2
人の感覚というものは、一定以上の限度を超えると機能を停止してしまうものらしい。
この世の果てにあるという地獄はこんな景色なのだろうか。深い闇の奥底で、一筋の希望の光も見出せない場所に囚われて絶望という鎖に繋がれて見上げたものは、僅かな慈悲すらも望めない残酷な悪夢を模った魔物だった。
あの後、海神と呼ばれ崇められていた魔物は自分を縛っていた岩壁を突き破って、その全き姿を彼らの前に晒した。この海底のどこにこれほどの巨大な姿を隠していたというのだろう。首が痛くなるほどに見上げてようやくそれの顔を見ることが出来る。壁から覗かせていたのはほんの一部だったというわけか、ルディは知らず息を止めて食い入る様にその醜い姿を見上げた。
咄嗟に側で膝をついていたクラウティーエの腕を引いて、崩れた岩壁の奥に現れた空間へと転がるように飛び込む。少し離れた場所ではナイジェルが同じように移動し、手にした拳大の宝玉を掲げていた。
飛び込んだ場所は、海神の巨体が動き回っても全く問題ないくらいの大きな空間だった。
深い海の碧に包まれた巨大な空間は聖殿に似ている。あの天井に見える碧も海の一部なのだろう。
「ルディ、出来るだけ奴から距離を取るんだ!!」
鋭く指示する声に反射するように、腕に抱え込んだクラウティーエごとさらに奥へと進む。振り返るとライドールがルディと同じように少女を抱えたまま、魔物を見上げていた。
「二人を逃がしてください」
クラウティーエが絞り出すような掠れた小さな声で訴える。
「どうやって?」
背後の小部屋の扉はさっきの衝撃で崩れた岩で完全に塞がれてしまっている。どうやってここから逃げると言うのか。
「海神は私が抑えますから、その隙に正面の……」
クラウティーエの視線の先に大きな泡のような球体が浮かんでいた。微かに光るそれはゆっくりと上下し、まるで波に漂っているかのようだった。
「あの泡の中に逃げ込めば、外へと運んでくれるはずです」
「あれは何なんだ?」
「……女神の慈悲です」
クラウティーエの答えは全く答えになっていなかったが、ここで詳しい話をしている時間もないだろう。クラウティーエは真っ青な顔をしており、呼吸も荒い。この銀色の鎧の下にどれほどの傷を負っているかは分からないが、彼女の様子を見れば到底軽傷であるとは思えない。これ以上の声音を出すことも難しい様子だったので、心得たルディは後ろの騎士へ声を張り上げた。
「おい、ライドール! ローゼリシアを連れて前方の泡みたいな球体へ飛び込め! そこからなら外へ逃げられる!!」
「どういう、ことだ……」
ライドールの返事は歯切れが悪い。いきなりそんなことを言われても、といったところだろう。そもそもルディとライドールとの間には全くといって信頼関係がない。あるのはお互い不信感と敵愾心だけだ。そんな状態でそんなことを言われてもすぐには信じられないのだろう。しかし――――
「時間がない、その少女を死なせたくなかったら全速力で走るんだ!!」
別方向からナイジェルが命じるように叫ぶ。
そうこう言っているうちに、体の自由を得た海神が唸り声とも咆哮ともとれる低い声を響かせて、腕を大きく振り上げる。あれをまともに食らったら顔面を潰され床に転がっていた神官の二の舞で即死だ。ルディが目を見張って身構えたとき、ナイジェルが手にした宝玉が大きな閃光を放つ。
そのあまりに強烈な光に海神が一瞬怯んだ隙に、ライドールがローゼリシアを横抱きにしたまま海神の横をすり抜けて行こうとする。脇見も振らず、一心不乱に掛けて行くのを見て安堵しかけたのもつかの間、視界を奪われた海神から突然発せられたすさまじい圧力のような衝撃波が円を描くように周囲に襲いかかり、姿勢を低くしていたルディは何とか剣を地面に突き立てて飛ばされるのに耐えたが、立っていたナイジェルと、移動中のライドールとローゼリシアはまともにその衝撃を食らって弾き飛ばされてしまう。ナイジェルは咄嗟に受け身を取って衝撃を抑えることが出来たようだが、ローゼリシアを庇ったライドールはしたたかに地面に叩きつけられて低いうめき声を上げた。
「ライドール殿!」
