(3)
気が付くと汗まみれのまま床に横たわっていた。またその汗で切られた長髪が身体に引っ付いており、先ほど起こったことを思い出して固く目を閉じる。
悔しい。髪を切られてしまったことが。あの男の手によって吸血鬼にされてしまったことが。
本当なら吸血鬼になった後はディーノと一緒に居たのだと思うと余計に悔しさが増す。きっと目が覚めて驚いて、記憶はないけれどディーノと目が合って笑って・・・、そんな感じだったんだろうな。
想像すると更に辛くなってきた。
いっそのこと全部忘れてたら楽なのに、残念ながら先ほどの記憶はほとんど残っている。所々、特に後半は曖昧だけれど、ずっと腕を噛んだり引っ掻いたりしていたはずだ。
けれども腕を見ても傷跡はほとんど残っていない。ディーノのように、魔の者になると治癒力が高まるのだろう。
身体を起こして身体に張り付いた髪を払う。相変わらず真っ暗な部屋だけれど、吸血鬼になった今ははっきりと物が見える。
3人のうち男と女の姿はなく、今は部屋の隅にちょこんと突っ立っている女の子のみ。5歳くらいの容姿だ。金の薄い長髪はサラッサラで、可愛らしい顔はまるで人形のよう。
今のうちに逃げられると思ったけれど、足にしっかりと鉄の鎖が繋がっていてがっかりした。
「・・・身体はどう?」
容姿に見合う可愛らしい澄んだ声。
「別に平気。他の2人は?」
「食料探し」
きっと人間を襲っているんだろう。怖いのでそれ以上は聞かなかった。
「水、浴びる?」
言われると汗と髪まみれの身体が不快に感じてくる。
頷くと女の子は私の手を引いてすぐ隣のシャワー室へ連れて行ってくれた。鎖は想像していたよりずっと長く、部屋内を移動するには十分な長さがある。
「アンタ、名前は?」
シャワーの蛇口を捻って水を出しながらそんなことを問う。水音で聞き取りにくかったけれど、女の子はポツリと「メリッサ」と答えた。
「・・・あの2人は?」
「ダウィード、と、ジョアンナ」
あの短髪男がダウィードで私の髪を切った女がジョアンナか。
排水溝に長い髪の毛がたくさん溜まっていく。後ろの頭をそっと触ってみれば、数時間前までにはあったものがなくなって喪失感でいっぱいになった。
しばらく無言で身体を洗い流すと、タオルを差し出されてそれを受け取る。
「・・・・ありがとう」
自分を攫った相手に礼を言うのは変だと分かっているけれど、子供の見た目だからかこの子に対しては警戒心が薄くなってしまう。
どうにか逃げられないかなあだなんて考えていると、心を読んだかのように口を開くメリッサ。
「逃げたらダメ、もうすぐ帰ってくる」
端的だったけれどメリッサの言いたいことはよくわかった。ダウィードとジョアンナはもうすぐここへ戻ってくる。
新たに差し出されたのは新しい服や下着と黒のローブ。そうか、私はもう太陽の光を浴びられないんだ。
自分の身体の変化を顕著に感じることはあまりないけれど、こうしてローブを纏うと吸血鬼になったんだと実感が沸いた。
またそのローブが重いし暑いし鬱陶しい。動きにくいものが嫌いな私には少し辛い。
その時、ミシッミシッと古い木の階段を昇って音が聞こえてくる。そこで初めて私は、ここが建物の上階なのだと知った。
ギイイと音を立てて開く扉。隙間から向こう側に窓があるのが分かったけれど、そこは閉ざされていて光ひとつ漏れてこない。
そして入って来たダウィードとジョアンナに、私は改めて彼らの顔を見る。ジョアンナは初めてしっかりと顔を見たけれど、浅黒い肌にふっくらとしたピンク色の唇が蠱惑的な美女だった。
そこであれ、と気が付く。私に呪いの痣を付けた女吸血鬼がいない。そしてどうやら彼らも私が呪われていることに気がついていない様子。黙っていた方がいいのかな。
少々迷ったけれどわざわざ自分から話題に出すのは止めた。それよりもまずここから脱出する方法を考えるのが先だ。
