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探偵は嗤わない

晩夏に渇けば【探偵は嗤わない、第一話】

作者: 黒崎江治

H.P.ラヴクラフトの描いたクトゥルフ神話の世界、およびそれをモチーフとしたクトゥルフ神話TRPGの世界を下敷きにした小説です。原作を知らなくても全く問題ありません。原作を知っていればすこしニヤリとできる場面があるかもしれません。筆が乗れば続編も作っていこうと思っております。なにぶん初めて書いた小説ですので、読みづらい部分も多かろうと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

 少々厄介な案件であることは、始めからわかっていた。


 俺が所属している探偵事務所のもとに依頼が舞い込んだのが五日前。八月末の暑い日の事だった。事務所を訪れた依頼人は身なりの良い四十代後半の女性。担当の者の案内で応接用のソファに腰かけた依頼人は、やや憔悴した顔でこう切り出した。

息子が行方不明になった、と。

 居場所の知れない息子の名前は、伊藤圭介といった。都内の大学に通う、ごくごく真面目な法学部の学生で、失踪するような心当たりはなし。夫人が最後に息子と連絡を取ったのが十日前のこと。親子関係に特別なトラブルもなく、普段、三日に一度は連絡を取っていたという。

不審に思った両親が彼の下宿を訪ね、大家に話を聞いたところ、もう一週間以上帰っていないとのことだった。

両親は彼の失踪に事件性ありと感じ、警察に失踪届を出した上で捜査を依頼したが、現在まで彼は見つかっていない。

そこで、俺の事務所に依頼が持ち込まれた。

 俺が所属する探偵事務所は新宿にある。小奇麗なビルのワンフロアを占有し、所員数十名を数える大所帯で、浮気調査が得意な者、身辺調査の技術に長ける者、荒事に強い者、とある程度豊富な人材が揃っている。俺の実力が評価されているのか、それとも単純に誰もやりたがらないのか。元々刑事をやっていたという事もあり、事件性のある厄介な案件は、大抵俺のところに回ってくる。

 拘束時間は長く、給料も高くない。だが刑事を辞めてブラブラしていたところを拾ってもらったのだから、不平を言うのは贅沢というものか。警察組織を退職した原因が、上司の不正を発端とした警察上層部とのトラブルだったり、探偵事務所の所長が俺の幼馴染だったりといったあたりの事情もあるが、それはあまり重要な話ではない。

 とにかく伊藤圭介の捜索依頼を受けた俺は、早速調査に取り掛かった。交友関係の洗い出し、地味な聞き込み。情報技術が発達しても、変わらぬ捜査の手法というものがある。臭いをたどる猟犬のようにゆっくりと、しかし確実に対象に迫る。

 そして助手である詠子君の手伝いもあり、つい昨日、捜索対象の伊藤圭介が郊外のとある廃墟に向かったのを最後に、消息を絶ったことを突き止め

た。

 

 その廃墟は都内西部の山中にあった。都内とはいえ西に向かえば緑豊かな自然が見られる。神奈川や山梨へ連なる山々は、開発の手からも逃れて夏の緑を誇っていた。俺と助手の詠子君は昼前にふもとの町に到着。食事を済ませ、その廃墟に向かう。そこで調査を行い、日が暮れる前に戻ってくる……予定だったのだが。

「す、すいません。犬塚さん……。あれ、おかしいな」

 俺が運転している社用車の助手席で地図をくるくる回しながら、詠子君がうなっている。

 彼女のフルネームは有羽詠子ありはねえいこといい、カフェの店員から探偵に転職したという変わった経歴の持ち主だ。過去に俺は、都内のカフェに勤めていた彼女が淹れる紅茶を気に入り、常連として店に通っていた事がある。大通りから少し入ったところにある古めかしい、落ち着いた雰囲気のカフェだった。アルバイトは雇わず、訓練の行き届いた店員の丁寧な接客と、オーナーが直接買い付けたらしいコーヒーと紅茶が自慢の店で、詠子君はそこの看板娘だったのだ。仲良くなった彼女が店を辞めたと聞いて、大変残念に思ったものだ。しかし驚いたことに、彼女は翌日、俺の所属している探偵事務所の門を叩いたのだ。依頼人としてではなく、新人の探偵助手として。

 知り合いならば話は早いと、所長の命により彼女が俺に預けられてから一年。始めは慣れぬ相棒に戸惑ったが、共に仕事をするうちに信頼感も芽生えた。少し抜けたところはあるが、地頭の良さとここぞという時の度胸を、俺は評価している。……方向感覚には、若干の難があるようだが。

「気にするな。いったんふもとに戻ろう」

 俺はハンドルを切ってふもとの町に向かった。郊外の山とはいえ、いくつもの道路が通っており、しかも目的地が廃墟であるためカーナビも大して役には立たなかった。時間は午後四時半。外は暑いが車内はクーラーが効いており、交通量も少ないためそれほど疲労はなかったが、一度気持ちを切り替えた方がよかろうと、少し早いが夕食にすることにした。


   ◇


 犬塚さんには大変申し訳ないことをしてしまいました。助手席で地図を見ながらうんうんうなる私は、さぞ間抜けに映っていることでしょう。それでも犬塚さんは滅多に怒りません。無愛想な方ではありますが、たいそう心の温かい方でもあります。今も私の失態など意に介さぬ涼やかな顔で運転席に座っています。

 私の相棒である犬塚猟一いぬづかりょういちさんとのなれ初め、おっと失礼。彼との出会いは、私が都内の喫茶店に勤めていたころのことです。よくいらっしゃっていた常連のお客さんに思い切って話しかけたのが始まりでした。犬塚さんは私の淹れる紅茶を褒めちぎり、刑事だった頃のお話や、探偵として経験した珍しい話を聞かせてくれたのです。

 仕事の話をする彼の表情は、当時自分の将来に不安を持っていた私にはたいそう誇り高く、魅力的に映りました。犬塚さんは三十二歳と、今年二十四歳になった私よりも八つ上らしいのですが、その年齢以上に大人びた雰囲気を放つ素敵な男性だと、当時の私は思ったものでした。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、思い切って勤めていた喫茶店を辞め、犬塚さんを追いかけるようににわか探偵助手となった私を、彼は辛抱強く教育してくれました。一年たった今でも足を引っ張ること多々なのが私としては非常に心苦しいのですが、いつか犬塚さんに頼りにしてもらえるような、立派な探偵になるのが、私の当面の目標であります。

 こんなことばかり考えているから道に迷うのですね。結局二時間近くも山中をさまようハメになってしまいました。

 目的地を一時的に諦めた私達が入ったのは、山のふもとにある定食屋さんでした。夫婦がやっているような地味なお店です。色落ちした茜色の暖簾をくぐって中に入り、愛想のよいおばちゃんの案内で席に着きます。

その小さな定食屋さんは、店の規模の割には、非常に多くのメニューが用意されていました。私は無難にから揚げ定食を、犬塚さんは煮魚定食を注文しました。犬塚さんはメニューの中に紅茶を探していましたが、さすがにそんなものはありません。というか犬塚さん、そんなに紅茶ばかり飲んでいる

と、そのうち結石ができてしまいますよ。犬塚さんは非常に優秀な探偵ではありますが、ときたまこういう変わった行動をとります。また犬塚さんは小食で、そのせいなのかは知りませんが比較的小柄な男性です。身長百六十センチと少しでしょうか、私より少し高いぐらいです。しかしその鳶色の瞳から放たれる眼光は元刑事だけあって鋭く、存在感は彼よりも大柄な男性と比べて遜色ありません。

「なんだ。顔に何か付いてるか」

 私の視線に気づいた犬塚さんが顔をあげてこちらを見ましたので、なんとなく、にへらと笑いかけてみます。間もなく料理が運ばれてきたので、私は照れ臭いのを隠すようにから揚げをばくばくと頬張りました。あちち。

「……相変わらずよく食べるな」

 犬塚さんは感心したように呟くと、テレビに映っているニュースに目をやりました。

 私がつられるようにニュースを見ると、近頃この近辺で、数人の男女が行方不明になっているという事でした。行方不明者の中には、私達の捜索対象である伊藤圭介氏も含まれておりました。

 なにやら事件の香りがします。

「警察より早く見つけないと、成功報酬がもらえなくなってしまいますね」

「本人が無事に見つかれば何でもいいさ」

 全くその通りです。私は反省することしきりです。

「行方不明になったまま見つからない人間は、一年のうち約千五百人」

 定食の煮魚をつつきながら、犬塚さんがぽつりと呟きました。

「その人たちは、一体どこに行ってしまったんでしょうね?」

「さあ。俺達の知らないどこかに、深くて大きな穴が開いていて、皆そこに落っこちているのかもしれない」

 あまりにも荒唐無稽なお話です。冗談かと思いましたが、犬塚さんは笑っていませんでした。かつて刑事をしていた彼には、色々思うところがあるのでしょう。

 早めの夕食を終えた私達は、今度こそと件の廃墟を目指しました。腹がくちくなって脳にも栄養が行き渡ったのか、それから三十分ほどで、無事目的地に到着することができました。


