さようなら
魔力が満ち溢れている海の奥底に沈んでいた彼の身体は、やがてゆっくりと浮上し始める。ゆらゆらと、たゆとうているのは彼ばかりではなく、その周囲全部を埋める魔力の海もまた、ゆっくりとたゆとうている。
さながら、子宮の中の羊水に浮かぶ赤子のように。
やがて覚醒をうながす大波が来て、バンドーの意識は覚醒した。
(……ここは? )
薄暗い室内ではあるが、障子が外からの光を受けて、ぼんやりとしている。恐らく、そこを開けば外であろう。バンドーは半身を起こすと、寝かしつけられていた布団から這い出て障子を開ける。
(……うっ?! )
外は薄く雪化粧であった。少し先にある森の木々が時折りその枝を揺らし、隙間から洩れる光が雪にわずかに反射する。周囲を見渡し、見覚えのある景色から、自分が今何処にいるのかを確認した。
「離れか……? 」
修行場である『愛染堂』や『御影堂』、『孔雀堂』のうち、ここは恐らく『御影堂』の離れであった。主に怪我や病気の療養に使われていた筈。
そうだ、不完全と言われた魔力分解が発現して、今に至ったのだった。バンドーは手に嵌めた指輪を確認し、躊躇いながらもそれを取り去った。
「これは? ここは? 」
最初に感じられたのは周囲全ての存在。頭のてっぺんから指の先、足の爪先に至るまで、周囲の何かを知覚している。
この世界は、魔力でできている。人が扱える魔力など、その体内にあるものだけだったのだ。
バンドーの体内には膨大な魔力があるし、魔力分解を調整すれば、その量を操る事も出来た。
不完全だった頃の彼は、体内で常に魔力分解が発動し続け、保持している筈の魔力を分解していた。通常、魔力は使用すればするほど、その保有量が増えていく。すなわち、彼は不完全なままのスキルを保持していた事で、およそ10年の間、魔力の修行を続けていたに等しい。それが、彼に膨大な魔力保有量をもたらしていた。
「はは、ははははっ! 」
「何を笑っちょる」
不意に知った声が聞こえ、エナが姿を現す。
「お師、いたのかよ」
「ふん、その様子だと、指輪を渡した甲斐があったようじゃの」
そうだ、確かに指輪に助けられた。イルミダの時も、今も。
「お師、俺の魔力分解がこうなるって知ってたのかよ」
「まあの」
エナは昔、魔神ヴァルケラススに会った事がある。その卒業スキルの凄まじさも苦い思い出と共に知っている。
「バンドーよ、ケインの名前を捨てたそうじゃの」
カササギから聞いたのだろう。そう言えば、カササギの姿が見えない。どこで何をしているのだろうか。
「お主にゼノ式の極意を伝えるぞい。いつか卒業スキル持ちがゼノ式から出た時に、言おうと思っておった」
一体、どんな必殺技かと一瞬思ったバンドーであったが、どうやら違うようで、エナが語り始めたのはゼノ式の本質についてであった。
「わしが魔神に会って、ゼノ式を始めた事は知っておろう? 魔力に気の力を用いてさらに練り上げ、威力を増す技、すなわちゼノ式、何故これを創りあげたか判るか? 」
ゼノ式の気とは、特殊な呼吸法で外気を取り込んで練る力。少なくとも、バンドーはそう習っていた。以前の彼なら。だが、今ならエナが何を伝えたいか判る。
「お師匠、判ったよ。今まで気と魔力は全然違うものだって思ってたんだけどさ、実は気も魔力も同じものなんだな」
「その通りじゃ」
エナは魔神と出会い、その言葉からイルミタニアの全てが魔力で出来ていると知った。だが普通の人間は身体の内にある魔力しか使う事が出来ない。もしも同じ魔力であるなら、外部からも魔力を取り込むことができないものかと考えたのだ。そして生まれたのがゼノ式であった。内気とは質の違う外気を取り込んで力に変える方法こそが、ゼノ式の呼吸法であり、気の力に相違ない。
