とある博士の廃村探検
おうい。
おうい。
ああ、やっと来た。まったく君という奴は歩き方まで弱々しいことだ。
「博士は本当にお強くていらっしゃいますから……」
小木曽君がいつものように気の弱そうな笑みを浮かべて言うから、私としてはなけなしの教育者精神を刺激されもして、何とかこの学生をしゃっきりと男らしくしてやらねばと思い立つのだ。
世に生まれついての強者たる人間などいやしない。心の持ち様だ。弱さに胡坐をかくことは楽そうに見えて辛い生き方である。
今回の冒険にしてもそうだ。君はどうにも腰が引けていてヤキモキとしたものだよ。
ローカル線を乗り継ぎ、オンボロのバスに揺られて、更には山肌を縫うようにして歩き歩いた先にある廃村には到着当初からして一種独特の雰囲気を感じたものだ。
それは私にとっては冒険心を掻き立てられるものであるが、小木曽君にしてみれば不気味以外の何物でもなかったようで、疲労からとも恐怖からとも判別の難しいへっぴり腰を見せていた。
「博士……どうしてこの村は……こんなに荒れ果てているのに、どうして病院ばかりあんなに立派なままなんですか?」
木造建築と鉄筋コンクリート建築の違いだ。それ以外の何に見えるというのか。驚くべきは山間の村にも関わらずそれだけの施設が建築され、曲りなりにも運営されていた期間があることだ。
我が大学の付属病院などと比べれば百貨店と小売店の差を感じるところではあるが、しかし村の診療所としては規模が大き過ぎる。四階建てのビルディングだ。地下もあれば中々の延べ床面積となろう。
鉱山の類があるでなし、林業が専らであったろうこの村において何故この規模の病院施設が営まれていたものか。それにも経済学的な興味をそそられるが、何よりも調査すべき神秘がそこにはある。
「確かに、夜になれば幽霊も出そうですけど……昼間でも、こう、犯罪者がたむろしてたりしないでしょうか? 入らない方がいいんじゃ……」
それが私の助手を務める者のセリフなのだから、何とも情けない話だった。
他のゼミ生に比べてフィールドワークが苦手であるとは知っていたが、私の教え子である以上、心に冒険を貴ぶ者であってほしい。人類の進歩とは一見無謀とも見える挑戦の連続によって切り開かれてきたのだから。
村へ至る道の未開ぶり、村の廃れ具合、どちらを観察してもここが人の出入りのない場所であることは明らかだった。破棄されて何十年と経っていよう。廃屋の障子に張り付いていた古新聞の日付は昭和の中頃である。
炊事場らしき場所には釜や薪も転がっている。井戸もあり、トイレは勿論のこと汲み取り式だ。それらは私にとって珍しくもないが、小木曽君はいちいちおっかなびっくりしていた。
「僕、ここでは死にたくないな……」
大体において後ろ向きに過ぎるのだ、その思考は。私は呆れてしまって、置いてけぼりにする勢いでもって廃病院に入ったものだ。
情けない悲鳴が追いかけてくるのを聞きながら周囲を観察する。壁紙は剥がれ床のタイルも方々で割れているものの、内部は比較的保存状態が良いようだった。壁や柱にヒビが走っている様子もない。倒壊だけは恐ろしいので、それは私に安堵の息を吐かせた。
病院のようではある。しかし病院にしては少々私の知る常識からずれた建物だった。
例えば採血室だ。大広間に椅子が並んでいて前方に採血受付がある配置はよく見る形である。しかし規模が大きい。一階の大半はその部屋に占められていて、その広さたるや我が大学の付属病院に優るとも劣らないほどだ。明らかに大き過ぎだ。これでは村人総出で着席しても余りがあるように思えた。
二回の手術室などは、一見しただけでは器材の配置が想像も出来ない作りとなっていた。手術台はあるし、ストレッチャーの残骸も端に転がってはいた。しかし天井の照明は小さく光量不足であろうし、壁に大きくかけられてあるべき時計もない。ゴチャゴチャとしていて時計をかけるスペースもないのだ。
壁際が散らかる原因は、鎖やフックの類がぶら下がっていることである。まるで精肉店のようでもあった。最新の手術からすれば野蛮に過ぎる道具も転がっていて、麻酔の有無で助かる命も助からないだろうことが見て取れた。
私ならばここで手術を受けたいとは思わない。ドクターヘリに出動を願うだろう。床の汚れが流血の染みのようにも見えた。
