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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
6章 伸ばした手の先に、掴み取ったもの
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 彼女はこれ以上ないほどに清浄な存在だった。虹色に見える淡い銀色の髪は、さらりと揺れる度に小さな光の粒を零し、同じ色の長く繊細な睫毛は今は切なげに伏せられている。


『いつになったらこの悪夢から目覚められるのだろうかと、ずっと思っていたの……』


 彼女はきゅ、と貝殻のように白く小さな手を握りしめて、彼女とは正反対のおぞましすぎる存在を見上げた。その瞳に嫌悪や侮蔑の色は全く見られない。あるのは溢れんばかりの優しい感情。甘くはないが、温かく包み込むようなそれは、きっと目の前の存在に対して何らかの愛情を内包しているに違いなかった。

『貴女方が来て、私は漸く神に祈りが通じたのだと思ったわ。やっと光が見えたと』


 唄うように彼女は言う。

 焦がれ続けたものがやっとこの手を伸ばして掴める場所にある。この時をどれだけ望んだことだろう。その歓喜は彼女だけではなくて、他の光を纏った少女たちからも滲み出ているのがわかる。

 

 これは一体どういうことだろうか……?

 彼女が現れた途端、過去の巫女姫たちが纏っていた暗い感情がすう、っと浄化されていくように感じられる。

「貴女は、誰ですか?」

 思わず問いが口から出る。ローゼリシアの無意識のそれに、彼女は笑みを浮かべた。

『――――ラヴィアータ……』

 その名にローゼリシアの大きな瞳がさらに見開かれる。

 ラヴィアータ、その名前はこのマーレヴィーナではあまりに有名だ。

「始まりの、巫女姫」

『そんなに大層なものではないわ』

 ラヴィアータは少し困惑したように苦笑する。

『私はただ、自分の思いのままに行動しただけ。それがこんな……哀しみの連鎖に繋がるなんて思ってもみなかった……』

 時間がないの、そう言って、彼女はローゼリシアの額に手を当てた。

 その瞬間、凄まじい勢いで大量の記憶がローゼリシアの脳裏に流れ込んでくる。それは、あまりに哀し過ぎる記憶だった。ローゼリシアはその重みに耐えきれなくて、目眩がした時のように体勢を崩しかけたが、何とか踏み止まる。知らず、涙が溢れて止まらなくなった。


『祈りは通じるものよ。神はいつもそばにいらっしゃる。一人では決して敵わないけれど、今ここにはたくさんの助け手があるわ。私たちの願いが漸く神に通じたのよ』


 ラヴィアータはローゼリシアの側に立って海神と呼ばれるものを見上げる。その後ろではライドールが驚きに固まって、ただこちらを凝視していたが、ローゼリシアは現状を把握するだけで精一杯で、彼のことを気にかける余裕はなかった。


もこんなことを望んでいたわけではなかった。どうしようもないことだったのよ。けれどそれは、仕方ないで済ますにはあまりに酷い仕打ちだったのよ』

 ラヴィアータは真っ直ぐに海神を見上げる。その正面に浮かんで対峙するクラウティーエに対して、海神は今のところ大きな動きは見せていない。しかし、二人の間に横たわる張りつめた緊張感が一触即発の空気を表している。


『貴女の思いと私の思いは重なる部分も多いわ。どうか手を貸してくださらないかしら?』

 ラヴィアータはそう言ってローゼリシアの手を取った。

 実態がないので感触はないが、触れた部分から仄か温かなものが流れ込んでくる。

『私一人では無理なの。彼女たちとでも無理だった。けれど黒髪の騎士や異国の巫女姫がもたらしてくれたものは、長い間海の底の闇の中に沈んでいた私たちの思いを希望の光で照らしてくれた……』


 ラヴィアータはローゼリシアを真っ直ぐに見据えて囁いた。


『私は彼をこの海の底から救い出したい。貴女も、誰かを守りたいのでしょう? 思いは重なるのなら、力を貸してちょうだい――』

 ローゼリシアは再び正面の正視に堪えない存在を見上げる――そしてそれに挑む少女を。もしかしたらあの場所にいるのは自分であるかもしれなかった。神殿長が、自分の父親が命じなければこのマーレヴィーナに縁もゆかりもなかった異国の少女。

 疎んだことも正直数えきれないくらいあったけれど、それは彼女に何の責もないことだ。

 『聖婚の儀式』が何のために行われてきたのか、『巫女姫』が何故存在するのかを知ってしまった今、自分は何を望み、自分に何が出来るのか。

 ローゼリシアは並び立ついにしえの巫女姫に問う。

「わたくしにできることは?」

 真摯な眼差しを受けて、ラヴィアータは鮮やかな笑みを返す。しかしすぐに厳しい表情になった。

「私は彼をこの海の底から開放したい。そして安らかな眠りを与えてあげたい。けれどそれを行うには悲しいけれど私たちは力が足りない。それほどに彼の力は、怒りは、嘆きは強すぎるから」


 海神と呼ばれるひとはかつてはそんな邪な存在ではなかった。不器用で無愛想だけれども優しいひとだったとラヴィアータの記憶はローゼリシアに教えてくれた。

 一体どうしてこんなことになってしまったのか、どれほど長い間涙を流したのだろうか、と。

『彼を救うには多くの犠牲が必要だった。それは海都の民が彼に犯した罪を償うために必要なものとも言えたかもしれない。けれど……』

 そう言って彼女がゆっくりと伸ばした手の先に、いつの間にか大人の顔ほどの大きな鏡があった。縁を水晶のような透き通った石で囲まれたその鏡は、繊細な彫刻が刻まれている。そして鏡は、他にない異質な存在感を放っている。

『貴女の過去視の力を貸して頂戴。彼にかつての自分を見せて、思い出させてあげて……』

 ラヴィアータの声に導かれてローゼリシアが鏡に触れると、それは突然目映い、目が眩むような閃光を放った――。




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