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その後は何事もなく、不気味なほどの静寂が流れていっただけだった。
この奧殿は海の底に位置し、聖殿など一部の場所を除いて外界とは閉ざされている。この回廊も地下のように蝋燭の灯り以外の光は存在しない。故に時間の感覚が失われてしまうと、今が朝なのか夜なのかさえ曖昧になってしまう。ルディが夜が明けたことに気付けたのは、交替だと数人の神殿騎士がやって来たからだ。神殿騎士は言葉少なげに次の交代時間を告げて、それぞれの持ち場につく。その動きは機械的で、神殿や巫女姫に仕えることへの使命感だとか名誉だとかそういったものが全く感じられない。ただ仕事だからと、事務的な様子に、ここでも巫女姫が外での噂以上に敬われていないということが分かる。
そうだからと言って、ルディの仕事が変わる訳でもなく、寧ろ難易度が増すというものだ。敵が昨晩のような手練であれば尚更。昨晩は油断していたから不覚を取ってしまったが、二度はないとルディは自分に戒める。不意討ちもあったが、仕事中に私事で感情を乱すなどあってはならないことだった。
あれは今は思い出すことはないように、幾重にも頑丈に鍵を掛けて封じていたものだった。
けれど決して忘れてはいけないものだった。
(あの日果たせなかった約束を、形は違えど果たすために俺はここで生き恥を晒しているんだ……)
普段は意識的に心の中から締め出しているものの、ふとしたことで鮮やかに蘇り、彼の傷口を抉る。
忘れるな、とあの子は囁く。
傷だらけの細い両腕を必死に伸ばして。
涙を流して、けれど無理に笑みを作って。
あの子は子供であることができなかったから、いつも大人びた口調で言うのだ。
(――わたしはここで、あなたが宿願叶えて凱旋されることを信じてお待ち申し上げております)
必ず果たすと約束した。
迎えにいく、と。
けれど……。
ルディは意識的に目をぎゅ、と瞑って幻影を振り払う。
もう少し、あと少しだから。この仕事が無事終わったなら大金が手にはいる。そうしたら、俺は望むものを手に入れられるだろう。
呪文のように何度も、何度も念じてルディは祈るように左胸に手を当てた。
一旦自室に帰り仮眠を取った後、ルディは身なりを整えてから再び聖殿へと移動した。
部屋で考えを纏めようかと思ったが、どうにも雑念が入って纏まらない。状況を整理するためにも、もう少し情報が欲しいと思った。
聖殿には誰もおらず、しんと静まりかえっていた。
天井から降り注ぐ青白い光が、この静寂の空間をより神聖な雰囲気に彩る。
ゆっくりと視線を巡らせる。巫女姫の居室に通じる通路は、この奥にある扉一つだけと聞いている。ならば昨日の男が侵入してきたのはここからしかない。しかし、この聖殿だけでなく奧殿への入口、もっと言えば神殿にも多くの神殿騎士や衛兵がシェーラミルデ神殿の警備を行っている。表の神殿ならばあれだけの敷地だ、どこからか警備の隙を掻い潜り侵入することも可能だ。多分、ルディもやれと言われれば出来ると答えるだろう。しかし、この奧殿は入口が一ヵ所で、奧殿に通じる通路は入口も出口も複数の神殿騎士によって常時護られている。不審者の入り込む隙はない。もっとも、扉を守護する神殿騎士全てを討つか、懐柔するかすれば可能だろうが、神殿騎士が討たれたとの知らせはない。もっとも、ルディのもとに全ての情報が入ってくるとは限らないが。自分達の落度で賊の侵入を許したなど、彼らが報せる訳はなく、また神殿騎士の中に内通者がいれば侵入は安易だろう。寧ろ内部に内通者がいると思う方が自然だ。
しかし、現在の巫女姫を廃して誰が、どんな益を得るというのか。
――元はローゼリシアが巫女姫になるはずだった。
身元もしっかりした、マーレヴィーナ随一の名門の令嬢。彼女こそ巫女姫に相応しいと思うものは多いだろう。彼女に巫女姫の位を与えたいと思うものの仕業なのか。それなら何故今になって動き出したのか? この五年間何もなかったのか?
それともマーレヴィーナに、神殿に反意を持つものの仕業か? 数十年に一度の神聖な儀式をぶち壊して、その権威を貶めようとしているのか。
他にも何か、ルディの預かり知らない理由があるのか。
首を突っ込むな、とライドールは言った。ただひとり巫女姫の身辺警護をしていればいい、と。神殿には外部の者に感知されては困る秘密があるということなのだろうか。そうならばそれは神殿にとって重大なものに違いない。
ただ、機械的に警護することは問題ない。
寧ろそうすべきだとルディも思う。けれど何かが引っ掛かる。このまま何も知らないままでいたら、後悔する気がする――かつてのように。勇気を失い、流されるままの敗者には、もうなりたくはなかった。
それに、男の言っていた言葉がどうにも引っ掛かる。
『――何故マーレヴィーナに巫女姫が必要なのか、お前は知っているか?』
重い響きに強い決意を感じた。あの言葉にに何か鍵が隠されているのかも知れない。
マーレヴィーナに巫女姫が必要なのは『聖婚』を行い、海神への恭順を示すためだ。古の伝説を再現させて、海都の民は海神の加護を得られているのだと諸国に誇示するためだと言われているが、本当にそれだけなのか?
マーレヴィーナについて、ルディは噂以上のことは何も知らない。今まで関心もなかった土地だ。祖国アーベルからは遠く離れている。それこそ大陸の北端と南端であるから。
調べてみる必要があるのだろうか、しかしこの神殿でルディの問いに答えてくれそうな人物はいない。
ルディがどうしようかと眉間に深い皺を作りながら思い悩んでいた時、不意に後ろから声を掛ける者がいた。
「ルディ様? 如何なさいましたか?」
振り返ると、目に眩しいほどに美しい純白の長衣に身を包んだローゼリシアがいた。今日の彼女は髪をゆるく結い上げているせいか、昨日より大人びて見える。細いうなじが艶めかしい。
これまで顔を合わせた神殿の住人の中で、彼女だけがルディに対して含むところなく接してきた。
もしかしたら、とルディは思い至る。彼女なら、何か知っているかもしれない。確信まではいかなくても何か手掛かりになるようなことを。
「ああ、いいところに……筆頭巫女殿、聞きたいことが――」
ルディが口を開くと彼女は優雅な所作で膝を折る。まるで主君に拝する時のように。訝しげに見下ろすと、彼女は困ったように眉を下げた。
「わたくしもお尋ねしたいことがあって参りました。アーベルの王太子、レイスルディアード殿下」