一体何をした?! 」
「お父様、駄目です?! 」
ラケシスの悲鳴のような叫び。だが、それは魔神の行動を止めるには至らない。魔神の手から白銀のランスは放たれ、それはまっしぐらにバンドーに向かう。
これは、賭けだ。
紛う事なく、白銀色のランスはバンドーの腹に深々と突き刺さる。内臓が破壊され、ランスの先は貫通してバンドーの身体の背後に出た。
「ぐっ!! 」
バンドーは、敢えて受けたのだ。胸の辺りを血がのぼってくるのが判る。
「ば、馬鹿なぁ! 貴様、何故、魔力分解で受けん?! 」
やっておいて今更な魔神の台詞を聞きながら、バンドーは必死に体内の組成に務めていた。
(へへ、手に入れたばかりのスキルを、そんなにうまく使えるかよ)
なかば自嘲である。卒業スキル、魔力組成さえあれば何とかなるように思えるが、魔力分解の時でさえ、把握するために数日かかったのだ。
その時、突然、鐘の音が鳴った。
最初は小さな鐘の音が低く、そして次第に大きく響き、最後には迷宮デスパレス全体を揺らすかのような重厚な鐘の音が、辺り全体に響き渡っている。
「貴様、まさか?! 」
魔神は言うなり頭を抱えた。その魔神の周囲に、やおら六つの光の柱が立つ。柱の先は天井にまで達しており、太さは両腕を広げる程、大きい。六柱の光の柱は激しく光り輝くと魔神を真ん中に取り囲む。
やがて声が聞こえる。
『お前は今、重大な契約違反を犯した』
『守るべき卒業スキル持ちを傷つけた』
『契約違反は罰されねばならぬ』
『最近は仕事に励み、75階層にまで辿り着いたものを不甲斐ない』
言葉が聞こえる度に魔神は身体を反らした。言葉が魔神を鞭打っているのだ。ステージが違うと発する言葉にすらダメージを与える力が込められているものなのか。その光の柱の存在は、どうやら魔神より上位の者であるらしかった。
『罰するか』
『やむを得ぬ』
『同意する』
『さてどうする? 』
六つの光の柱は、ざわざわと相談を続けていた。言葉は理解できない。
『100階層追加! 』
『100階層追加! 』
『100階層追加! 』
『100階層追加! 』
『100階層追加! 』
『100階層追加! 』
『決したな。お前には100階層追加の罰を与える、反論は許さぬ! 』
唐突に魔神の立つ床下が闇に覆われると、魔神を飲み込み突き落とす。魔神の身体にしがみついて震えていたラケシスもろとも、二人はすさまじい加速の中、深淵へと消えていく。
それを見届けると、六つ光の柱は現れた時と同じように、唐突に消えた。
「はははは…… 」
バンドーは力なく笑う。喉の奥に違和感が広がり、やがてそれは鉄の味になって口腔に広がる。
「ぶふっ、げほっ…… はぁ、はぁ」
血を吐き捨てながら、彼は必死に集中する。集中だ、集中……。
「昨日、あいつがやってたようにすれば…… 」
銀色の細長いランスは、まだ腹に刺さっていた。分解してもいいのだが、これを無くすと今以上にひどい出血になる気がする。
(押し出す感じだ。身体を創るなんて考えるな)
まずは何でもいい、止血になるものを腹にもってくる。そしてランスを押し出す。
「ぐっ?! 」
音を立てて、ランスが床に落ちた。受けた傷の穴には取りあえず何か止血になるようなものをイメージして組成して押し込んでいる。当然、感覚はまだない。
徐々に、血を通わせればいい。身体ではないものが身体の中にある違和感を消し去る。身体の元の状態をイメージして、それに近付けるように。
「こんなんで、いけるのかよ? 」
バンドーの息が荒い。床には血だまりが出来ている。血だ、血が足りない。体内の血も増やせるのだろうか? 魔力組成スキルを得たばかりで、ハードルが高過ぎる連続だ。
「血…… 」
全身を血が通っているイメージ、身体中を流れる血流をイメージする。
「よ……し」
何とか回復してきたような気がする。ここまで、実はわずか数分の出来事なのだが、バンドーにとっての体感時間は、その数倍くらいに感じられている。
大きく息を吐きだす。いける、充分ではないが、ひとつの山は越えたように感じられる。そして、次にする事は決まっていた。
「……カスミ」
バンドーは昨夜の会話を思い出す。カスミは昨日、自分の事をよくしゃべった。喋りすぎるくらいに。
「あの怖い人は、私に何度も何度も痛い事をしたんですよ? もう嫌なんです。地上に戻れないのなら、バンドーさんの手で私を分解してもらえませんか? ……それでね、それで私を、もう一度創って欲しいんです」
バンドーは息を飲む。
「馬鹿な事を言うな! 今あるお前が、そうなっても同じお前と、どうして言える? 」
「……だから、バンドーさんに、全部知って欲しいんです。私の事を……それで、私を、もう一度創ってください! 」
そんな事が一体できるのか、許されるのか。例え出来たとしても、それは自己満足なのではないか。
「大丈夫です、バンドーさんが創ってくれるのなら、必ず私の魂は宿ります。だって、私一回、死んでるんですよ? 」
それはそうかもしれないが、そう言いかけて、自分の方をじっと見つめるカスミの真剣な瞳に遭遇して、バンドーは決めた。
ああ、時に女は何者にも勝る事がある。
「へへ、へへへへ…… 」
思い出し笑いである。
イメージだ、昨日のカスミをイメージする。あいつの笑顔は、どんなだったか。あいつの身体は、どうだったか。あいつはこれくらいの大きさで……
右腕を上方に持ってきて、左腕を左横にそえるように。そして魔力組成スキルを発動させ、円を描くように光の粒を発生させる。
この腕の中に、あいつがいるつもりで、イメージして。魔力を込めていく。裸じゃ、まずい。魔法服を着せようか? あいつの魔法服は黒だったか。
光の粒の向こうに、あいつがいる気がする。いけない、魔力を使い過ぎているのか? 途中でやめる訳にはいけない。 駄目だ、頑張れ俺。
どれだけの時間が過ぎ、どれだけの魔力を込めただろうか。視野が狭くなり、頭がくらくらする。
「くそ……できたか? 」
形になったカスミは、そのまま彼の腕の中に倒れ込んでくる。
「痛ぇ‥‥痛…… 」
傷はまだ治りきってないのだ。体力も気力も魔力も消耗している。
意識が無いのか? まさか人形じゃないよな? そうだ、身体を創っただけでは駄目なのかもしれない。血を通わせ、呼吸をさせないと駄目なのか?
「んん……バンドーさん…… 」
カスミの頭は今、バンドーの耳元にある。確かに聞いた、囁くような声を。
『バンドーは魔力融合のスキルを手に入れた』
今更なんだ、それは。そうか、多分カスミを創ったせいだろう。スキルが手に入ったという事はつまり成功した証ではないか?
その時、突然、鐘の音が鳴った。