【最北の魔女】
曰く北端には魔女が住んでいる、という。
氷と雪に閉ざされた極寒の地に至る事、は死を覚悟すると同意義とされていた。
それでも訪れようとする者が後を絶たないのは、この世界のありとあらゆる叡智をもっており、訪れた者の願いを必ず叶えてくれると言われていたからだ。
『我はこの最北に住まう魔女。ようこそ旅人よ、汝の来訪を歓迎しよう。そして汝が問うどんな言葉にも答えを授けよう。さあ語れ、我に尋ねよ。その対価は------』
伝えられる魔女の逸話は北の地よりも遠くはなれた南の端まで届いていた。
今この時、魔女が住まうのは北の端と西の果てのふたつしかない。魔女は世界にふわりと現れるのだという。それこを幻のように、蜃気楼かとおもうほどに突然、現れるのだと伝えられていた。
その話を彼は誰から聞いたのか。
覚えていないが、魔女の存在だけは記憶にしっかりと留めていた。
だからいくつもの町を越えた。
幾人もの人とすれ違った。
数え切れいほどの足跡を見た。
いくつものかつて、の痕を見た。
時折、親切な誰かが彼に手を差し伸べる。
歩き続けた足は傷つき血が滲んでいた。そして誰もが彼に問う。
どこに行くの? 捨てられたの? 違う? 大変な旅をしているのね? でもね、きっともうだめだとおもうの。あなたさえよければここにいてくれないかしら?
彼は差し伸べられる優しい手をそっと斥けた。
そして歩きだす。
女は去った彼を追いかけはしなかった。
彼は往く。
旅は彼を強くした。食べ物を見つけるのも上手くなったし、飲み水も川から直接飲むのも慣れたものだ。
ある日、道端で倒れてしまった彼の姿を見つけた夫人が哀れにおもったか、彼を屋敷に連れて帰った。医者に見せれば体の至る場所が傷つき打つ手が無いという。彼の持つ回復力だけが頼りだと、気休め程度の痛み止めを置いて屋敷を辞した。夫人は彼の状況を鑑み、手足を縛って柔らかで清潔なベッドの上に彼を拘束した。
夫人はとある町の有力者の妻であった。
夫に若いつばめを囲うのかと笑われながら、彼の世話をし続けた。
彼の目覚めに夫人は大層喜び、何度も彼に口付ける。
娘ばかりを産み、息子に恵まれなかった夫人は彼のことを相当気に入ったらしい。ここにとどまって夫人とその夫である名士の息子にならないかと誘われたが、彼は首を振って辞退した。
彼にはこの歩みを止められない理由があったのだ。
目が覚めた翌日、彼はそっと屋敷を抜け出した。夫人には恩ができた。その夫である人もとてもいい人だった。
しかし彼はここにとどまれない。どうしても叶えたい願いがあったからだ。
北に住まう魔女の元へ。
耳の奥に木霊するのはいくつもの声だ。
…助けて。…たすけて。…たす、け…て…
故郷ではたくさんの人が、助けを求めていた。
しかし助けて、と訴えながら多くの人たちがもの言わぬものになっていった。
彼にはなにも出来ない。
彼を抱きしめてくれた温かな手の主も、どうしようもないのだと泣いていた。
「お前だけだったらこの町から逃げられる。お行き。遠くへ。いい、必ず生き延びて。必ずよ」
彼は駆けた。戻ろうとすると、いつも優しく彼を包んでくれていた手が振り下ろされた。
だから彼は走った。
どこかへいくためではない。戻ってくるために走った。
とても寒い夜に『おかあさんには内緒だよ』そうひそひそと笑いながら同じベッドに入り聞いた言葉通りに走る。
北はあの星がある方にあるの。夜空の形が変わってもあの星だけは動かないんだって。
おとぎ話だと言っていた、何でも願いを叶えてくれる魔女の元へ。
なんという題名であったのかは覚えていない。
けれど優しい声でいつも語ってくれていた。
これはとても大切な話なの、と真剣な表情で語っていたのだ。
だから一目散に目指した。
泥の中に突っ伏した事もある。川の流れに顔を突っ込み水を飲んで再び走った。
いくつもの町の路を抜けた。
城壁がある場所は塀に沿って、空の揺らめきに向かった。