   ◇


「……さて」

 クーラーの効いた車から降りると、湿った熱気が我々の全身を包んだ。蝉声未だ残る九月の初旬。まだ日の長い季節とはいえ、午後六時ともなれば夕闇の気配が近い。適当な場所に車を停め、下草の生い茂る地面に降り立った俺と詠子君は、道路と直交する割れたアスファルトの道、その五十メートルほど先に、直方体の建築物を認めた。

「たぶんアレですよ!犬塚さん!」

 詠子君が嬉しそうに建物を指さす。

 あたりを見回せば、昼間でも日の光が届かぬのではと思うほど、木々の密度が濃い。旺盛な緑と廃墟を対比させてみると、野生との生存競争に、文明が敗北したかのような感覚を覚える。

 ふと見遣ると、我々のほかに車とバイクがそれぞれ一台ずつ、付近に停まっていた。先客だろうか。あるいは、秘密かつ非合法な取引でも行われているのだろうか。

 あらかじめ二人分用意していた懐中電灯と軍手を装備する。軍手をつけた詠子君は彫刻を学ぶ美大生の趣があり、中々似合っている。それを口に出すと、犬塚さんはやはり刑事にしか見えませんね、と笑われた。彼女が言うのならばそうなのだろう。緊張感のない会話を終えてから、我々はアスファルトの割れ目から伸びる逞しい雑草を踏みしだき、件の廃墟へと歩を進めた。

まとわりつく熱気と濃い緑の匂いに辟易すること五十メートル。我々は廃墟の正面に立った。

 この色気のない直方体の建物が打ち捨てられたのは十年以上前とのこと

で、正面玄関脇に打ち付けられた金属板には、鳥獣類研究所と書かれてい

た。果たしてこの何の変哲もない山中に、研究に値するほどの鳥獣がいるのか甚だ疑問ではあるが、それはさして重要な事柄ではない。いくつかある窓には板が幾重にも打ち付けられており、かつて白かったであろう壁面には、若者たちの過剰な自意識の発露たるアートとやらが存分に施されている。

 迫る夕闇を背景に孤立するこの建物は、かつて誇ったであろう科学的、学術的な雰囲気とは正反対の、質量さえ感じそうなおどろおどろしさを放っている。

「肝試しにはもってこいだな」

「圭介さんも、そのような目的で来たのかもしれませんね」

 外観の観察もそこそこに、俺は正面玄関に手をかけた。扉はまだ辛うじて機能しているものの、ひび割れた不透明な網ガラスが建物のうら寂しさを倍加させている。扉の内側からは人の気配がする。さっき見かけた車やバイクの持ち主だろう。かくして我々は、件の廃墟に足を踏み入れた。

 

   ◇


 趣があるというかなんというか、ある意味雰囲気満点の廃墟へ足を踏み入れた私達を出迎えたのは、むせかえりそうな埃っぽさと、三人の若い男女でありました。正直浮浪者や無頼漢の類がいるのでは、と覚悟していたのでやや拍子抜けではありましたが、こちらに危害を加えないのならばさして気にする事柄ではありません。私はいざという時のため常にポケットに忍ばせている、とうがらしスプレーを握る手の力を緩めました。

 さて、目の前の人々を子細に観察してみますと、どうやら廃墟探索をしに来たと思しき地味な女性と、肝試しに来たと思われる物好きなカップル、という組み合わせであるように思われました。地味な女性はライト付きのヘルメットを装備し、軍手、ブーツにリュックと、非常に熟練した廃墟探索者のように見えます。あるいはプロの方であるかもしれません。廃墟探索のプロがどうやって生計を立てるのか、私には皆目見当もつきませんが。

 彼女は胸まで垂れた長い髪の隙間から、私達をうろんな目つきで見つめています。

 一方、カップルの方の女性は如何にも今風、といった印象でありました。非常に破廉恥といいますか、露出度の高い、廃墟探索者にあるまじき格好です。もしプロの方が見れば、廃墟探索をなんと心得る、と怒り心頭に発し、正座させられて小一時間の説教は必至でありましょう。

 その相方の男性はと言いますと、実に無個性。決して地味というわけではなく、小奇麗な格好をしてはいますが、最大公約数的といいますか、まぁ何とも表現し辛い軽薄な印象の男性です。私の最も嫌いな種類の外見ですが、初対面の人にそこまでの悪感情を表出させるのはあまりにも理不尽というもの。私は素知らぬ顔で観察を終えます。

「なんだ、やけに人が多いな」

 軽薄男が声をかけて来ました。やや私達を疎んじるような響きがありま

す。肝試しに来たのだとしたら、ほかの人間がいるというのは確かに興ざめでありましょう。しかし私達は行方不明の伊藤圭介氏を探すため、あるいはその手がかりを見つけるという仕事の為に来たのですから、気を使って回れ右をするわけにはまいりません。

 薄着の女性はといいますと、彼氏に腕を絡ませながら、観察するように私達を見ています。

「ここは、人気の肝試しスポットなのですか?」

 私が誰に訊くともなく訊いてみますと、ヘルメットをかぶった地味な女性が答えてくれました。

「最近、ネット界隈で人気みたいだね。私からしてみれば、迷惑な話だけど」

 そのお気持ち、私には非常によくわかります。昔から続けてきた趣味に、流行だからといって大量の初心者が乗り込んでくるというのは、確かに気分の良いものではありません。この女性、年齢は二十代前半かと思われます

が、おそらく同年代の女性が恋だのファッションだのにうつつを抜かしている間、一人黙々と孤独な廃墟探索道を貫いてきたのでありましょう。その厳かな趣味を、ただネットで話題だったからと言って興味本位で廃墟を訪れるような、にわか探索者に邪魔されてはたまったものではありません。だいたいその恰好はなんですか。そんな短いスカートを履いて。膝なんか出していて、すりむけたらどうするのですか。

 うんうんと共感する私をよそに、地味な女性は廃墟の奥へと消えて行きました。馴れ合いを良しとしない潔い姿勢です。カップルの方も我々との交流にあまり興味はないらしく、地味な女性とは別方向の闇の中へと溶けてゆきました。そうこうしているうちに完全に日が暮れたらしく、私達は懐中電灯以外に明かりのない、陰気な玄関ホールに取り残されました。


   ◇


 我々以外に人がいるのはいささか都合が良くないが、文句を言っても詮無いことだ。我々は伊藤圭介の手掛かりとなるものを捜索する、という本来の目的の為に行動を開始した。玄関ホールの壁面を懐中電灯で照らすと、擦り切れた金属の案内板が掛かっていた。ふんふん言いながらあたりをキョロキョロ見ている詠子君を放置して案内板に近づいて見てみると、一階に応接

室、事務室、更衣室、トイレ、二階に書庫、研究室、倉庫、所長室がある事がわかる。外観通り、それほど広くはない建物のようだ。順序良く捜索して帰るとしよう。

挿絵(By みてみん)

 あの地味な女性が向かったのは事務室だろうか。カップルが向かったのは二階への階段方向のようだ。まず我々は、応接室へと向かうことにした。

 一階フロアを四分割する十字路を左に折れ、応接間の扉の前に立つ。そういえば先ほどから虫の声が聞こえないことに気が付いた。靴音がやけに大きく響く。静寂とは程遠い都会暮らしをしていると、こういったとき無性に落ち着かない気分になる。車の音も、家電の振動も聞こえない。文明に打ち捨てられたこの廃墟が、内部に得体の知れないものを孕んでいるように感じられる。      

 後ろで詠子君が唾をのみこんだ音さえ聞こえたような気がした。錆の浮いた真鍮のノブをひねると、扉は不快な軋みとともに、その内側の闇を解放した。

 俺と詠子君。二人分の明りが、応接室内部を照らした。広さは学校の教室二つ分ほど。時を経て埃の堆積したコーヒーテーブルと、中身の腐り果てた布製の応接ソファが饐えた臭いを発している。どうやら従業員の休憩室も兼ねていたようで、他に大きめのスチール製テーブルが配置されている。懐中電灯の光の中に、舞い上げられた埃が踊った。

「もしここが肝試しスポットのようになっているのだったら、人の出入りが多いはずだ。手がかりは、あまり期待できないかもな」

 懐中電灯の頼りない光で、室内をくまなく照らしていくと、視界の端で何かがキラリと光を反射した。

「どうしました? 犬塚さん」

 何かが光った位置、部屋の奥へと、埃を踏みながら歩を進める。あたりを探ると、小さな鏡が床に置かれていた。その鏡はいくつかの支えによって、不自然な角度に固定されている。