「目が覚めたのか、早かったな」
ダウィードは部屋に入るなりこちらを見ながら目を細めて言う。いろいろ考えていて気づくのが遅くなったが、何故か部屋に来た人物は2人ではなく3人だった。正確には、2人の吸血鬼と1人の人間――――。
絶句している私に向かって、ダウィードは脇に抱えるようにして持っていた若い男性を放り投げる。
彼はまだ意識があって大きく身体を震わせながら辺りをきょろきょろと見回していた。そうか、人間には暗くて私がよく見えないんだ。
「誕生祝いだ」
「え?」
「お前の食料だ。受け取れ」
その言葉に、私は急に渇きを覚えて喉を手で押さえる。ごくんと唾を呑み込んでもそれは治まらず、人間の姿を見ているだけで身体がうずうずする。
これは本格的にヤバいと思って顔を逸らしてみても、動く気配に衝動が鎮まることはなかった。
「どうしたの?美味しそうでしょう?美味しいわよ、とっても」
ジョアンナは低めのハスキーな声でそう誘ってくる。甘美な誘われ方に一瞬心が揺らいだが、私は人間を襲う真似はしたくない。しかもヴェルデンモーテは血を吸うだけで人間が死んでしまうから余計に。
今までも空腹に耐えなければならない時は多々あった。確かに辛いが我慢できないほどじゃない。
「・・・いらない」
「あらそう?じゃあこうしてあげるわね」
ジョアンナはそう言うなり爪で男の首筋を引っ掻いた。途端に鼻につく血の匂いに全身が戦慄く。人間の男の絶叫が聞こえてきたが、そんなことどうでもいいくらいに私の本能的な欲求がその血を欲した。
喉から手が出るほど血が欲しい。なのになんとか踏み止まっていられたのは、脳裏にディーノの姿が浮かんだからだ。
「・・・っいらないってば!」
顔を見合わせるダウィードとジョアンナ。ダウィードの眉間に少々皺が寄ったのがわかった。
「お前が我慢強いのはよくわかった。・・・が、我々はヴェルデンモーテだ。血に対する欲求は強い。一生飢えに耐えながら生きていくつもりか?」
「だからって、人間を殺すなんてっ・・・!」
「何が問題なのだ。人間とて殺生しているではないか」
食糧としてどれだけの命を消費しているのか、確かにダウィードが言った通りだ。
人間だって殺生はしている。そして私はそれを当たり前だと思っていたし、罪悪感を持ったことは一度もなかった。吸血鬼とて己の糧として殺生している以上、私たちに文句を言う資格はない。
正論だ。何も言い返すことができない。
ハア、と彼は重くため息を吐く。
「人間は何か勘違いをしているのではないか?彼らは欲求の為にどれだけの殺生をしていることか。
なのに我々が食糧を求めれば悪の根源のように騒ぎ立て、我々を狩ろうとする」
早く血の匂いが充満するこの部屋から出ていきたかった。たとえダヴウィードの言うことが正論だろうと嫌なものは嫌だ。
「私にはそんなこと関係ない」
睨みつけて言うと、今度はダウィードではなくジョアンナが長いため息を吐いて首を横に振る。
「ま、いいわ。せっかくの血がもったいない。私がもらっていい?」
人間は首から血を流しながらもうピクリとも動かない。ジョアンナが近づいて何やらごそごそとしていたけれど、見るのが恐ろしくて顔を背けていた。
そして目に入ったのは私の足に繋がれた鎖。
「この鎖を外してよ」
「外してどうする。お前にはもう帰る場所などない。我々の仲間として一人前になるまで大人しくしていてくれ」
「帰る場所がないなんて・・・」
定住したことはほとんどなかったけれど、今の私にはディーノが待っているお城がある。彼らはそれを知っているのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
「早く諦めることだな。―――――魔王がお前を受け入れることは二度とない」
ダウィードは私をひどく冷たい目で見てそう言い放った。