大勢の人々とすれ違った。誰もが暗い顔をしていた。聞けば他の町も彼の居た町と同じような状態になっているのだという。
「どこに行っても同じだよ。ここら辺はまだましさ」
「北? そこに何があるっていうんだい。大切があるのかい。そうかい、そうなのかい。頑張ってお行き。そろそろ白いものが降ってくるからね、気をつけるんだよ」
白いもの。
もうそんな季節なのかと空を見上げる。
礼を伝え、歩き出す。
魔女がいると言う場所まで、もう少しだと思ったからだ。
北は寒いと聞いていた。
とけない白がたくさんあるとも聞いていた。
「助けを、必ず呼んで来るから。待ってて。必ず、帰るから」
そしてもう一度、抱きしめてほしい。よくやったと褒めてもらえるのならば。
薪がはぜる音がした。香木を燃やしているのだろう。良いにおいがした。
気がついたのは温かな火の前だった。
暮らしていた場所にも一年に一度、冬がやってきた。
そして空から白が舞いおり、大地を同じ色に染める。
再び薪が弾ける。揺らめく紅の炎が木の間から上がっていた。
伸ばした手は黒かった。
冷たい土を掻いた爪から流れた血もこびり付いたままだ。
「ああ、起きたのですね」
声にゆっくりと体を起こせば、そこには白い陶器を片手ににこやかに笑んでいる人がいた。
長いローブは深い緑の色で、どことなく森の匂いがする。
「姿を戻し治癒をかけておいたのですけれど」
さすがです。浸透も早かったみたいですねぇ。
「ああ、そのままで」
肢体に力を入れ起きあがろうとした彼に、その人は制止をかけた。
柔らかな絨毯の上に抑えつけられ、小さく痛みの声を上げる。
「言う事を聞かないからですよ」
その人物はゆっくりと立ち上がり平らな皿に白の液体を入れ、彼の目の前に置いた。
「飲めますか」
彼は目を細めるその人物をじ、と見つめ、そっと顔を近づける。
そうだ、数日前から食べ物も口にしていなかった。喉もずっと渇いていたのだ。
「ゆっくり、ゆっくりでいいのですよ」
黒く汚れ変色した体に、その人はそっと触れた。
そう言えばここはどこだろう。随分と優しい匂いがしていた。
魔女が住むと言う北の端には来れたのだろうか。
彼は周囲を見回す。
動けば先ほどみたいに両手で抑えつけられてしまうだろう。
だから首だけを動かして、見た。
こじんまりとした部屋だった。
四角ではない。円を描いていた。
置かれている物は少ない方だろう。彼が暮らしていた家にはいろいろなものが置かれていた。世話になった家もそうだった、
あの家と比べれば、一目瞭然だ。テーブルの上はきちんと片付けられており彼がテーブルの足にぶつかっても、上からなにも降ってこないだろう。
「動いちゃだめですよ、はい、おかわりです。あなた、とても賢いから私の言葉、わかりますよね」
彼は嬉しくて振り方を忘れていた尻尾をぎこちなく左右に振った。あっという間に飲み干してしまったミルクをもって来てくれたのだ。
「鹿肉はどこを探しても無かったのですよ。けれどラミリアちゃんから譲ってもらったささみ肉が残っていました。今から作るので少し待っていてくださいね」
水を入れた鍋を火の上にかけ、かちこちに固まっていたささみ肉というものを豪快に鍋に入れてゆく。
くつくつと水が湯立ちそのうちにいいにおいが漂ってきた。懐かしい匂いだ。
夕方ちかくなると優しいあの子よりも大きな人が鍋に色々なものを入れていいにおいのスープを作る。それをあの子はいつも、まだかな、今日もおいしそうだな、と歌うように何度も繰り返しながら待っていた。
北に着いたのだろうか。
それともまだなのだろうか。まだであるならば急がねばならない。
「大丈夫ですよ。あなたはちゃんとたどり着くことができました。ここが終着点です」
置かれた皿にはほぐして冷ましたささみ肉がこんもりと盛られている。
「ずいぶん久方ぶりの来訪者なのです。あまりにも暇なので、そろそろお出かけしようと思っていたのです。良かった、お出かけしていなくて」
ゆっくりと。