「なんでしょうか、これ」

 詠子君が俺の肩越しに鏡を覗き込む。鏡の大きさは掌ほどであった。廃墟にあるわりに、割れてもいないし、埃を被ってもいない。何より奇妙なの

は、その鏡の表面に乾いた血液のような赤黒い塗料で、奇妙な文様が描かれていたことであった。

 アルファベットの『W』に似ている。それほど複雑ではないが、偶然ではありえないだろう。しっかりと固定されていたことを考えると、うっかり落とした、という事も考えづらそうだ。俺はしばし奇妙な鏡を見つめながら思いを巡らせていた。


 突如。


 女性の叫び声が静寂を裂いて廃墟に響いた。長く、断続的に続くそれは、単純な驚きというだけではない。具体的な恐怖の対象を伴ったもののように聞こえた。廊下を隔てて隣の部屋にある事務室から、その叫び声は聞こえてきたような気がした。

「犬塚さん……今の……」

 次いで乱暴に扉が開かれる音、断続的な悲鳴と足音。それが恐慌にもつれながら外へ向かう。

「行くぞ」

 俺と詠子君は応接室を後にし、悲鳴を追って玄関ホールから屋外へと出

た。


 玄関ホールの扉を突き飛ばすようにして開けて外に走り出ると、こちらに向かって走ってきた女性と正面からぶつかった。先ほど玄関ホールにいた地味な女性だ。逃げてきたときに脱げたのか、ヘルメットはしていない。

「いや、いやぁ!どうして……!?」

 その瞳は恐怖で見開かれ、長い髪は乱れて顔面に貼り付いている。俺はその女性を抱き留めた。どうやら完全な恐慌状態にあるようだ。困って詠子君に目をやると、彼女はなぜかこちらを睨んでいる。

「落ち着け。自分の名前を言ってみろ」

 俺は両肩をつかんで揺すりながら地味な女性に呼びかける。

「み、三崎……」

「そうか、三崎さん。何があった?何を見たんだ?」

 三崎と名乗った女性はしばらく唇をわななかせていたが、次第に落ち着きを取り戻し、震えながら、どもりながら途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。

「虫……虫が……私、逃げて……逃げられなくて……」

 今一つ要領を得ない。少し車の中で休ませた方がいいだろうか。いや、今日はもう遅い。いっそ一度出直して……。

「あ……あ……!」

 三崎が目を見開いて俺の背後の空間を見る。彼女の身体は再び強張り、たちの悪い熱病に罹ったようにぶるぶる震え始めた。その視線を追うように、俺も彼女から体を放し、首を巡らせて背後を見る。

 そこに、居たのは。


   ◇


 不埒。

 地味な外見で油断させておいて実はとんでもない女狐ですこの女。犬塚さんの胸に飛び込むとは、私なら考えただけで顔から火が出ます。しかし、なんだか様子が尋常ではありません。自分の影を幽霊と見間違えたぐらいではこんなおびえ方はしないでしょう。ましてや彼女はプロの廃墟探索者です。暴漢やホームレスの類に襲われたにしても、落ち着くのに時間がかかりすぎています。一体何を見たというのでしょう。蛆の湧いた死体? それとももっと悍ましいものでありましょうか。

 次の瞬間。肉の腐ったような臭いが、にわかにあたりに漂い始めました。

 ぞわり。と、うなじの毛が逆立つような異様な気配を感じて、私は背後の廃墟を振り返り、『それ』を目にしました。

 『それ』は人の形をしていました。初めは、裸の人間のように見えたのです。しかし子細に観察すると、表面がいやにでこぼこしています。懐中電灯の光を当てると、その正体がわかりました。

 蛆です。

 いえ、生物学的に蛆かどうかは知りませんが、とにかくそのようなものが人型の表面を覆っているのです。死にかけた人間に大量の蛆が湧いているのでしょうか。いえ、なぜかはわかりませんが、私は直感的に理解しました。理解してしまったのです。

 『それ』は大量の蛆の塊でした。

その塊は、ぼとりぼとりと絶えず蛆をまき散らしながらこちらに向かってきます。まるで人間のように、二つの脚を交互に踏み出しながら歩いているのです。まるで人間のように!

 ただ蛆が集まっただけでそんな器用な芸当ができる道理はありません。右脚の蛆と左脚の蛆が、あるいは全身を構成するすべての蛆が、互いに連携を取り合っているのです。意思を持っているのです。地面に落ちた蛆さえうぞりうぞりと地面を這い、再び塊の一部と化します。

 蛆の湧いた死体でも見たのだろうか、という私の予想は限りなくニアピンでした。しかしそんなものは全くうれしくありません。とんだアタックチャンスです。

 私が動揺して棒立ちになっていると、犬塚さんに襟をつかまれて後ろに引っ張られます。

「あれが何だか知らんが、車に行け。逃げるぞ」

 幸い蛆人間の動きはあまり早くありませんでした。私は三崎さんの手を引いて停めてある車の方へ走りました。犬塚さんもすぐ後ろからついてきま

す。

 私は走りました。息が切れるほど。しかし私はふと、疑問に思いました。

車を停めたのは、こんなに遠くだったでしょうか?

 眼前に建物が見えてきました。私たちが遠ざかろうとしていたあの廃墟です。

「な……なんで……?」

 私がいけないのでしょうか。いくら方向音痴とはいえ、五十メートル余り進む間に百八十度方角を間違うという事があるでしょうか。こうも酷いといくら優しい犬塚さんでも愛想を尽かすこと請け合いです。泣けてきます。私が呆然としていると、三崎さんが肩で呼吸をしながら何やら話しかけてきます。

「出られない。出られないの。私も試した……。でも、ダメだった。もういや……!どうして、どうして……」

 背後から追いついてきた犬塚さんもさすがに動揺しているようです。

「こりゃあ……」

 さらにその背後から蛆人間が迫ります。冷静に状況を分析している時間はありません。我々は建物の裏手方向に走り、この狂気からの離脱を図りました。


   ◇


 結果は同じだった。どの方角へ向かっても、結局は建物の方向へと戻ることになる。あの時、三崎が俺の正面からぶつかってきたのは、そういうわけだったのだろう。この場所から離れられないことはわかった。しかしそれが何故かはわからない。

 狂っている。この状況といい、あの蛆の塊といい、完全に俺の常識の埒外にあった。俺もこの状況と同じように、狂ってしまえればどんなに楽だろうか。これを悪夢と決めつけて、すべてを否定してしまえれば。

 だが、荒い呼吸を繰り返した喉のひりつきが、内側から胸を叩く心臓の鼓動が、残酷にもこれが現実だと告げていた。それに、そばには怯える女性がいる。詠子君がいる。如何に狂った現実であろうと、彼女を、彼女達を守らなければならない。

 考える。混乱した頭で必死に考える。我々がこの建物から離れようとすると、知らずにこの建物に向かっている。つまり、この建物が中心にあるわけだ。何者かが、我々をこの建物から逃がさないようにしている。とも考えられる。理由はわからない。仕組みもわからない。しかしそう考えるのが自然のように思われた。

 しかし、もしこれが仮に、人によって作られた状況ならば。

 人の力によって打破できるはずだ。必ず。

「フゥー……」

「い、犬塚さん?」

 脚を止め、深呼吸で息を整える。蛆人間は得体が知れないが、幸い動きはそれほど速くない。どのような方法で我々を感知しているのかわからない

が、冷静に逃げ回れば捕まる危険はそれほど大きくないだろう。

「この建物から離れられない以上、ただ逃げ回っていても埒が明かない。もしこの現象に原因があるとすれば、建物の中だ。今からそれを探す」

「……もし、原因が見つからなかったら?」

 三崎が不安そうに俺に問う。

「それはその時に考える」

 俺が詠子君の眼を見ると、詠子君も俺の眼を真っ直ぐ見て頷いた。俺の考えるところを理解し、腹をくくったようだ。それでいい。俺は君のそういうところが気に入っている。

 今のところ蛆人間が追ってきている様子はない。我々は周囲を警戒しながら廃墟の正面に回り、不気味な闇が充満する屋内に再び足を踏み入れた。


 再び我々が踏み込んだ屋内に渦巻くのは、夜より昏い闇である。そして、『ここに何かが潜んでいる』、という確かな恐怖が、その闇を一層濃く、粘性のあるものにしていた。

「原因を探す、とは言ったものの……」

 俺は顎をさすりながら考えた。原因はモノなのか、人なのか、両方か、どちらでもないのか。

「さっき見つけた鏡は、関係ありませんかね?」

 詠子君が玄関の方を警戒しながら呟く。我々が先ほど応接室で見つけた、奇妙な文様が描かれた鏡のことだ。

「……それ、私も見ました。事務室で」

三崎が俺の背後で呟いた。先ほどより、幾分落ち着きを取り戻しつつある。

「鏡、か」

 鏡がこの状況に何らかの役割を果たしているのか、どのような役割を果たしているのか。そもそもそんなことが起こりうるのか。今はわからない。だが異常な状況の中に異常な要素があるとすれば、それを原因と仮定したとしてもそれほど無理はなかろう。

