(1)
洗濯に最適な湖を見つけたころには、もう既に身体が正常に動かせないほど熱くなっていた。怠くて仕方ないけど夜までにすべて干して食事も終わらせないといけない。空を見ると天気も崩れかけていて、私はため息を吐いて気合を入れると、洗濯物を湖にひっくり返してざぶざぶと洗い始める。
なんだか左肩が痛い。すべての熱の根源はここから来てるんじゃないかってくらいに、そこが高熱を持っているのがわかった。嫌な予感に脂汗を滲ませながら、とにかく早く終わらせたくて一生懸命に手を動かす。
こうなったら湖で身体を冷やした方が楽になるかもしれない。ついでに今着ているものも洗おうと、服を全部脱ぎ捨てて湖に飛び込んだ。
「う~・・・」
冷たい水に唸り声を上げながら残りの服を揉みこむように洗っていく。身体は湖の冷たい水に冷やされたのか、さっきよりは少しマシになった気がする。大きな布を広げた場所にすべての服を放り投げると、あとは絞って干すだけ。
湖から上がるとマシになったと思っていた身体はブルブルと震え始めた。あとちょっとだから、あとちょっとだから、と何度も自分を宥めながら洗濯を終わらせる。
全て終わった頃にはもう座っている気力もなくて、ただシーツの上に転がって目を瞑った。さっき湖で冷やしたはずの身体は熱く燃えるように滾って、せっかく着替えた服には汗が張り付く。
森の中はとても静かで、うるさいのは私の荒い呼吸の音だけ。誰もいないこの空間が妙に寂しくて恐ろしくて悲しかった。体調が悪くて心細いのかもしれない。
誰でもいいから「大丈夫だよ」って言ってほしい。このままここで死んでしまったりしないって慰めてほしい。たとえそれが、嘘でも構わないから。
目を閉じると生理的な涙が零れた。
意識と共に身体がずーんと下へ沈んでいく。
ぱっと目を開いたのはガサガサと草をかき分ける音に反応したからだろう。いつの間にか夜になっていて、気配に敏感な私は反射的に腰の短剣へ手を伸ばした。獣だろうか、音の正体はだんだんとこちらへ近づいてくる。
熱い呼吸をできるだけ静めた。本当はすぐに木の陰に隠れるべきなんだけど、3メートルの距離も移動できないくらい身体が辛い。こんな日に限って、と心の中で悪態をついても遭遇は免れなさそうだ。
「イヴ、やっぱりいた」
草木をかき分けて出て来たのは金髪頭の兵士。ガクッと全身から力が抜ける。
どうしてディーノがここにいるの。
「ほら、言っただろう?身体熱かったんだって」
優しい声色で子供を叱るかのように説教をされる。そして私にくれた温かな笑顔は、さっきまで不安や恐怖でいっぱいだった心を温めてくれた。無邪気で、柔らかくて、裏表のない、陽だまりのような笑顔。私はこの笑顔が嫌いじゃないって、今初めて気が付いた。
変態ストーカーの登場でこんなに心が動かされるなんて、私はよっぽど人恋しかったのかも。
「大丈夫か?とりあえず薬と水持ってきたけど」
ほら飲んで、とディーノが差し出したものを口の中へ入れた。薬だと言っていた代物はすっごく苦くて、驚いた私は吹き出しそうになりながら無理やり飲み込む。変なところに入ってしまったのか、肺が苦しくなって何度も咳き込んだ。
ディーノは焦った様子で私の背中をなでる。
「下手だなあ」
「・・・っ仕方ないでしょ、初めて飲んだんだから」
超のつく健康体の私は風邪はもちろん流行り病にもかかったことはない。薬がこんなに苦いだなんて知らなかった。
何故かよしよしと頭を撫でられて、私の身体はあっという間にディーノの膝の上に移動される。まるで子供扱いされているみたいで、ちょっとムッとしたけれど文句は言えない。わざわざこんなところまで私を探しに来てくれた上に、薬なんて高級品を分けてもらった恩がある。身体も辛いし抵抗する元気はまだない。
すごく身体は熱いのに、密着しても不快には感じなかった。むしろ自分のものじゃない体温に心地よさすら覚える。
「・・・ディーノ」
「ん?」
「・・・ありがと」
ぼーっとした頭でディーノの顔を見上げると、彼は少しだけ目を見開いて驚いた顔をしていた。そして次に、またいつもの優しい笑みを浮かべる。
しばらくの間はそのまま静かな時間が過ぎたけど、突然左肩が痛んで呻き声を上げた。
「うっ」
「どうした!?痛いのか!?」
「いっ・・・たっ・・・」
痛みと恐怖で頭がいっぱいになる。火傷しそうなほどの尋常じゃない熱さと痛み。さすがにこれは普通の風邪じゃないと気が付いて泣きそうになった。心当たりは、ある。
ディーノは慌てた様子で左肩を握るように掴んでいた私の手の上から自分の手を重ねた。