「は、博士……やっぱり、もう……」
小木曽君もここでの手術を想像してしまったようで、可哀想なくらいに青褪めていた。つくづくこうしたフィールドワークに向かない性質らしかった。
大なり小なり医療現場とは凄惨なものである。しかしそれは実のところ生々しいだけであって、血にしろ骨にしろ誰もがその身一つに所持しているところのものに過ぎない。自然や現実は体に集約されている。
私が求めているのは、その外側にあるものだ。
自然らしからぬ自然を超自然とでも言おうか。現実らしからぬ現実を超現実とでも言おうか。世に神秘学などと言われる怪しげな超常現象の正体をば、科学でもって解明することこそが私の使命である。
その志のもとに日本各地の心霊スポットなる場所を行脚してきた私だが、やはりインターネットですぐに調べられるようなところには現実的な暗がりがあるきりで、何夜そこで過ごそうともただ現実的な朝を迎えるばかりだった。そこには何もない。何かあったという者には心療内科を紹介しよう。
怖がらぬ者、信じぬ者には見聞きできないなどという代物は幻覚幻聴に過ぎない。それをもって超常現象と呼ぶなど言葉負けもいいところだ。劣常現象と呼ぶのがお似合いである。
さても、小木曽君の怖がり方をもって推し量ることも非科学的な話だが、その廃病院には期待をもったものだ。地図にも載っていない、行政の記録にも残っていない廃村である。こういう場所にこそ本物の超常現象は隠されていて、私という科学者に解明される日を待っているのかもしれないと思った。
実際、奇妙な物は見つかったのである。
まず、建物内のそこかしこにべっとりとこびりついた粘液質の物体があった。
やや緑がかっていて生臭く、プルプルとゲル状になっている箇所もあれば、サラサラと指で伸ばせる程度の質感になっている箇所もあった。どうやら圧すれば粘度が低まる性質があるようだった。有機物ではあろうが、不思議な物体である。あるいは菌類であろうか。床、壁はおろか天井にまで張り付いていた。
次に、小さな円形の穴だ。
これもあちらこちらの壁、床、天井にぽっかりと口を開いていた。直径は二センチメートルほどで、丁度私の人差し指が入る位だ。どこの穴も同様の直径であり、同じ工具で開けたものと推察できた。そしてどの穴にも必ず粘液がこびり付いていた。何かの配管の跡だろうか。
しかし地下階を見つけるに至り、それらの奇妙は些事となった。地下は地上階とは全てにおいて様相が異なったからである。
そもそも降り方からして常軌を逸していた。階段らしきものは途中で壁に終わってしまっていて、あとはその壁にダストシュートのような穴があるきりである。
例によって幾つも人差し指代の穴は開いているが、人の通れるものといったら、鉄の取っ手を引いてその暗闇の滑り台に身を横たえるより他に方法がないのだ。瓦礫を落とせばその深さは知れて、地下階があることは明らかであったが。
「僕は……このロープを保持していればいいんですね?」
小木曽君を残し、私は懐中電灯を手に頭からそこへ突入した。うつ伏せになって速度を殺しつつ、ゆっくりと降りた。
少々の埃っぽさにむせながら這いずり降りきれば、そこは何と岩窟であった。
水気を孕んでつるつるとした手触りはひんやりとして気持ちがよく、ごくゆっくりと流れる冷気が匍匐運動に火照った頬をやんわりと撫でた。天井の高さは一メートルほどしかなく、立てはしないが、岩肌に棘や引っ掛かりとなるところがないため移動は思いのほか楽だった。
広さは八畳ほどか。天井や床に比べると壁には丸みがあり、全体としては大福餠か何かに近い形状だと推察できた。人差し指大の穴はここにも方々に開いているが、人が通れる大きさの穴となると奥の壁際にぽっかりと口を開けているものが一つだけだった。
ロープの長さだけ進んでみよう。私はごく自然とそう考えたものだ。今にして思えば無計画の極みだが、その地下空間の奇妙な居心地の良さが私の気を大きくしたのだろう。
冷感といい狭さといい、幼い頃に布団の中を冒険した時のような痛快さがあった。母が干し母が敷くあの布団の心地良さは今もって懐かしく思い出された。再現不能のあれこそは、ある意味で超現実的な現象なのかもしれない。
