バンドーとして
昼下がり、そこは雪が降っていた。緩やかに移り変わる季節をもつイルミタニアでは、雪はめずらしい。
凛とそびえ立つ五重塔の屋根にも薄っすらと雪が降り積もっている。風は無い。
その麓に白い陽炎が立ち、それはやがて細長く青白い円環へと移行する。第6位階魔法ゲートの中から出てきたのは黒髪の少年と少女。
「寒いな」
「バンドーお兄様、雪です、ほらっ……」
二人は思わず頭上を見上げ、そしてぐるりと見まわした。五重塔の、その先から雪がゆっくりと舞い降りてくる、その様子は、二人からしばし言葉を奪うのに充分だった。
「行こう、カササギ」
「はい、バンドーお兄様」
お気づきだろうか、カササギはもう、バンドーの事をケインとは呼ばない。酒場で二人が話したひとつに、バンドーのある決意があった。
「カササギ、俺はケインの名を捨てようと思うんだ」
それは優柔不断な彼らしくない決意だった。今まで、此処に来てからバンドーはケイン・ジューダス・コモロであろうとした。まあ、やや積極的ではなかったかもしれないが。
ただ、6歳の時から母親のマユミの前ではなるべくケインであろうとしたし、ティアやカササギやアンも彼の事をケインと呼んでいた。
けれど、彼の人格そのものは前世にいた頃と変わらずバンドーであったし、デスパレスに来た頃からは積極的にバンドーの名を使ってきた。まあ、使う必要に駆られたという事もあるのだが。
けれど、
「俺はもう、自分を偽る必要が無くなったと思ってるんだ。俺はバンドーだし、ケインは記憶の奥底には少し、残っているけど」
ケインとして、何かしなければならないとも思っていない。ただひとつ、どうしても越えなければいけない山があった。ケインの母親であるマユミの存在である。彼女とは高校時代に付き合った事もあるのだが、ガウガメラとマユミの間にできた子供、という立場から今までケインとして振舞ってきた。
けれど……
正直、心が重い。マユミは昔、自分を振った女であり、ケインの母親でもあり。そんな気持ちを滔々とカササギに吐き出してしまった。情けない、兄である。
「お兄様、ご自身の事ですからカササギはそれに対してとやかく言いませんし、お兄様の事を嫌いになったりはしませんよ? ただ、自分の思う通りにすればよいと思います。バンドーお兄様」
決心がついた。カササギは後に付いてくると言う。本当は会いたくない。
けれど一方で、どうしてもマユミに会って本音を話さなければいけないという自分もいる。
本堂に上がり、人気の少ない廊下を二人は歩く。マユミは奥の院のさらに奥にいる筈で、バンドーは小走りに、カササギはその後を付いてくる。やがて、バンドーの足の運びはゆっくりとなり、目的の木戸の前で止まる。
一体何を話せばいいんだ?
ここまで来て今更である。しかし彼は勢いよく木戸を開け放つと中に入った。
燈明が放つ薄暗い光の奥に母上が、いやマユミがいた。一見、昔と何も変わっていない。見た目は相変わらずで、この人には歳をとるという概念がないのだろうか、そう思わずにはいられないのだが、バンドーは、そこはあえて無視をする事に決めていた。
「マユミ? 」
彼女の側まで寄って座り、話しかけるが返事は無い。代わりにゆっくりとバンドーの方を振り返ると、じっと彼の瞳を見つめている。
「マユミ、俺は阪東英一なんだ。ケインは、もういない」
ストレートにそう言い放ったバンドーの心の奥底で、何かが息づく。
背後で、カササギが静かに木戸を閉める。
「俺は、……俺はマユミの息子のケインじゃなく、高校時代の同級生のバンドーなんだ。今まではっきり言わなかったけど」
そう言い放つ度に、彼の記憶の奥底にあったケインの記憶は、その自我を失いバンドーに同化しようとしていた。バンドーにとって、ケインは他人でおよそ俯瞰的に見ていたのだが、それももう薄れて昨夜見た夢のように消え去ろうとしている。
「今まで、嘘をついていた。俺はケインじゃないんだ! 」
頭痛がする。バンドーのシルエットがぶれる。カササギは、少し離れた背後で黙って成り行きを見ている。
「それだけを言いに、ここに来たんだ。今まで黙ってて、すまなかった! 」
そう言うなり、バンドーはマユミの前で深く頭を下げる。
誰も何も言わない、一瞬の静寂を乗り越え、突如として笑い声が響き渡った。バンドーが頭を上げてマユミを見ると、彼女は笑いながら泣いていた。
おかしいのか、悲しいのかそれは判らないが、彼女は笑い、泣き続ける。そして……、
「バンドー、私もあなたに話さなければならない事があるの」
真顔のマユミは、いつぶりだろうか。正気と狂気が混じり合って、嘘と真実が絶妙にバランスを取り合いながら翻弄された日々は、あれは演技だったのだろうか?
いや違う、バンドーの感じるところでは全部、あれらも今も本気に感じられた。何故?
「あなたと別れて東京に出た私が、何故死んだか判るかしら? 」
マユミは何を言おうとしているのだろう。
『マユミ? 東京に行ってすぐ死んじゃったらしいよ? 』
それは高校を卒業してから初めて参加した同窓会で聞いた話。
その時、バンドーは、何故か悲しくはなかった。何故なら、彼の中で何も変わらなかったからだ。別れてしまえば、残るのは心の中の思いだけで、離れてしまえば相手が生きていようが死んでいようが、マユミの存在は同じ。ふと、そんな事を考えてしまったのを憶えている。
「あたしね、妊娠してたの。その時まで気付かなかったわ。判る? 」
バンドーの鼓動の音が大きくなる。
「それで、その子と一緒にここに来たの」
何かが弾ける。ケインの記憶と共に。
「判る? つまりケインはあなたの子だったのよ。あたしがどうして狂ったようにあなたを罵倒したか、信じたくなかったの。これ以上、歪みたくなかったの! ケインがバンドーだと信じたくなかった、否定しようとして見せた、当たり前でしょう?! でも、あなたから言ってくれて、ほっとしたわ」
「あっ、あっ?! 」
カササギの肩が揺れる。深くまで事情を知らない彼女ではあったが、何となく話の内容は判る。そしてそれ以上に、気になる事が目の前で起こりつつあった。バンドーの様子がおかしい。
バンドーの身体が一瞬、銀白色に明滅し、またシルエットがぶれた。
(ち、……そういう事かよ、あ、ああああああ? )
バンドーの体内にありながら不完全な状態だった『魔力分解』スキルがようやく発現しようとしている。
「……まずい、カササギ、マユミ、離れてろ…… 」
解放されたがっているスキルを無理矢理抑えようとするのだが、意識が飛びそうになる。
(ぐっ、コントロールだ。イルミダが出来たように……あ)
全身に力を込めていたバンドーだったが、不意に右手が膝ポケットを探る。
(ぐぅっ! あああ、くそっ! 指輪の存在も忘れてたぜ…… )
ようやく震える手で指輪を嵌めると、脳内でスキルをカットする。
「バンドーお兄様? 私、誰かを呼んできます! 」
カササギの足音が遠のく。その場でバンドーは倒れ伏し、意識を失った。
正直、この話は書くべきか悩んだ。何故なら、これ以後のストーリーが大きく変わるから。
悩んで、結局このルートを選んでしまいました。
一体何を言ってるんだと思われるかもしれませんが、この話を書くか書かないかで、この後の展開が大きく変わるんです。