 人の形をした蛆の塊。出ようとしても出ることのできない閉じられた空

間。オカルトには詳しくないが、そういった、いわゆる魔術や結界を利用するための媒体として、鏡が使われたりするのだろうか。

 ……魔術や結界という言葉を使うのは、たとえ思考の中であっても違和感がある。まともに生きていれば、まず使う事のない言葉だ。

 だがこの異常な状況を説明するためには、そういう概念を実在のものとして扱うほかない。脳内の辞書を書き換えられる不快を感じながら、俺はさらに考える。

 鏡がこの状況を作り出しているのならば、それを破壊すればよい。三崎も事務室で同様の鏡を見たというから、鏡は複数あるのだろう。蛆人間に追いつめられる前に、それを成さねばなるまい。

 我々は頼りない懐中電灯の明かりを頼りに、闇の中を進んだ。


   ◇


 私達は三人で隊列を組んで廃墟を進みました。先頭に犬塚さん。真ん中に三崎さん。そしてしんがりが私です。今のところ、追手の気配はありませ

ん。周囲を覆う闇は私たちの全身にねっとりとまとわりつき、先ほどまでは感じられなかった悪意を伴って私達の正気を侵します。

 私達は事務室の前にたどり着きました。先ほど三崎さんがあの蛆人間を目撃した部屋です。何という事のない木製のドア。しかし先ほどあり得べからざる恐怖の体験をした私たちにとっては、それは狂気そのものの入り口のように思われました。ドアを開ける際のぎいぎいという軋みさえ、もはや失われた日常の断末魔のように聞こえます。

 私達は脱出の手掛かりを求めるべく、事務室の内部に足を踏み入れまし

た。部屋の広さは応接室とほぼ同じくらいでしょうか。十数ある事務机、椅子、書類を保管するキャビネットが埃に覆われたまま放置されています。

 私は恐怖をかき消すように、この部屋が使われていた当時の姿を思い浮かべました。さわやかな風が吹く山中の事務室でデスクワーク。周囲に食堂などはないので、きっと皆手弁当などを持参するのでしょう。おそらく残業などとは無縁ののんびりとした職場であったに違いありません。

 日々都心の汚れた空気の中、色味のないアスファルトの上を駆けずり回っている私達としては羨ましい限りです。

 しかし、いつまでも現実逃避をしているわけにはまいりません。三崎さんの記憶を頼りに私達は件の鏡を捜索します。それほど広くはない室内。やがてそれは見つかりました。

 鏡はやはり人間の掌ぐらいの大きさで、表面に文様が描かれている点も私達が見たものと同様です。数本の支柱によって奇妙な角度に固定されたそれは、やはり何らかの意図をもって配置されたもののようでした。

「結界、でしょうか」

 鏡を見ていた三崎さんが呟きます。さすがプロの廃墟探索者だけあって、オカルト的知識にも一日の長があるようです。私達がこの場所を離れられないのは、この廃墟を中心に貼られた結界のせいで、この鏡はそれを構成する一部分だ、とそういう趣旨の発言を、外見同様の地味なトーンで行いまし

た。

「つまり、これを壊せばいいんだな?」

 犬塚さんはすでに手に拳大の瓦礫を握っています。三崎さんがこくりと頷くと、犬塚さんは至近距離から鏡に向かってそれを投擲しました。

 ぐわん。と周囲の空気、いえ、空間自体が震えたような気がしました。犬塚さんが投擲した瓦礫は奇妙にも鏡の中に吸い込まれ、たように見えましたが、どうやらそれは幻覚だったようです。一瞬ののちに鏡は粉砕され、赤い塗料の付いた破片が飛び散りました。

 三崎さんの知識と、犬塚さんの判断はおそらく正しかったのでしょうが、なんだか引き返すことのできない領域に足を踏み入れているような感覚に陥り、私は言いようもなく不安な気持ちになりました。

「……まず一つ」

 犬塚さんが確かめるように言いました。彼もきっと不安でありましょう。誰よりも常識的で、真面目なお人です。この非常識な状況の連続、混乱せぬはずがありません。逃げ出したい恐怖と戦っているのかもしれません。しかし自らに課した使命感と、私達に対する責任感を持って踏みとどまっているのでありましょう。感情表現の乏しい犬塚さんではありますが、その悲壮が感じ取れぬほど、私達は浅い付き合いではありません。


   ◇


ぐわん。

 事務室を後にした我々は、次いで応接室で二つ目の鏡の破壊にも成功し

た。しかし依然として周囲の闇は粘つく狂気を孕み、鼓膜を突くような静寂が我々の不安を増幅させている。

「これで、出られるんでしょうか……?」

 詠子君が不安そうに言った。

「いえ、結界を構成するには二つでは足りません。少なくとも、三つ……」

 三崎が床の埃に一本の線を描く。結界とは、領域。二次元の領域を構成するには点が最低でも三つ必要、ということらしい。

 俺は玄関ホールにあった案内板に描かれていた部屋の配置と、二つの鏡の位置関係を重ね合わせた。今までに破壊した二つの鏡はいずれもフロアの左側。その二つを線で結び、正三角形を成すようにしてもう一つの頂点の位置を推測すると……。

「トイレ、だな」

 次の地点に向かうべく俺は踵を返したとき、ふと足元でかさりと音がし

た。懐中電灯を向けると、埃にまみれた紙切れが落ちている。

 状況を考えれば、そんな物は無視して先に進むべきなのだ。しかし俺は何かを感じて、その紙切れを拾い上げた。懐中電灯の光を当てて表面を見てみると、文字が書かれている。不安定な場所で書かれたためか、書き手の心情を反映したのか、大部分がひらがなで書かれた文字は、線が震えて読みにくいことこの上ない。


 きょうふをあおるいたずらではない。

 りゆうをせつめいすることもできない。

 このメモをみた人は、すぐにこのたてものからにげろ。


 恐怖を煽るイタズラではない。

 理由を説明することもできない。

 このメモを見た人は、すぐにこの建物から逃げろ。


 俺は声に出してその文を読む。声が静寂を振るわせて廃墟に響く。

「なんですか……? そのメモ」

 詠子君が不安そうにこちらを見る。仕事とはいえ、彼女を危険な目に遭わせてしまっている。やはりあの時出直すべきだったのだ。いや、今更悔やんでも仕方がない。必ず、彼女を無事に返さなければ。

「忠告のようだ。……残念ながら、我々はそれを生かせなかった」

 俺はメモを丁寧に畳んで胸ポケットに入れると、底のない不安の沼に捉えられぬよう、自らの足取りを確かめながら応接室を後にした。

 案内板によれば、フロアを四分割する十字の廊下の右端やや上。予測が正しいのなら、そこに三つ目の鏡があるはずだ。

 

 応接室を出て、フロアの中央、縦横の廊下が交差する場所に立つ。四方から押し寄せる闇は依然として沈黙を保ちながら、我々の正気を押しつぶさんと不気味な圧力を持って迫ってくる。

 前方を懐中電灯で照らすと、塗装のはがれた壁面が丸く浮かび上がった。正面の廊下は壁によって広い通路と狭い通路に分けられている。狭い通路の左壁面手前に男子トイレ、奥に女子トイレ、それぞれへ通じる扉がある。

 我々はまず狭い通路を進んだ。通路は人がようやくすれ違える程度の幅しかない。先頭に俺、間に三崎を挟み、最後尾に詠子君。一列になって慎重に前進する。俺はふと、この廊下が昏い昏い深淵に通じているような錯覚に陥る。俺はしっかり地面に立っているのだろうか。平衡感覚すら確かではなくなってきた。

 当然、廊下が深淵へと至るはずもなく、すぐに我々は壁に突き当たった。俺が目線を下げると、果たして三枚目の鏡はそこに在った。埃にまみれた床に鎮座するそれはやはり真新しく、この状況の人為を感じさせずにはいられなかった。