さても私はするすると移動した。奥へ向けて傾斜もついていたものか、思いがけない速度で壁際の穴にまでたどり着いた。
懐中電灯を向けると、その穴もまたやや傾いて奥へと続いていた。途中で幾つか横穴はあるものの、やはりどこかの空間に繋がっているようだった。中央には薄い仕切り板のようなものも見えた。奥行きはさほどでもないが金属の煌めきがあった。邪魔だ。あれを取り除かないことには入り込むこともできまいと思われた。
何より、それらは流石にロープの届く距離ではなかった。しかし進みたくもあり、何とはなしに私はロープを引っ張ってみた。するとどうだ、何の抵抗もなくロープを手繰り寄せられたではないか。想定していたよりも長いということではない。
小木曽君だ。彼がロープから手を放してしまったのである。
全く、そそっかしいにもほどがあった。どのタイミングで手放したのかはわからないが、もしもあのダストシュート型通路が深い穴にでも繋がっていたらどうなっていたことか。私の助手を務める者はいま少ししっかりとしてもらわないと困る。
帰り道にご馳走するつもりの食事もメニューの価格帯を下げようというものだ。ウナギは却下だ。安い麺類で胃を満たしてもらうよりないと決意した。
ロープをまとめつつ来た道を戻ろうとした時だった。
何かが動いて私の足に触れたように思われた。すぐに懐中電灯を向けてみたが、そこには私の足とロープとがあるばかりで、あとは変わらぬ岩窟の風景が天井低く見えるのみだ。
しばらくじっとしていたが、音があるでなし、再び触るもののあるでなし、私は溜息など吐いて滑り道に張り付いた。匍匐前進で登らなければならない。助けとなるはずのロープは荷物と化していた。
登りの道は困難だった。
どうにも踏ん張りが効かないと思って足を確認したところ、どこで付着したものか薄緑色の粘液がこびり付いていた。圧すればサラサラの油のようにもなるそれである。登りにくいわけだ。
私はすぐにズボンを脱いだ。それで摩擦係数は解決どころかより上昇する。登りやすくなる。荷物は多少増えたが。
ロープは如何ともしがたく邪魔だった。しかし便利な道具ではあるから、捨てるわけにはいかない。ヒタヒタと触れる感触が鬱陶しかった。頬に、足に触れる。くすぐったいしヌメヌメとする。
そして……全く、小木曽君にも困ったものだった。せめて大丈夫ですかと声をかけるくらいはしても良さそうなものだ。思い出しても少々腹が立つ。
見ているきりなのだから、彼は。
懐中電灯の照らす先、ダストシュートの入り口で、小木曽君の顔が私を見ていた。廃病院の天井を背に四角く切り取られたかのような光景だ。冴えない証明写真のようでもある。
そう、その笑みだ。薄ら笑いと評すべきか。そんな風に陰気に笑うから君はアルバイトの口にも難儀するのだぞ。
登っても登っても、小木曽君の顔に近づくことはなかった。むしろ遠ざかっていくようだった。ずり落ちていたのだ。とにかくロープが邪魔で、ついには私はそれを手放した。
股の下から放ったわけだが、しかしどういうわけか足にロープが触れる感触が終わらない。トランクス一枚になっているのだ。引っ掛かりようもないのだが。
苦しくなってきた息を整え、下半身を確認してみた。そして私はそこに予想だにしないものを見た。
蛇だろうか。
それともヒルだろうか。
いや、あるいは線虫のごときものだったかもしれない。
懐中電灯を取り落したことで一瞬しか見えなかったが、何にしろ緑色の粘液に塗れて細長いそれが、何重にも私の両足に巻き付いていたのである。
ズボンを脱いだから素肌の足である。そのくせ巻き付かれている感覚など全くなかった。
いや、いっそ下半身は飽くなき匍匐前進を実行できるほどに快調であった。今も力強く足を躍動させていて……と、そこで私は感覚の奇妙に気付いた。
手で足に触れてみる。動いていない。
動かしている感覚ばかりがあって、実際には足はまるで動いていないのだ。登らないわけだ。
ヌメヌメとした細長きものに触れた。ひんやりとしていて岩肌の床を思い出した。ごく僅かな蠢動が不定期に生じていた。
そして、どうしたわけか、触れている手がじんわりとしてきて奇妙な錯覚を体験した。手から爽快感が生まれたのだ。それは力強くロープを引いているようでもあり、小木曽君相手に身振り手振りで論じているようでもあり、万年筆でもって軽快に論文を書き進めているようでもあった。