ローゼリシアの悲痛な声に、ライドールは首を振って問題ないと答えていたようだが、その様子を見ればもしかしたら肋骨を数本折ってしまったのかも知れない。益々悪くなっていく状況にルディは無意識に悪態を吐いていた。
その瞬間、ルディの腕の中にいたクラウティーエが突然ルディの拘束から身を捩って飛び出た。一瞬の隙を突かれたルディが制止しようと手を伸ばすが、彼女はそれをかわしてさらに進んで海神の正面に立つと、両腕を差し伸ばすような仕草をみせた。
『……――――――――』
彼女は古語で何事か呟くと、その瞬間クラウティーエの体が薄い光の膜に包まれるように発光し始める。その瞬間、ふわりと彼女の体が宙に浮いた。
『猛き者よ、荒ぶる御魂よ、飢える者よ、嘆く命よ――――』
クラウティーエの凛として澄んだ声に呼応するように、彼女の周囲に青白い光が幾つも浮かび上がっては海神を取り囲むように展開していく。
「クラウティーエ?!」
ルディは胸の奥に渦を巻く、得体の知れない焦燥感に苛まれながらその不可思議な光景を見ていた。
視界の端では身を起こしたライドールが、ローゼリシアを庇うように腕を伸ばしながら、やはりこの光景を目を見開いて凝視していた。二人ともどうやらその場所から動けなくなってしまっている。クラウティーエが指示した例の泡のような物体まではまだかなりの距離があり、あの状態では辿りつけそうにもない。
『わたしは祈るものであり、癒すものであり、与えるものであり――――奪い、滅するものでもある』
青白い光が細長く伸びて、ぼんやりとした人型を取る。顔は見えないが、その姿かたちから女性のように見えた。彼女たちは海神の周りにまとわりつき、一人、また一人とその中に吸い込まれるように消えていく。それはのまれるというより、自ら入っていくような様子だった。その身に入る光の数が増す毎に、海神の体も仄かに光を帯びてくる。
――――グアアアアァァァッ!!!
海神が唸り声を上げて踠きだす。その動きは一層激しさを増して、慌ててルディは咄嗟に後退して海神から距離を取る。
「クラウティーエ、受け取れ!!」
ナイジェルが手に持っていた宝玉をクラウティーエに投げて寄越す。それを目にした海神が濁った眼に捕らえたのか、がむしゃらに腕を動かしてそれを妨害しようとするが、青白い光の一つがそれを阻止する。その光は他の光とは僅かに輝きの色が異なっていた。より白く、明るい色合いをしている。海神の腕に縋る様に巻きついて、海神が宝玉を弾こうとする動きを阻む。それは他の光のように海神の中に入ろうとはせずにナイジェルを援護するようにその場に残り続けている。
宝玉はその光の援護を得て無事にクラウティーエの手に届く。クラウティーエは受け止めた宝玉を胸に抱いて、仄かな輝きを確かめるように手を添えると、下にいるナイジェルに小さく頷いて見せた。
「あれは?」
ナイジェルの傍まで移動したルディが同じように宙に浮かんだクラウティーエを見上げながら聞く。
「今までの巫女姫は『海神』を封じるためにその生き血を捧げ、その命で荒ぶる魂を抑え込んだ。海神は覚醒すると海を荒らし、波を操って海都に甚大な災禍を齎すからだ。だから、海都の民は巫女姫を犠牲にしてその難から逃れ続けてきた。しかし、それでは何の解決にもならない。奴は滅しなければならない。巫女姫と言う名の生贄はこれ以上捧げてはならないんだ。そのために、巫女姫とあの宝玉が必要だった。あの宝玉は西のダーマスレイ神殿に納められていたもので、持つ者の力を増幅させ、また多くの力を吸収するものだ。禁呪に用いられてはかなり危険なものだから門外不出の代物だったんだが、何とか手に入れたんだ」
どのような手段を経て手に入れたかは分からないが、もしかしたら強硬策に出たのかもしれない。しかし、それだけに彼の想いの強さが測れるというものだ。
「約束したからな、なあ、カレンシェリナ」
その声音に場違いなほどに優しい色が差す。
気付いて視線をナイジェルのそれに合わせると、そこには先ほどまで海神の腕に纏わりついていた白みがかった明るい光が浮かんでいて、それはすぐに人の形を取った。
『――――ごめんなさい、ナイジェル……』