   ◇


 ぐわん。

私達は三つ目の鏡の破壊に成功しました。これでこの陰気な廃墟ともお別れです。早く帰って、犬塚さんと紅茶でもしばきたいものです。

 しかし、廃墟は奇妙な沈黙を保ったままです。この廃墟に閉じ込められる前に聞こえていた、虫の声や風の音がしないのです。

 外界の音が聞こえないのは、私達がこの廃墟から離れられない原因であ

る、あの奇妙な結界のせいだとばかり思っていたのですが、私の勘違いだったのでしょうか。それともまだ結界は健在で、私達はこの廃墟に捉えられたままなのでしょうか。


 ぞわり。


 私は再びうなじの毛が逆立つような不気味な気配を感じました。ああ、最悪です。最悪のタイミングです。私が背後を振り返ると、狭い通路の入り口に蓋をするように蛆人間が立っていました。その身の毛もよだつ醜悪な肉体を狭い通路いっぱいに広げ、腐臭を纏いながら、我々を逃がすまいとゆっくり近づいてきます。この機会を狙って、今まで身をひそめていたのだとしたら、何と狡猾な存在なのでしょうか。万事休す。

「ヒッ……!」

 三崎さんも怪物に気付きました。我々二人に視界を遮られているでしょうが、犬塚さんも状況を察しているでしょう。私は覚悟を決めて、ポケットからとうがらしスプレーを取り出して構えます。こんな防犯アイテムではよもや差し違えることはできないでしょうが、一矢報いるくらいはできるはずです。ああ、死ぬ前にもう一度故郷の海が見たかった。

「こっちだ! 早く入れ!」 

 私が人生の良き思い出をぐるぐると思い出しておりますと、背後で犬塚さんが叫びました。犬塚さんはすぐ横にあった女子トイレの扉を開き、私達を中に招き入れます。しかし、袋のネズミであることに変わりはありません。

 女子トイレは建物の規模の割に広く、腐った水とカビたタイルの臭いが充満しています。犬塚さんはどこかに置いてあったのか、朽ちかけたモップを握っています。

「どうするつもりですか?」

 私が犬塚さんに尋ねますと、彼は油断なく扉を見据えたまま答えます。

「ギリギリまで引きつける。この広さがあれば横をすり抜けられるだろう。俺が一撃食らわせたら、すぐに逃げるんだ」

「犬塚さんはどうするのです」

 問答している間にも、蛆人間は扉のすぐ外まで迫っています。少し開いた扉の隙間から、うねうね動く蛆が覗きます。

「……心配ない」

 モップを握る犬塚さんの手は、青筋が浮かぶほど強張っています。ああ、なぜ犬塚さんはそれほど悲壮なのでありましょうか。私にその強さの半分でもあったならば、貴方一人に重荷を負わせたりはしないのに。

 私は自分の無力さを噛みしめました。しかし他にいい策も思い浮かびません。もしも無事に帰ったならば、おいしい紅茶を淹れてあげますからね。

 蛆人間が扉を押しあけて私達に迫ります。彼我の距離、約二メートル、

一・七メートル、一・五メートル。近づくほどに、彼の者の不気味な全貌が懐中電灯の光の中に浮かび上がります。その身体を構成する蛆の一匹一匹

が、吐き気を催すような不規則性で蠢きます。

 蛆人間が犬塚さんの間合いに入りました。

 気合一閃。確かな踏込みとともに犬塚さんが蛆人間に右方向からモップを叩きこみます。その瞬間、蛆達のうねりが一層激しさを増し、体にたたきつけられたモップの柄を伝って、うぞぞぞぞぞぞ、と犬塚さんの手元に迫ります。

 「行けッ!」

 犬塚さんが叫びました。私も動揺して立ち尽くしている訳にはまいりません。犬塚さんが打ち込んだ右方向。わずかに人が通れるくらいの隙間が空きました。私は三崎さんの手を引いて走り抜けます。死に物狂いで扉を開いてトイレの外に転がり出た私と三崎さんは、そのまま廊下を走り、玄関ホールを通って外に飛び出しました。恐怖と緊張で息がうまく出来ません。心拍が耳のすぐ後ろで聞こえます。半狂乱で屋外に出た私は、少し離れた位置から廃墟を振り返ります。犬塚さんが追ってきていません。ああ、犬塚さん!


   ◇


 蛆人間に渾身の力で打ち付けたモップは、わずかにめり込んで止まった。腐りきった生肉を打擲したらこんな感触がするだろうか。奇妙な弾力が腕に伝わる。彼の者が纏う腐臭が弾ける。モップによる打撃で、身体を構成する蛆の幾匹かは死んだだろうが、全体として損傷を与えるには至らなかったようだ。めり込んだモップは蛆人間の身体に強靭な力で捉えられ、再度打ち込むことはおろか引き抜くことさえできない。しかし一瞬の時間を稼ぐことには成功したようで、詠子君と三崎は蛆人間の脇をすり抜けて、トイレの出口に到達した。

 二人の脱出に気を取られていた俺は、モップを伝って素早く這ってくる蛆に気が付かなかった。無数の蛆達は一瞬で俺の手に取りついた。至近で見ると、通常の蛆よりも大きい。小指の半分ほどの太さがある。

「痛……ッ」

 ぞぶり。と蛆達が俺の手の肉を食んだ。生きた人間の肉を食うのか。いよいよもって普通の蛆ではないようだ。痛みと驚きでモップを持つ手を放し、手に取りついた蛆達を払いながらトイレの扉に駆けつける。蛆人間に捕捉されなかったのは全く僥倖というほかない。予想外の反撃に驚いたのだろう

か。

 何とか廊下に出て、フロアの中央まで退避する。窮地を脱すると、恐怖と緊張で胸が悪くなってきた。脚や背中に蛆が付いていないか執拗に点検す

る。蛆が取りついた手は皮膚が食い破られ、血が滲んでいる。もし、アレに全身を覆われたならば……。生理的で原始的な嫌悪感でいよいよ吐きそうになる。

 よろよろと屋外にまろび出ると、詠子君が泣きそうな顔をして抱きついてきた。

「うわああ。犬塚さん。死んじゃったのかと思いました」

 奥には三崎もいる。二人とも無事だったようだ。しかし油断するのはまだ早い。今は一刻も早く、この狂気渦巻く廃墟から離れなくては。

 我々の周囲に風はなく、木々の葉擦れや虫の声も聞こえない。屋外に出ると、なおの事その違和感が強い。静寂が耳孔を通って脳を侵しているような感覚を覚える。

「すまない。心配をかけたな。……行くとしよう」

 我々は廃墟から離れる。実に長い一日だった。伊藤圭介の手掛かりをつかむことはできなかったが、また昼にでも出直せばいいだろう。少なくとも夜より危険は少ないはずだ。念のため、殺虫剤でも買い込んでおけばよい。

 割れたアスファルトを踏んで停めた車の方へ向かう。詠子君も危ない目に遭わせてしまった。こんど駅前のケーキ屋で何か買ってやるとしよう。

 あの木の陰に車を停めたはずだ。暗闇の中にぼんやりと、


 蛆だ。


 ああ。ああ。

目の前にいたのは、あの悍ましい、不規則にうねり、生白い体躯が、こちらに、手を伸ばして、なぜ、なぜ。

「犬塚さん!」

 棒立ちする俺の背中に詠子君が飛びつき、蛆人間から引きはがす。済んでのところで自分に伸ばされた腕から逃れた俺は、驚愕のまま三歩四歩と後ずさる。蛆人間の背後にあるのは、あの忌々しい廃墟だ。我々はまた戻ってきてしまったのだ。逃れられなかったのだ。この恐怖から。この狂気から。

「嫌……いや……!」

 三崎が逃げようと後ずさり、転倒した。その足元に蛆が殺到する。足首が蛆で埋まる。ふくらはぎ、大腿部。下半身を蛆で覆われた三崎はその身体を強靭な力で引きずられる。

 俺は彼女に手を伸ばそうとした。彼女が俺の方に伸ばした、その手を引こうとした。確かにそう願ったはずなのだ。だが俺の身体は硬直して動かなかった。運動神経がゴムひもになってしまったように立ち尽くす。

 彼女は悲鳴を上げていただろうか。俺には聞こえなかったが、おそらく上げていただろう。感覚神経も狂っていたのだろうが、いやにはっきりと聞こえてきた音があった。ぐずり、と蛆が彼女の肉を破る音。さりさり、と蛆が彼女の骨を噛む音。やがて顔まで蛆に埋まり、それを吸い込んだ彼女がえずく音、嗚咽する声。

 ぐうう。と妙な声が俺の口から洩れる。もし、詠子君が俺の手を引いてくれなければ、そのままいつまでも棒のように立ち尽くしていただろう。

 

 それからしばらく記憶がはっきりしない。詠子君に手を引かれていたような気がする。気が付くと廃墟の玄関ホールの中にいた。詠子君が俺の正面から眼を見据えている。

「しっかりしてください」

 彼女は軍手を外し、その柔らかい手で俺の頬を挟む。人の体温だ。体表から引いていた血が、再び巡り始めた。十秒ほどもそうしていただろうか。意識が次第に焦点を結び、思考が再び意味を紡ぎ始める。