「つった?傷めたのか?ちょっと見せて」
大丈夫だからと宥められて、背中を摩られて、私はようやく左肩から手を離す。それからディーノは器用に私の服のボタンを外し、そっと左の部分だけ肌蹴させた。
息を止めるディーノ。不安になってチラッと彼の顔を盗み見れば、彼は見たことのない真剣な表情で私の左肩を見つめていた。笑みはなく、なんだか怒っているようにも見える。
「・・・ねえ、何か、言って、よ」
無言が怖くなって先に口を開いたけど、声が震えて上手く話せない。そんなに悪いの?私の肩。私の肩の、三日月の形をした痣。
「イヴ、これどこで付けた」
無言とは打って変わって早口で訊ねられる。
早くいつもの笑顔に戻ってほしい。そして大丈夫だよって言ってほしいのに、いつもより声が低くてやっぱり怒っているようで、私は唇を噛みしめながら答えた。
「4年、くらい前に。町を歩いてたら、突然、腕を掴まれて・・・」
まだ魔王国へ来る前の話。あまり治安のよくない下町を歩いていると、フードをかぶっている金髪の女の人から擦れ違いざまに腕を掴まれた。
吃驚して彼女を見れば、その人はとても美しい声で私にこう言った。『魔王を殺さなければお前は大人になる前に死ぬ』って。
その途端焼けるように左肩が痛んで、気づいたら三日月形の痣ができていた。
だけど痛みはその時だけ。なんともなかったからそのまま放置してたんだけど、こんなに痛みを覚えるのはあの時以来だ。
もしかしたらあの女の人が言っていたことは本当かもしれないって、心のどこかで思ってた。だけど泥棒の小娘にはどうすることもできない。痣を消すすべもなく、魔王を倒せるはずもなく、ただ怯えながらも毎日を生きるので必死だった。
ディーノの眉間に深い皺ができ、口を開きかけては閉じるを何度か繰り返す。何か言い難いことを言おうとしてるんだろう。
「なに。・・・言ってよ。ちゃんと話して」
中途半端に知らないままだと余計に怖いでしょ。
ディーノは大きく息を吐くと、私を包み込むように座って、左肩に優しく手を添えた。
「これは、たぶん、ヴェルデンモーテの家紋だ」
ヴェルデンモーテとはの祖国を治めていた吸血鬼の一家の名だ。詳しくは知らないけど、もう7年前に魔王によって滅ぼされたと聞いたことはある。
「えっと、じゃあ、これは、その人につけられたってこと?・・・あ、でも4年前だから、ヴェルデンモーテは滅んでるか」
じゃあその家臣だった人とか。とにかく魔王を恨んでる人たちなら、魔王を殺せって言っていた理由がわかる。
しかしディーノは、いや、と重々しく首を横に振った。
「ヴェルデンモーテが吸血鬼の中でも格段に強大な力を持っていたのは、彼らが呪術を使いこなす一族だったからだ。こんな真似ができる魔の者は他にいない。
イヴと接触した人がこれをつけたなら、そいつはたぶん、ヴェルデンモーテの吸血族だ」
言われてみれば、朧げな記憶の中でフードの中の瞳は赤かったように思う。声は聞いたこともないほど清んで美しくて、だけど放たれた言葉は恐ろしい呪い。
そうだ、ディーノははっきり言わないけれど、これはきっと呪いなんだろう。魔王を殺さなきゃ本当に死んでしまうんだ。
だけど、なんの力もない小娘に魔王を倒せるはずがない。
「じゃあ、私、死ぬんだね・・・」
きっと三日月形の痣が痛むのもその呪いによるものなんだろう。呪いを受けてもう4年も経って、私は大人になる一歩前まで来た。だから今になって痛みだしたんだ。
目から涙が零れ落ちる前に、ぎゅっと抱きしめられて身を強張らせた。きつくない優しい抱擁だから、抵抗はせずに顔を上げる。
そこにはいつもみたいにへらへらと優しく笑うディーノが居た。
「大丈夫だよ、イヴ」
「呪いを消す方法があるの?」
「ううん、それはヴェルデンモーテの吸血族じゃないとできない。だから俺には痣を消してやることはできないよ。
でも魔王を殺すことはできるだろう?そうしたら、きっと呪いは解ける」
希望に満ちた力強い声で言われたけど、意味が分からなくて首を傾げた。
そして彼は足元に転がっていた短剣を拾うと、それを私の手に握らせる。
「え、なに?」
「俺、首を刎ねても死なないんだ。だからここ・・・」
短剣を握らせた手の上から包み込むようにディーノの手が重なった。そして短剣の切っ先は彼の左胸に誘導される。
「・・・ねえ、なんの冗談?」
手がぶるぶると激しく震えているのに短剣を落とさないのは、彼の手に支えられているから。
ディーノはただ、いつもの笑顔で優しく私にほほ笑んでいた。