焦らずに食べるように言われたのだが、彼は目の前の食べ物にむしゃぶりついた。
安心したら急に腹が減ったのを自覚したのだ。空腹が思考よりも優先された。
彼がむせたときのために水を用意し、えずけば首よりほんの下をぽんぽんと叩いてやる。
その行動はとても慣れていた。かつて彼と同じものと暮らしていたことがわかる仕草だった。
「よくここまで頑張りましたねぇ。ちょっとだけわくわくしてます。どれくらいほど前だったのか覚えてはいないのですけれど。真っ直ぐな想いと願いのために訪れるものがあまりにも少ないので、限定の結界を張ったのですよ」
本当の願いを叶えるために命を賭してやってくるものだけを通す歪みをつくった。
ようこそ。ここが北の端と言われている、魔女の棲家なのです。
「教えてください。あなたの望むものは知識ですか、それとも解決できる力ですか」
魔女は彼の記憶を辿ってゆく。
幸せだったのだろう。
彼女さえいてくれたら、彼は幸せだった。
彼女の泣きそうな笑顔を見て、彼は決めた。
『北に行く。ボクだけが行けるなら、ボクが行くよ。だから待ってて。きっと帰ってくるから』
そうしたら、もう一度。
いっぱいボクと遊んでね。ボクに触れてね。ぎゅーって抱きしめてね。
肌に浮いた赤いものがなくなったら、いつも通り遊べるでしょ。ねえ、だからボク、いってきます。
彼の願いは戦いの終わりであった。
人間は生きるために日々戦っている。人間同士で、獣や虫と、そして病とも。
武器を手に取り殺しあうだけが戦いではない。お金のやり取りやものの取引でも、己がどれだけ有利に立てるか日々戦っている。
魔女が手のひらを広げ、横に振った。
そうすれば部屋にあった多くに白と黒の砂嵐が起り、風景ががらりと変わった。
彼は鼻をひくひくと動かし、風と大地の匂いをかいだ。
あちこちで確かめる。間違いない、ここは彼が暮らしていた町だ!
彼は走り出す。
すでに人間は息絶えている。緑が家のあちこちを侵していた。緑に埋もれるまでそう時間はかからない。
修復する者たちも居なかったのだろう。雨や風にさらされ、多くの家屋が朽ちていた。
そこには町があったであろう跡だけが残されている。
随分と日数が経っているのが解った。
それはそうだろう。
一匹の犬がこの町を始まりとし、魔女が住まう北の地まで至るまでどれほどの日が必要なのか。
魔女はゆっくりと歩き出す。そして探した。彼と縁を結んだ、彼が愛しくおもう魂を。
それは、あった。彼が見つけたのだ。
四つの足を懸命に動かし、動かないひとつの足を引きずりながら。
彼は覚えていた。どんなに町の形が変わろうとも、たとえ人が居なくなっても、かつて彼が彼の家族と共に暮らしていた家に間違いなくたどり着いた。
しかし彼は、彼が大好きな手に触れることはできない。
それはもう、彼女では無かったのだ。かつて彼女であったものだ。
彼は尻尾を勢いよく振った。
彼と同じく泥で汚れてはいるが、家屋の傷みがとてもゆっくり進んだのだろう。彼が大好きな女の子がいつも座っていたお気に入りの木の椅子と人形が原型を留めて有り続けていた。埃を被って黒く汚れているが、他のどれよりも形をとどめていた。
この町を襲ったのは疫病だった。
けれどもそのすぐ後に、隣の国と戦争が起こった。
この国でしか採れない疫病の特効薬をこの国の中枢がひとりじめし、民にも分け与えず国同士の交渉の場において優位に立とうとしたのだ。
この国の産業は農耕が主だ。肥沃な大地で取れる農産物を周辺国に売り、糸や布や鉱石を輸入していた。
何度教えても、何度たしなめても、何度叱っても繰り返す。
「いつになったら、やめるのでしょうね」
その行為が、その欲が、因を生み出し、様々な果を実らせえているのだと。伝えた当人が生きているときはまだましであるのだ。しかし魔女に会いに来た者たちが子を育み、その子がまた子を作ったあたりで怪しくなってゆく。しかしそれが人間という生き物なのだろう。そうでなければ宗教など発生しない。