およそ私がこの手をもって為したいと思う諸作業の感覚が、一緒くたになって感じられたのだ。
不意に排便感がやってきた。しかもそれは奇妙に気持ち良さを伴う。いや、そもそも排便行為とはそれなりに快感があるものなのだ。生物がそうせずにはいられないものとは得てしてそういうものである。
次いで疲れていたはずの腹筋が楽になった。ソファーに横たわって午後のうたた寝を楽しんでいる時のような開放的な寛ぎが感じられた。
胃も満ちた。空腹感が去って強い幸福感が訪れた。
呼吸が楽になった。連続運動に速まっていたはずの動悸も治まった。
多幸感とはこれかと言わんばかりの愉快が体に満ち満ちていった。
私は笑い出しそうになった。
舌にヌメヌメと触れるものがある。そして得も言われぬ豊かな味わいが広がるのだ。
私は笑った。声は出たろうか。わからない。
私の耳には名指揮者によるところのオーケストラの調べが鳴り響いていたからだ。それはブラームスだったろうか、それともバルトークだったろうか。
小木曽君が笑っていたが、果たしてそれは小木曽君だったろうか。
往年の名俳優とでもいった風な美貌に見えていて、私は瞬きを繰り返した。何かが引っ掛かってしまってうまく瞬きができなかった。
「さ、お上がり」
小木曽君のようでいて小木曽君のようでもない彼はそう言った。
上がれないのだと反論したかったが、言葉が出なかった。ルロルロと意味のない振動が喉から発せられた。
私はそれを気にしなかった。芳醇な香りに満たされていてそれどころではなかったからだ。
そこからのことは少し記憶が混乱している。
段々に小木曽君のようなものは遠ざかっていって、私は再び岩窟の冷感の中へと戻ったような気がする。うつ伏せのまま後ろへと滑るようにして……何かが股に触れた気もするのだが、何しろそこのところから記憶が奇怪なものとなっているのだ。
人は右の穴と左の穴とに同時に入ることはできない。
しかし私はそれを為したようだ。
断片的な私の記憶が正しければ、私は左右どちらの穴の先をも視界に収めた。同時にだ。一人の人間であるのに、まるで分身したようにして、分かれ道のそれぞれへと入った……そんな気がしてならない。
何か驚嘆すべき世界をこの目で見た気がする。
何か畏怖すべき体験をこの体で味わった気がする。
詳しく思い出せないことが何とも口惜しい。あるいは私は念願の超常現象を体験したのかもしれないというのに、どういうわけか頭が朦朧としてしまって、まるで記憶の整頓ができないのだ。
それを訴えようにも口も喉もない。
筆記しようにも腕も手もない。
何にもない。
あるいは脳もないのだろうか?
「大丈夫ですよぅ、博士はお強いですから。目だけでも十分です。僕にはわかりますよぅ」
小木曽君が笑う。
薄緑色の薬液か何か……ああ、あの粘液かね……それに満たされたガラス箱の向こうで、彼は箱の内の私に向かって笑っている。
やはり何とも陰湿な笑い方だ。嬉しそうなのは伝わってくるのだが、どうにもこちらが嬉しくならならい笑みなのだ。困ったものだと思う。もう少し毅然としてほしいものだ。
「大丈夫ですよぅ、この方が色々と都合がいいんですから」
目の錯覚であろうか、小木曽君の歪められた口の端に線虫のごときものがチラと見えた気がした。恍惚とした表情のままに彼はこの部屋から出ていった。血に汚れた白衣が妙に似合っている。
この病院は彼の曾祖父が営んでいたという話だったが、はて、彼は医師免許などもっていただろうか?
しまった、と気づいた。
小木曽君に問いたださなければならないことがあった。こちらは動けない身の上となってもう幾年も経っているのだから、彼が見に来る稀な機会にこそそれを問わねばならなかったのに。
私の退院はいつかね?
なあ、小木曽君、私はいつ退院できるのかね?
ここは心地良くも退屈なのだ。君は結局のところこの病院の関係者なのだろう?
確認してくれないか。私の退院時期を。
私が家に帰る日がいつなのかを。
私が布団にくるまって休む日がいつになるのかを、君、確認してきてくれないか。小木曽くん。
確認してくれないか。なあ、小木曽君。小木曽君。小木曽君。小木曽君。
おうい。
おうい。