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ナイジェルの側に降り立った少女は、泣きそうに顔を歪ませながら、けれど涙は溢さないように懸命に堪えているように見えた。
『……ごめんなさい、ナイジェル。私の願いがここまで貴方を縛るなんて、あの時は考え及ばなかったの……』
鈴を鳴らすような澄んだ心地よい声音。震えを含んだ少女の言葉に、ナイジェルは今まで見せたこともないような優しい笑みを浮かべた。
「謝ることはない。お前の願いがなければ、わたしは生きる意味を見失って、恐らく既にこの世には居なかっただろう」
『――――でも』
「またお前の声を聞けて嬉しい。もう二度と、聞くことは敵わないと思っていたから……」
あくまで穏やかなナイジェルの言葉は、少女――カレンシェリナの心に静かに染み入ったようだ。カレンシェリナは潤んだ瞳でかつての恋人を見つめている。その胸に溢れる想いを察することは易い。しかし奇跡的な恋人同士の再会を祝福している余裕はないことは明らかだ。
「再会を邪魔して悪いんだが、現状をどうするんだ。クラウティーエは一体何をしようとしているんだ。どうなってしまうんだ?!」
痺れを切らしたルディが割って入ると、ナイジェルは気を悪くする様子もなく、すぐに頷いて厳しい眼差しで海神を仰ぐ。
「今、クラウティーエには宝玉の力を借りて海神の動きを止めてもらっている」
見上げると、クラウティーエが胸に抱くように持つ宝玉が、真白い閃光を放っている。純白の輝きは本来なら神聖な色であるため、見る人に安堵をもたらすものであるというのに、あの輝きからはそんな穏やかなものを見いだすことができない。それどころか、体の奥底から沸き上がる得体の知れない不安と焦燥感に、胸が凍りつくような戦慄さえ覚える。
それにナイジェルやカレンシェリナは気付いていないというのか。
「クラウティーエがあれの力を抑えて、どうなるんだ?!」
「その間に、奴に止めを刺すんだ」
ナイジェルは剣の柄を握る手に力を込めた。装飾のない古びた剣だったが、その刃は鋭利な輝きを湛えている。彼は真っ直ぐに海神を睨み、斬り込む隙を窺っているようだった。
「やれるのか?!」
ルディも倣って海神を見上げる。あのように恐ろしい存在は他に知らない。
神か悪魔かは分からないが、いくら腕に覚えがあるとはいえ、それは所詮人間や獣相手だ。見るものを全て震撼させるような、悪夢のような存在に一体何が出来るというのだろうか。
「そのためにわたしはこの約二十年もの間、諸国を駆け回ったんだ」
少女たちを生贄にしてきたことで安易に問題から目を反らし、根本的な解決方法を探すことを行わないできた海都の民は、犠牲になった少女たちの悲しみと絶望を受け止めて、罪を償わなければならないのかもしれない。けれど、ここでさらにことを先伸ばしにすることは、新たな罪を生み出すだけだ。
この連鎖を止めることこそ最愛の少女の最後の願いであり、彼の生きる全てとなっていた――凍てつく氷の森の果てで誓った約束を果たそうとするルディと、それは同じ想いのようだった。
「最早俺は海都のことは正直どうでもいい」
ルディも手にした剣を構え直す。その切っ先は真っ直ぐに海神を捉えている。
どう考えても敵う気がしない、巨大な得体の知れない存在。巫女姫を護衛するというグラントからの依頼も、この状態になってしまった以上報酬など全く期待出来そうもないし、そんなことを言っている場合でもない。報酬に釣られた代償は余りにも大きすぎた。こんなことなら初めから関わらなければよかっただろうか、と後悔さえ過る。だが、来なければクラウティーエと再会することは叶わなかっただろうと思い直す。そして、あんな化物相手に戦ったとして、返り討ちにあって冷たい海底に叩きつけられる自分の姿しか想像できない。けれど――
「やらなければ先がないと言うのなら」
知らず、口角が上がる。ルディは別に好戦的という訳ではない。無用な血は流さずにいられるならそれに越したことはないと思っている。剣の腕を磨いたのも、初めは王子として生まれた義務感からだった。国を離れてからは生きるため、そして少女との約束を守るために必要だからしてきたことだった。
本音を正直に言えば、クラウティーエを連れてこんな場所から一刻も早く立ち去りたい。しかし、目の前に立ちはだかる巨大な障害物をどうにかしなければ、自分達は明日の朝陽を見ることなくこの暗い海の底に沈むのだろう。ならば、死力を尽くしてやるしかない。
「俺はどうすればいい?」
怖じ気づく暇もない――逃げまどった先に、未来はないのなら。
退路も絶たれた今、もう自分達には足掻くしか道は残されていないとルディは腹を括った。
そんなルディの横顔をちらりと視線だけ寄越して見て、ナイジェルは一層表情を引き締める。
「奴の意識を反らすよう、陽動に動いてほしい」
「承知した」
ルディは剣を構えたまま、ナイジェルから少し距離を取る。そのまま左側に旋回し、ちょうど海神を挟んで垂直の位置に立つとさらに左方向にライドールとローゼリシアの姿が見えた。ナイジェルは膝をついたままだったが、ローゼリシアは立ち上がって海神に向かい合っている――そのローゼリシアの側に淡い光を纏った少女が、ローゼリシアを守るように寄り添っている。少女はナイジェルの側にいるカレンシェリナのように実体はなく、恐らく過去の巫女姫であろうことは想像出来たが、その存在感は、他のものとは一線を画している。霊力の高さが、そうさせているのかもしれない。しかし、圧倒的な霊力に畏怖すら覚える。
少女とローゼリシアは何やら言葉を交わしているようだったが、ルディの立ち位置からは声が届かず内容は分からない。
そうしているうちに少女がどこからか鏡を持ち出して、海神に向かって掲げた。あの鏡が一体何なのかルディは知らなかったが、一見してただの鏡ではないことは瞭然だった。もしかしてあれが――。
ルディが鏡の正体に思い当たった時、ローゼリシアがそっと鏡に手を伸ばす。その瞬間、鏡は視界を一瞬で白に染め上げる閃光を放った。