「いいのです。約束だから、何度でも、何回でも絶望しても伝え続けるのです」
そう契りを交わした、その向こう側に至るまで。それが魔女が北の魔女となった理由なのだ。
「ねえ、あなたはどうしますか。命は巡ります。彼女が再び産まれるまで待てますか。待てないならば命の輪の中に加わって巡りあうまで生と死を繰り返すのもまた、可能です」
なぜならあなたは魔女である私の元までたどり着けたのですから。
あなたが大切に想う彼女を生き返らせることは、私にはできません。魔女にもできることと、そうでないことがあるのです。
あなたはとても大切に想われていたのですね。ふふ、相思相愛です。ちょっと妬けちゃうくらいらぶらぶさんですねぇ。
彼は首を傾げた。
彼は魔女と出会い、教えてもらいたいことを聞いた。
彼の願いは叶えてもらえないのだろうか。首を傾げる。
北へ行き、魔女に助けてもらうのだ。
魔女は北の端に住んでいて、訪れたものに答えをくれる。
助けて、といえばわかった、と。そう言ってくれるはずなのに。
彼は戻ってきた。
彼が彼であったままの姿で。
助けを呼んできた。魔女が来てくれた。だからもう、大丈夫なはずなのに。
どうしてボクを撫でてくれないのだろう。
まだ足りないのかな。薪をたくさん拾ったときのように、もっと必要なのかな。
ねえ、
問いに応えは戻ってこない。影が揺らめくこともない。
すべては過ぎ去ってしまった。遅かったのだ。
しかし彼にはわからない。
時というものから彼は脱していた。
「あなたの願いは私をこの町へ連れて来ること、でしたね。そしてあなたが大切に想っている彼女を、その家族を助けて欲しい、そうですね」
彼は尻尾を振る。その通りだった。
「北端の魔女はその願いを叶えます」
しかし時が経ち過ぎてしまいました。
人間には寿命というものがあります。生きていられる時間のことです。例えるならば花が咲き、散るまでの間です。
「あなたはただ、彼女と共にいたかった」
けれどこの町は病に侵されてしまった。多くの住人達が発症し、死を待つばかりとなってしまった。
町は遅まきながらも封鎖され、人の出入りが禁止された。強行突破しようとした者たちは紅の海に沈み、それを見た住人達は体を震わせ終わりを嘆いた。
その中で一匹だけ、町の外に出られたものがいる。
それが彼だ。
彼は元々、野生のものだった。
幼い時に彼女の家族に加えられたのだ。
「あなたはだから、北を目指した」
彼の想いは強かった。
首輪をした人間はたいてい貴族の所有物である。
彼は長い年月をかけ北に向かいながら、世界の慈悲を受けた。
彼が死の間際に立つたび、誰かの手が差し伸べられた。
そして北に向かうという意志が途切れぬ限り、束縛の手からするりと逃れ進むことができた。
彼の首には首輪がある。
皮をなめして作ったのだろう。きっと彼女の手製だ。
その首輪には彼女の想いが残っていた。
思念となって残っていたものに魔女が手を差し伸べる。
淡い光がひとつ、小さく灯った。
彼が嬉しさの余り一度だけ鳴く。
けれど彼は抱きしめてもらえなかった。
別れの言葉を聞く。
光はいつの間にか消えていた。
彼は泣いた。
長く、ながく、音を引いて、啼いた。
それを止めるものはここになにも無い。
好きなだけ、そうするといい。
動物は憎しみのこころをもたないのだと言う。
裏切られてもただ、愛してくれた時間を思い哀しむだけなのだ、と。
彼の答えは最初からひとつだった。
「あなた達はいつも、いつまで経っても……」
だが。
だからこそ、愛おしい。
彼は彼のまま残っている。
けれどそうでないものもいる。人間の悪意を喰らい魔獣となってしまったものたちが、だから余計にいたたましくおもえた。
彼は声を遠くに何度も響かせる。
それはまるで、探し物をしているかのように聞こえた。
「……そう、待つことにしたのね」
彼がまだ幼い時、彼をたくさん撫でてくれたてもまた小さかった。
今度は彼が、たくさん撫でつつんであげるのだろう。
魔女は微笑む。
