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「もう間もなく到着されます」
そう老執事が報告に来て、ローゼリシアは胸の奥に熱く燻る思いを宥めるため、胸に両手を押し宛て何度も大きく深呼吸した。
あれから一年。
長いようで短い時間だったように思う。
物心ついたときから神殿で暮らしてきたローゼリシアにとって、陸上での生活は何もかもが新鮮で驚きの連続だった。
こうして自分が一公女としての生活を送ることになるとは、当時の彼女は思ってもみなかったことで、今もどこも損なうことなく生きていられるのが奇跡のようだ。
あの日――。
海底の奥殿から脱出してみれば、神殿は完全に崩壊していた。かつての壮麗な姿が全く跡形もなく、海の底に姿を消してしまったのに、ローゼリシアは目を疑い、驚愕に言葉を失った。
幸い海都の民に甚大な被害はなかったが、神殿が海に沈むときの海の荒れようは、この世の終焉のようだったと聞いた。荒れ狂う高波は海神の怒りさながらだったと。
しかし、海の底から現れた眩い光の群れが海都を荒波から守ってくれたようだ。その光とは恐らくかつての巫女姫たちなのだろう。水面に向けて飛び立っていく幾筋もの光を見上げたことは、今でも鮮明に覚えている。そこで体験したことも、すべて。
そして、翌朝浜に打ち上げられていたルディを発見した時は神に感謝した。しかし、彼と一緒にいたはずのクラウティーエは、大掛かりな捜索を数ヵ月にも渡って行ったにも拘らず、遺品の一つすらも見つけ出すことは出来なかった。
絶望に言葉を失うルディに掛けられる言葉は何もなかった。
彼は再び大切な人を喪ったのだ。
一度見えた光を、再び喪うことがどれだけの悲痛を伴うか。それは初めの時の衝撃を遥かに上回る、とても残酷なものだろう。
どうして女神は彼にこんな仕打ちをするのかと、ローゼリシアは涙を流すことの出来ない彼の代わりに泣いた。
そして彼は、クラウティーエとの約束を今度こそ果たすため、今は彼女の形見ともいえたエディスガルドの宝鏡を手に祖国を目指して旅立って行った。
一方でローゼリシアは父親であるオルシュタット公爵の言葉に従い、神殿の筆頭騎士でありフラゼア公国の第三公子であるライドールとの婚約を発表した。
初めは冷たい人だと思っていたが、あの極限状況において最後までローゼリシアを懸命に守ってくれたことで、ローゼリシアは彼に対する気持ちを変化させた。ルディへの恋心を忘れたわけではない。けれど、それは大切な思い出として胸に納めることができる気がした。何より、あれほどの想いを見せられて、ローゼリシアには到底叶うなんて思えはしなかった。それよりも自分を大切にしてくれたライドールに心を捧げることを、自分でも不思議なくらいに抵抗なく受け入れられたのだ。
もうじき、婚約者であるライドールのもとへ嫁ぐことになる日を、彼女はとても穏やかな気持ちで待つことができた。
そのライドールが間もなく到着するらしい。そして、エディスガルドの宝鏡を海都に返還するために今はアーベルの王となったルディ――レイスルディアードも同行しているとアーベルの使者から報告があった。
ルディが海都へ来る。
その報告を受ける少し前、ローゼリシアの元へもたらされた報告はローゼリシアを驚愕させるのに十分過ぎるものだった。彼女はその真偽を確認させるために家の者を直ぐに派遣し、結果報告が真実であることを確認すると、すぐさま丁重にこちらへ迎える準備を調えさせた。
「これは……ああ、女神よ……」
その夜、ローゼリシアは祭壇で跪いて祈った。
涙が溢れて止まらなかった。
今になって何故、けれどこれほどの知らせはないだろう。直ぐにも彼に伝えなければならない、そう思ったが数日後遣いが戻ったのを見て躊躇した。
現在彼は、彼の少女との約束を果たすために戦乱に身を置いている。この報告が彼にどんな影響を及ぼすか知れない。ならば今は、戦況が落ち着くまでは伏せておくべきかと思い直す。
そうこうしているうちにルディは祖国を取り戻した。
いっそ呆気ないほどの早さだった。早くとも後半年は掛かるだろうという大勢の予想に反して、彼はマーレヴィーナを出立して一年足らずで父王の屈辱を晴らし、名誉を挽回して、玉座を奪取した。その裏には様々な取引や苦労があったにせよ、それは誰もが驚く成果だった。
そして間もなく、彼らはこのマーレヴィーナへ、ローゼリシアの元へとやって来る。
先刻様子を見に行った時、全く変わりない様子に胸が痛んだが、もうここまで来たのなら最早隠すこともないだろうと決めた。
――コンコン
扉を叩く音がして彼らの到着を知る。
ローゼリシアは扉を開こうとした侍女を止め、自ら扉を開いた。
「ローゼリシア、息災でしたか?」
先ず先に入ってきたのは婚約者であるライドールだった。彼は筆頭騎士だった頃の怜悧な印象を一新するような穏やかな笑みを浮かべている。彼にも大きな出来事があり、長年の屈辱を払拭できたためか憑き物が落ちたかのようだ。
そっと壊れ物に触れるようにローゼリシアの頬に触れ、小さな額に口付けした。
「長旅、お疲れ様でございました。ライドール様こそご無事で安堵致しました」
ローゼリシアが笑顔と共に見上げると、彼はもう一度今度は頬に口付けて、そこでようやく背後に立つ人物に気付いてローゼリシアの隣へ移動する。
「お変わりないようで、何よりだ。ローゼリシア姫」
気まずそうに立っていた青年は、ぎこちない笑みを浮かべてそっとローゼリシアの手を取りその甲に唇を落とした。
「ルディ様……いえ、レイスルディアード陛下、この度は祖国奪還おめでとうございます」
畏まって膝を折ると、彼は苦笑いした。
「以前と同じようにルディで結構、今更だ」
砕けた口調に隣に立つライドールの眉が僅かに跳ね上がるが、今回はライドールも何も言わなかった。レイスルディアードが王であるからかもしれないし、二人の関係性が以前と変わったからかもしれない。どちらにしろ悪いことではない。
レイスルディアードはここに来る前に旧神殿の神殿長に会い宝鏡を返還してきたのだと話した。そしてこの後すぐに神殿の跡地へと行く予定で、明日にはローゼリシアたちより一足先に北へ戻るのだと言う。
国王がそう何日も国を留守にするわけにはいかない、と言っているが、それならばわざわざ王自ら宝鏡の返還のためにこんな南端まで赴く必要はなかった。彼がここまで来たのは彼女に会うために違いなかったし、明日には発つというのは、長くここに留まるにはまだ彼の心の整理がついていなかったためだろう。
「ルディ様」
既に心はここに在らずと言った様子のレイスルディアードを呼び止めて、ローゼリシアはゆっくり呼吸を整えた。怪訝な様子で振り返った彼に、ローゼリシアは声が震えないように自身に言い聞かせながら次の言葉を紡ぐ。
「神殿に行く前に、少しお時間を頂きたいのです」