「今後、お主がその力をどうするのか、はたまた次なる卒業スキルを求めるのかは知らぬが、ゼノ式とは、そういうものだという事を覚えておくがよい」
確かに、巨大な力である。イルミタニアに存在する、およそ全てのものを分解できる力。だが、不思議と怖くはない。それを使うのは意志である。何と言えばよいか、人は何かを壊す事が出来ても壊さない、それを決めて判断する限りは。
少なくとも、バンドーはそう思っている。
「お師さん、いやエナ様。ありがとう、俺行くよ」
言葉を交わしながら、バンドーは身体に気を巡らし調子を確かめてもいた。少しふらつくが、問題ないレベルだ。
「お主には、借りもあるしの」
エナが言いたいのは、恐らく3年前の事だろう。あの時、王国と公国が戦端を開き、『月下桃華の峰』にも王国から招集が来た。もとよりゼノ式は王国に認定された武闘流派である。その紋章を国王からもらってもいた。エナを総帥とする一団はお山を離れ、戦場に赴く事になる。ちなみにバンドーはお山に残る事になったのだが。その隙をついて神殿騎士団にお山を攻められ、挙句お山を二分する戦いになってしまい、留守を預かっていたティアが人質になるという事件に発展してしまったのだが、詳しくは省く。
「取りあえず、カササギを探すか」
「バンドーよ、『孔雀堂』に寄っていくがよい」
そこにカササギがいるのだろうか? 聞こうと思って振り向くと、エナがいない。……いない?
(まじか? エナ様も空間転移使えたのか? )
いないものは仕方が無い。バンドーはおとなしく『孔雀堂』に向かう事にする。そこは3つある修行場の中で最も広く、確か最近は引き取った子供たちが集団で寝泊まりしているとか聞いた事がある。
ここには、修行者以外に戦災で夫を亡くした未亡人も多くかくまわれている。エナは女癖が悪いなどと、レイに揶揄される所以であるが、実際は違う。戦災孤児を引き取って、その面倒を見させているのだ。大勢のお母さんが大勢の子供を育てるこの試みには王国も支援金を出していた。
巨大な六角形の建物である『孔雀堂』、その屋根にはもちろん、青銅の孔雀が鎮座している。堂の入り口で警戒に当たる修行者に一礼すると、バンドーは中に入る。
カササギがいた。何やら、子供の世話をしているようだ。そして、そこにはマユミもいた。
「あっ、バンドーお兄様! もう大丈夫なのですか? 」
カササギが嬉しそうに駆け寄ってくる。マユミがバンドーに気付き、声を掛ける。
「どなたですか? 」
「?! 」
口元に手を当てて、あれ? という風にしているのはマユミの方である。
子供の泣き声がする。
「あらあらあらあら……」
マユミが慌てて、泣いている子供の所に行く。その後を、他の子たちも追っている。
「マユミ様ぁ、あたしもおぶって~ 」
「どうしたの~? 泣いては駄目ですよ~ ほら、狐さんが来ますよ~? 」
何故だろう、この光景を何処かで見た気がする……。何故だろう
「お兄様? 」
カササギはマユミがおかしい事に気付いていないのか?
「お兄様、私、着替えてきますね? 」
何やら、割烹着のようなものを着ていたカササギは、そういうとお堂の大広間から出て行く。
「……母上、さようなら」
大勢の子供たちに囲まれて、うれしそうにその相手をするマユミに聞こえないようにそう言うと、バンドーは『孔雀堂』を後にする。
「あれっ、お兄様。泣いているのですか? 何処か、身体が痛いのですか? 」
着替えてきたカササギに言われるまで気付かなかった。
やがてゲートの青白い円環が立ち、二人を飲み込むと静かに消える。