「……すまない」

「謝らないでください。犬塚さんは間違っていません。それに、私をもっと頼って下さい」

「三崎さんを救えなかった」

「救えなかったのは私も同じです。自分一人で背負わないでください。私はまだ頼りないかもしれませんが、貴方の相棒じゃないですか」

 ああ、君は本当に強い女性だ。俺は君を護ろうとしていたが、知らぬ間に君に救われていたのかもしれない。

 安息など望めぬ闇の中、二人でしばし息を整えてから、我々は再び生存のための方策を探ることにした。


   ◇


 犬塚さんが脱魂してしまった時はどうしようかと思いましたが、ようやく正気に返ってくれたようです。私が彼の瞳を見つめるうちに、その鳶色の双眸に、再び堅固な理性と、強靭な意志が宿りました。私達は逃げ込んだ闇の中で、身を寄せ合って互いの正気を温め合います。

 ……しかし、三崎さんが命を落としてしまいました。彼女の悲鳴が今でも耳に残っています。出会ったばかりの私は、彼女のことをよく知りませんでした。しかし彼女がどのような人間であれ、あのような悲惨な最期を遂げていいはずがありません。怒りと、悔しさと、悲しさがないまぜになった感情が下腹部あたりに渦巻きます。

「私達も、食べられちゃうんでしょうか」

 犬塚さんは黙って考え事をしています。こういう時はあまり邪魔をせぬのが、気遣いのできる相棒というものです。早々に冷静さを取り戻すあたり、さすが私の頼れる犬塚さん。私などはまだ膝がカクカク笑っているというのに。顎に手を当て、彼特有の渋い表情でひとしきり黙考した後、犬塚さんはおもむろに地面にしゃがみ込み、埃の上に正三角形を描きました。

「ほぼ正三角形に配置された三つの鏡。すべて破壊したと思っていたが…

…」

「ほかに鏡がある、と?」

 私がそう尋ねると、犬塚さんはやや不敵に口元を緩めました。

「ない。……この平面上にはな」

「? どういうことですか?」

 平面とか幾何学とか形而上学とか、そういう言葉を犬塚さんはよく使います。抽象的な表現に疎い私は、いつもなんとなく解ったようなフリをするのですが、命のかかったこの状況では、そんな一時しのぎは使わない方がよさそうです。

「覚えているか。三つの鏡はすべて妙な角度に固定されていた」

 思い返してみますと、確かにそうです。三つの鏡はすべてその面が斜め上を向くように固定されておりました。犬塚さんは地面に描いた正三角形の中心をさし示した指を、その上の空中に移動させました。

「つまり、三角形じゃない。三角錐だ。……二階にもう一つ、何かある可能性がある」

 ピラミッドの底を三角形にしたような立体。その頂点に、この状況を打破する何かがある。と犬塚さんは睨んでいるのでした。千尋の絶望に叩き落とされた中で見出した、一片の希望。それは可能性と呼ぶにはあまりに儚いものでしたが、私達を再び奮い立たせるには十分なものでした。

 私達は玄関ホールの扉を開き、重苦しい闇の跳梁する廊下をまっすぐ進みます。やがて懐中電灯の丸い光明に浮かび上がった二階への階段が見えました。果たしてそれは、私達が再び安寧へと帰還するためのステップになるのでしょうか。それとも、悲惨な絶望への踏み台になるのでありましょうか。

 一歩一歩、階段を上るたびに遠ざかる一階のフロアは、二度と戻れぬ日常のようにも思えます。我々の足音、息遣い以外聞こえぬ不気味な静寂。しかし、さんざん狂気に揺さぶられた私の感覚器官は、廃墟の屋外に打ち捨てられた三崎さんの魂の呼び声を、幻聴としてとらえたような気がしました。

 階段を上りきると、短い廊下に出ました。壁の塗装は剥げ落ち、荒廃した雰囲気は一階と大差ありませんが、気のせいか若干小奇麗な印象を受けま

す。ここにも当然懐中電灯以外の明かりはなく、目蓋にのしかかるような闇が高濃度で立ち込めています。左右と奥に、一つずつ扉がありました。案内板によれば、……案内板によれば……。

「左が倉庫、右が書庫。奥が研究室か」

 犬塚さんの空間把握能力と記憶力にはまったく脱帽です。もはや男脳女脳などという次元ではありません。

「四つ目の鏡は、奥の部屋でしょうか」

 犬塚さんは重々しく頷くと、こつりこつりと慎重に廊下を進みます。突き当りにある木製のドアには、『研究室』と書かれた金属のプレートが掛かっています。狂気を孕んだ廃墟の深奥、渦巻く闇の胎内への入り口。傍らで犬塚さんが扉の奥を警戒します。私は粘つく唾液を無理に飲み下すと、ドアノブに手をかけます。

 ガチャガチャ。施錠されていました。拍子抜けです。

「ありゃ」

 困りました。しかし今まで施錠されている個所などありませんでした。ここだけ施錠されているというのは、何か意味があるのでしょうか?

 やむなく私達は右の扉から書庫に入り、そこから研究室内への侵入を試みることにしました。廊下を取って返し、『書庫』のプレートが掛かったドアのノブに手をかけます。緊張再び。ここで私は不意に、あることを思い出しました。

 そういえば、初めに玄関ホールで見かけた、あのカップルはどうしたのでしょうか?

  

   ◇


 書庫に入ると。異臭が鼻を突いた。今までこの廃墟の中で嗅いだ、埃や、布の腐った臭いではない。本能的な危機感に訴えかける臭い。鉄分を豊富に含んだ有機物の臭い。

 血だ。血の臭いがする。

動悸が再び高まる。傍らの詠子君と視線を交わす。周囲の闇と心中の不安

が、再び粘度を増して思考にまとわりつく。何かがある。もしくは何かがあったのは間違いない。しかし、進まないわけにはいかなかった。我々は意を決して室内に踏み込んだ。

 スチール製の書架が並ぶ室内は、先ほど探索した応接室や事務室よりもやや広い。先ほどのように袋小路に追いつめられることもなさそうで、ひとまず最低限安全な空間のようだ。背後に寄り添う詠子君に気を配りながら、部屋の奥に進む。血の臭いが徐々に濃くなる。

 そして部屋の隅にそれはあった。まず視界に入ったのは血だまり。次いでその奥に横たわる体。背後の詠子君が小さな悲鳴を上げて俺の肩を強く掴

む。

 出血量から見て、すでに命はないだろう。刑事時代に死体を見たことはあるとはいえ、完全に慣れるものではない。ましてこの異常な状況。動揺は隠せない。

 しかしそれでも、枯渇しかけた意志と擦り減った理性を動員して、なんとかその場に踏みとどまる。大きく一度、生臭い空気を呼吸してから死体を詳細に観察する。

 死体は男性。うつぶせ状態になっており、胴体部分に傷は見えない。玄関ホールで見かけたカップルの片割れに間違いない。上半身を観察すると、首のあたりが激しく損傷している。見たところ、刃物のようなもので頸動脈を断たれたのか。おそらくこれが致命傷だろう。こちらを向いた顔の表情は驚愕に見開かれ、己に降りかかった不条理な死の理由を問うている。

 殺人、と見ていいだろう。警察に連絡を、と思い出したように俺は自分の携帯電話を取り出す。圏外。諦めてポケットに戻す。だいたい、警察を呼んだところで、ここから出られないのなら意味がない。

 やはり、結界を構成する最後の要は、奥の部屋にあるのだろうか。念のため書庫の入り口の方を振り返る。しかし異次元から滲みだしたような、濃密な闇が漂っているだけで、もうここには何もありそうもない。第一、生臭い空気をこれ以上呼吸するのは耐えられない。我々は早々に部屋の奥、研究室へ続く扉に手をかけた。鍵はかかっていなかったようで、不快な軋みとと

も、深奥への道が開いた。


 踏み入った研究室は、今まで入ったどの部屋よりも広い。実験用と思われる大きなテーブルが四つほど配置されている。実験器具の類はすべて撤去されているようで、殺風景極まりない。もっとも今の精神状態では、部屋のインテリアに気を配る余裕などあろうはずもないが。しかし、書庫の扉からこの部屋に入った我々のすぐ左。そこに在った異様な物体が俺の目を引いた。

ガラス玉、のように見える。ただその内側には、周囲の闇よりなお昏い暗黒が渦巻いている。懐中電灯の頼りない光は、その内側を照らすにはあまりに儚く、長く見つめているとまるで盲になったかのような感覚に陥る。内側に湛えた深淵には幾筋もの赤い筋が入り、まるで脈動するように明滅してい