北の端にあり続ける、己が住みかに戻ろうと声をかける。
彼は大人しく従った。
彼女を待つ。魔女が彼女にいつか会わせてくれるのならば。
彼は魔女に体を綺麗に洗われた。黒くこびり付いていた汚れが落ち本来の毛並みに戻る。
彼の毛並みは栗毛だ。
その後、丁寧にブラシをかけられつぶらな黒の瞳を潤ませていた。
後ろ足にある大きな怪我もこの塔に居続ければ、そのうちに治るだろう。
彼はいつの間にか用意されていた寝床に鼻をつっこむ。クッションのはざまにとても懐かしい彼女の匂いがしたのだ。
それはいつも彼女が大事にしていた人形だった。
彼はそれをそっと咥え、クッションの上をくるくると回る。前脚で踏み寝心地を良くしているのだ。
得心したのか彼はその人形を置き、横たわる。
この匂いに包まれていたころはとても、とても幸せだった。
「ゆっくりおやすみなさい」
魔女が囁く。
彼はゆっくりと瞼を閉じた。
そういえば、こんなに眠くなるのは久し振りだった。
いつも気が急いていて、早く北の魔女のもとへたどり着きたくて、まどろむのも躊躇半端のまま、体が重くても目が覚めたら歩いていた。
「いい夢を」
彼は瞼を瞑る。
優しく頭を撫でる、存在の言葉を信じ、眠る。
目を閉じるといつも彼女が泣いている顔が現れた。
必ず生き延びて、そう言いながら泣いていた大切な存在の顔が。
------忘れられない。
けれど今日は違った。
体を綺麗に洗ってもらったからだろうか。それとも毛を何度も梳いてもらって気持ちよかったからだろうか。本当の形にもどったから? どれもしっくりとこない。
ああ、そうだ。
ずっと求めていた匂いがあるからだ。そして魔女の気配がとても優しいからだ。
彼女が笑っている。
いつかきっと、再会できる。
そう魔女が言ったのだ。彼の望みを叶えてくれると。
その日を心待ちに、彼は眠る。
彼女と再び出会い、繋げた絆と運命を知るための旅に出るまで。
-------つかの間の眠りを。
魔女が集う。
この世界にふたりきりの魔女はビロード地の椅子に座し優雅に紅茶を口にしていた。
どちらかが会いたいとおもったときは鈴を鳴らせばいい。澄んだ音色は魔女の耳にしか届かない。
「あらぁ、嬉しい。今日はアプルパイなのねぇ」
「ええ。アガルまで出向いたので旬の果物を買ってきたのですよ」
彼女は西の魔女。未来の分岐を知るものだ。
そして彼女は北の魔女。運命に抗う術を知るものである。
魔女に距離など関係ない。
互いが会いたいと願えば会うことが出来る。
魔女はこの世界の理に囚われない。
魔女はこの世界の理の外にある。
魔女はこの世界の孤高であった。
ゆえに魔女はこの世界に牙を剥く。
利己的なもの。我欲に走るもの。欲にまみれすべてを欲するもの。
魔女はかつてその強大な力を揮い、天空にある神の園に至ろうとした塔を破壊したという。
魔女はかつてその止まる事を知らない魔力を用い、世界に満ちる命をすべて刈り取ったことがあるという。
世界は魔女を求める。
世界は魔女を喚ぶ。
世界は魔女の願いを叶え、世界の元に留まることを願う。
「監視用のねぇ使い魔がぁ一匹、慌てて帰ってきたんだけどぉ」
ちらりと西の魔女がアプルパイを味わいながらちらりと北の魔女を見やる。
「少しばかり釘をさしてきただけです」
「そうなのぉ。おいしいわぁ、このアプルパイ」
「お気に召してよかったです。まあ、そういうことなのでよろしくお願いします」
西の魔女はうっそりと笑む。
ちょっとした釘、と彼女は言ったがかの国でしか採取できなかった薬草をどの国でも生えるようにしてしまったのだ。
すでに世代が進み、かつての戦争が生んだ悲劇は人々の記憶から消えている。
魔女が行なった所業によりかの国は滅亡の危機に陥っていた。
西の魔女はおいしそうに紅茶を飲む北の魔女を見る。
本来おっとりとした気性である北の魔女を怒らせると必ず、世界のあちこちで天変地異が起きるのだ。
けれど世界はそれを許容する。なぜなら魔女は子の世界に----------