た。

 その暗黒のガラス玉が、低い台座に固定され、まるで御神体のように鎮座している。

 俺は直感した。これこそが、我々をこの狂気に捉えた悪意の結晶。空間を捻じ曲げる結界の要石なのだ、と。しかし、このガラス玉には人を捕える奇妙な魅力があった。詠子君も同様のようで、我々はこの奇妙な球体にしばし見入った。

 バタン。

「いやぁぁぁぁぁ!」

 突如として、我々の右側、所長室にあたる部分のドアが開いた。驚いた我々が懐中電灯を向けると、女性がおびえた様子でこちらに走ってくる。玄関ホールで見かけた、あの派手な女性だ。彼女も我々と同様、恐ろしい目に遭ったのだろうか。彼女は真っ直ぐこちらに向かってくる。保護すべきだろうか。先ほど見捨ててしまった三崎の姿が重なる。


 いや。


 俺はとっさに懐中電灯を握り直し、突き出された彼女の右腕を払う。ガチンという金属音。光輪の中、彼女の手に握られた白刃が煌めいた。


   ◇


 危ないところでした。怯えて走り寄ってきたと思いきや、手に持ったサバイバルナイフで犬塚さんに突きかかるとは。しかしそこは幾多の修羅場をくぐってきた彼のこと。殺気を感知したのでしょう。懐中電灯で鮮やかに刃を受け流します。勢い余った彼女は二、三歩よろめいて実験机にもたれ掛ります。

「あらら、結構鋭いのね。あのチャラ男とは大違い」

 私は背筋が寒くなる思いがしました。懐中電灯の光に照らされた彼女の表情が、まるっきり狂人のそれならば、まだ理解ができたでしょう。しかし、犬塚さんを刺し損ねて残念がる彼女はまるで、昼食のパスタ作りに失敗したような軽い様子であったのです。

 私は直感します。右手に刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフを持

ち、左手で長い髪をかき上げる彼女が、おそらく一連の狂気を作り上げたのでありましょう。我々を閉じ込め、蛆人間を放ち、三崎さんと書庫の男性を殺したのです。それなのにまるで、休日の昼下がりのような気だるげな雰囲気を放っています。

 ここが平和なマンションの一室であったなら、彼女の態度は自然なものでありましょう。しかしこの荒廃した廃墟の中、恐怖渦巻く状況の中で取られる態度としては、全く異常というほかありません。

 私の視線に気づいたのでしょう。ナイフを持った彼女がゆらりと視線をこちらに向けます。

「あなた、可愛いわね。……素敵な悲鳴を上げてくれそう」

 にやり、と彼女が笑いました。その瞬間、周囲の闇がにわかに粘性を増

し、空気中に腐臭が漂い始めました。私達が何度も嗅いだ、あの臭いです。

 ひたり、と私の左側、ガラス玉の方で音がしたような気がしました。とっさにそちらに目をやると、ガラス玉の暗黒から、無数の蛆が零れ落ちるように這い出てきます。それは瞬く間に塊を形成していきます。

「ひぃぃ」

 私は情けない悲鳴を上げて、部屋の隅へと逃げます。ナイフを持った彼女はそんな私を目で追い、にやにやと笑い続けています。彼女が私の方を顎でさし示すと、体を成した蛆人間がゆっくりと歩み寄ってきます。恐怖に駆られて、持っていた懐中電灯、履いていた右の靴、左の靴を彼の者に投擲しますと、それは蛆人間の身体にずぶりと埋まり、取り込まれてしまいました。当然損傷を受けた様子はありません。

「待て」

 犬塚さんの決然とした声が闇に響きました。女がふと笑みを消し、蛆人間も動きを止めました。

「なぁに?」

「聞きたいことがある」

「彼氏はいないわよ? さっき死んだから」

「ここから出られないのはお前の仕業か」

「そうね」

「その怪物で三崎を殺したのもお前か」

「三崎っていうのがあの地味な女の事なら、たぶんそうね」

 女はゆるくウェーブした自分の髪の毛を指でくるくるといじりながら、興味なさ気に答えます。

「……一つ、提案がある。俺の事は好きにしていい。だから、そこの彼女を逃がしてくれないか」

「…………」

 私のいる位置から女の表情は見えませんが、きっと驚いたような顔をしたのでしょう。一拍置いて、女は弾けたように笑い始めました。ひとしきり笑った後、涙をぬぐうような動作をして、女は言葉を継ぎます。

「ああ、そういうのってすごく感動的。いいわよ。あなたが惨たらしく死んでくれたら。彼女は助けてあげる」

 この、精神異常の快楽殺人者にそんな提案が意味を持つとは思えません。犬塚さんを惨たらしく殺した後、私も殺すに決まっています。あるいはあえて犬塚さんを生かしたまま、私を惨たらしく殺す。そんな趣味の良さすら持っているかもしれません。犬塚さんも、まさか彼女が提案を飲むとは思っていないでしょう。時間を稼いでいるのでありましょうか。

 もしそうなら、その稼いだ時間を使えるのは、私だけです。

「なぜこんなことをする」

「あなたは水を飲んだり、食事をしたりするのに、いちいち理由を考えるの?」

 靴は先ほど脱いで投げました。忍び足で移動すれば音はほとんど立たないでしょう。

「人を殺すのは、水を飲むのと同じか」

「夏の終わりには、無性に喉が渇くの」

幸い、私は女の視界からは外れています。蛆人間は先ほどから動く様子がありません。

「殺された人間の気持ちを考えたことがあるか?」

「ライオンは、狩られるガゼルの気持ちを考えたりするのかしら」

 ゆっくりと女の背後に回ります。彼我の距離は約三メートル。ポケットを探ってとうがらしスプレーを取り出します。逃げ回っているうちに落とさなかったのは幸運でした。

「ライオンか。ライオンのドキュメンタリーを見たことがあるか?」

「テレビなんてつまらない。今みたいなぞくぞくするような状況に比べた

ら、ずっと」

 蛆人間がゆっくりと動き出して、犬塚さんに近づきます。女の注意は今や完全に犬塚さんに向いています。私が失敗すれば、犬塚さんは死ぬでしょ

う。恐怖に萎えそうになる意志を、暗褐色の怒りで塗りつぶします。断じて、殺させたりするものですか。

「ライオンの狩りはいつも必死だ。時には何日も成功しないこともある。ガリガリに痩せたライオンに、サバンナの王者の風格はない」

「何が言いたいのかしら?」

 私は女のすぐ背後に迫ります。とうがらしスプレーを右手に構え、姿勢を低くしてスキを窺います。

 「つまり」

 女の注意が緩んだ瞬間、私は猫のように跳躍して女に跳びかかりました。左腕で首に手を回し、右手に持ったスプレーを彼女の鼻のあたりで噴射します。

 んぐぅ。と妙な声を上げて女が悶絶します。このとうがらしスプレーは、以前護身用にと犬塚さんからもらったものです。吹きかけられれば、大の男でも数分は痛みのあまり身動きできなくなるような代物です。まして至近での噴射。想像するだけで色々な汁が出そうです。

 「獲物を前にして油断しないということだ。今のお前のように」


   ◇


 詠子君はこちらの意図を察してくれたようだ。スプレーをしこたま吸い込んだ女は激しく噎せ、咳き込んだ。予想していた通り、蛆人間も女の意識と連動していたのだろう。突如統制を失ったようにざわめいて形が崩れ始め

た。

 今こそ好機、と俺は女との距離を詰める。涙と鼻汁で顔をぐしゃぐしゃにした女は、左手で目を覆い、右手に構えたナイフを虚空に突き出している。間合いに飛び込んだ俺は、懐中電灯を放り、女の右腕を掴む。警察学校時

代、柔道は苦手だったが、これだけは人一倍得意だった。

 一本背負い。相手の腕をつかんで体を反転させ、腰を落として相手を担ぎ上げる。叩きつける先は畳でもマットでもない。瓦礫の散乱する硬い床の上だ。引手、つまり相手の腕を持っていれば、投げられた相手は頭を床に打ち付けなくて済む。ただそういった情けをかけるには、俺は少々追いつめられすぎた。

 あっ、と声を上げる間もなく女は後頭部から床に落下した。頭蓋が固いものと衝突する音が廃墟に響いた。

 残心。女が起き上がってくる気配はない。蛆人間の様子を窺うと、蛆の一匹一匹が算を乱してうごうごしている。見ていると、蛆人間の足元にじわりと暗黒が広がった。そして沼に沈むようにして、蛆人間はその中へ消えて行った。彼の者が居るべき、深淵へと還ったのであろうか。

 再び女の様子を確認する。死んではいないようだが、しばらく目を覚ますこともないだろう。詠子君はとうがらしスプレーを少し吸い込んだらしく、座り込んで目をごしごしこすっていたが、大した怪我もなく無事のようだ。

 俺はふと、暗黒のガラス玉のことを思い出した。

 床に落ちていた懐中電灯を拾い、詠子君の手を取って立たせてから、俺は床に鎮座しているガラス玉と対峙した。相変わらず内部に深い暗黒を湛え、赤い筋が脈動するように明滅している。

 俺は、幼児の頭ほどのそれをゆっくりと持ち上げ、投げおろした。

 ガツン。と床に叩きつけられたガラス玉は、ほとんど真っ二つに割れた。内部に湛えられていた暗黒がどろり、と滲み出し、空中にほんの少しだけ留まった。その中から、赤く輝く三つの眼が不意に焦点を結び、こちらを覗き込んだ気がした。しかしそれは一瞬の事で、しみ出した暗黒は、すぐに周囲の闇に散っていった。

 気配を感じる。

 しかしそれは今まで感じた、腐臭を伴う悍ましいものではなかった。夏の終わりを憂う虫の声、屋外を吹く生ぬるい風の気配だった。

「終わった、のか」

 全身から力が抜けて、俺は床に座り込む。しばらくそうしていると、今度は詠子君が立たせてくれた。こちらに手を差し出してニッコリと笑う。

「帰りましょう。犬塚さん。……ああ、手から血が出てますよ」

「そういう君こそ、ひどい有様だ」

汗と埃で顔が汚れているし、髪型もすっかり乱れてしまっている。蛆人間に投げつけた靴は、その辺りに転がっていた。俺を立たせた彼女はそれを拾って再び履く。

「でも、この通り無事です。犬塚さんが守ってくれたので」

 無理して笑わなくていい。怖かったろう。逃げ出したかったろう。でも君は逃げなかった。勇敢に立ち向かって、生き残った。君は本当に頼りにな

る、俺の相棒だ。

 

 我々は屋外に出た。湿気を含んだ九月の風が肌を撫でる。葉擦れの音が聞こえる。割れたコンクリートの上を歩いていくと、停めた車があった。近くに別の車とバイクが停めてある。救えなかった命。苦い思いが心中に広が

る。

 俺は思い出したように携帯電話を取り出す。時計の時刻は九時ちょうど。廃墟にたどり着いてからたった三時間しか経っていなかった。警察に電話をかけ、詠子君と共に車の中に入る。エンジンをかけ、クーラーを作動させてリクライニングを倒す。警察が到着するまでしばし休もう。今はとにかく、疲れた。


   ◇


 結局、三崎さんの死体は見つかりませんでした。そして、女は殺人容疑で逮捕されました。研究室の奥にあった所長室からは、今までの被害者達の遺留品と思われる品物が大量に見つかり、殺人を記録した犯人の手記も見つかりました。我々の捜索対象であった伊藤圭介氏の品物も、そこで見つかりました。彼もまた、被害者の一人であったのでしょう。

 ただ、あの奇妙な結界や怪物についての真相はわからぬままです。あの女はおそらく起訴され、収監されるでしょう。しかしあの悍ましい魔術を用いて、牢から出てくるのではないか。晩夏の渇きと共に、再び社会に狂気を振りまくため、戻ってくるのではないか。そんな不安が、私にはどうしても拭えませんでした。

 しかしともかく、私達は生きて帰りました。


 翌日から私は三日間仕事を休みました。気が張っていた時は気付きませんでしたが、精神的に相当深い傷を負っていたようです。好物も喉を通らない有様で、暗闇の中に、あの蛆の幻影を見ることすらありました。

 例の廃墟に入る前、犬塚さんが定食屋で言っていた言葉を思い出します。

『俺達の知らないどこかに、深くて大きな穴が開いていて、皆そこに落っこちているのかもしれない』

 私の知らなかった、日常のすぐそばに潜む深淵。気付かなければよかったのに。知らぬまま、安穏と過ごしていられれば良かったのに。

 ですが、私は知ってしまいました。悍ましい真実の一端を。足を踏み入れてしまいました。狂おしい真理の入り口へ。もし、救いがあるとすれば、それが私だけではない、という事でしょうか。犬塚さん。あなたは今どんな気持ちでいるのでしょうか。どんな気持ちで、己の内に芽生えた暗闇と、対峙しているのでありましょうか。

 そんなことをつらつらと考えていると、住んでいるアパートの呼び鈴が鳴りました。自主休業三日目にして、ようやく芽生えてきた気力を支えに玄関を開けます。すると、駅前のケーキ屋の箱が、ビニール袋に入れられてドアノブにぶら下がっています。箱の表面には、マジックで『犬塚』とだけ書いてありました。

 おそらくいろんな配慮の上で、こういう行動をとったのでしょう。たしかに、何の用意もなく犬塚さんと顔を合わせたならば、私もどんな表情をすればよいか途方に暮れたことでしょう。本当に、気遣いのできる男性です。

 のろのろとケーキを回収し、お皿の上に載せてみます。クリームやスポンジが層になったチョコレートケーキです。フォークですくい。一口食べま

す。

 甘くておいしい。のですが、どこか、以前と違うような気がします。まだ気力が萎えているせいでしょうか。それとも、あの体験を経て、私の中の何かが、決定的に失われてしまったからでしょうか。

 それでも、犬塚さんが買ってきてくれたケーキを、ぱくぱくと口に入れていきます。口に入れたケーキに押し出されるように、涙がぽろぽろとこぼれてきました。こんな風に涙を流したのは、本当に久しぶりの事です。忌まわしい記憶も涙と一緒に零れ落ちるような、そんな都合の良いことは決してありません。でも、あの体験以降、からからに乾いた日常的な感覚が、少しずつ水分を取り戻していくように感じました。

 そういえば、犬塚さんにちゃんとお礼を言っていません。明日こそ仕事に行って、彼においしい紅茶を淹れてあげよう。そう思いました。


   ◇


 事件の翌日は、警察や依頼人への対応に忙殺された。その次の日は休みを貰ったが、じっとしていても不安に苛まれるだけで気持ちが休まらない。自分のデスクに向かい、報告書の文面を考える。

 あの日に体験した、奇妙な出来事。ありのままを書くことなど、もちろんできない。事実を知るのは、俺と、詠子君だけだ。

 事件の犯人を捕まえたことで、警察から感謝状ももらった。しかし、そんなものは何の慰めにもならない。今回遭遇した狂気を、一生抱えていかなくてはならないのだから。

 ああ、詠子君はどうしているだろうか。あの事件以降仕事を休んでいる。明日にでも見舞いに行ってやることにしよう。彼女の内に芽生えた暗黒を理解してやれるのは、俺だけなのだから。


 事件から三日後、俺はいつも通りの時間に事務所に出勤する。事務所の入り口に住み着いている黒猫が俺を迎える。詠子君が餌付けをしているよう

で、彼女が休んでいるここ二、三日は俺が餌をやっている。詠子君が『アウレリウス』と名付けた、毛並みの美しい猫だ。人に媚びるようなことは無く、どこか哲学者然とした雰囲気を纏っているから、というのが命名の理由らしい。俺はアウレリウスとあいさつを交わして、ビルの三階にある事務所への階段を上る。

 事務所の扉をくぐり、俺は自分のデスクについた。整頓されたデスクの上に決裁を終えた報告書が置いてある。

「犬塚さん、おはようございます」

 詠子君がいた。手に持ったカップをこちらへ差し出す。琥珀の液体から立つ香りが、事務用品の匂いに混じる。

 ああ、そうだった。こうして詠子君が淹れた紅茶を二人で飲みながら、始業までの時間を過ごす。俺はその日の朝刊を読んで、彼女はただぼんやりとしながら。それが二人の日常だった。慰めよりも、励ましよりも、今は何よりそれが必要なのだろう。紅茶を口に含むと、ほのかにマスカットを感じさせる、馥郁たる香りが鼻腔に抜ける。

「やはり、自分で淹れたものより、君が淹れたものの方が美味い」

 二人で紅茶を飲みながら、朝のひと時を過ごす。あの強烈な体験を覆い隠すには、あまりに薄い日常のベール。しかし、何枚も何枚も重ねて行けばきっと、またいつも通り過ごすことができるようになるはずだ。

たとえそれが、つかの間の安寧だったとしても。

拙作をお読みいただきありがとうございました。

本作で登場した二人の探偵は、実は私がクトゥルフ神話TRPG『コールオブクトゥルフ』というゲームで実際に作成したキャラクターでもあります。

今後彼らがどんな経験をしていくのか、私も楽しみです。

もしお時間がありましたら、筆力向上のため、作品について辛めの批評をいただけると大変助かります。


繰り返しになりますが、読者の皆様と、投稿の場を提供してくださった「小説家になろう」様に感謝を述べさせていただいて、締めくくりといたします。

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