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目の前にいるモノを端的に表現するのであれば、それは悪夢としか言いようのないものだった。海底のどす黒い汚泥を練り上げて作ったかのようなおぞましいそれは、いわば巨大な悪夢だった。その表面は固い鱗のようなものに包まれているが、よく見ると鱗ではなく蝋が溶け出したもののようにも見える。白濁した大きな眼には一筋の光も見えない。そこには絶望的に深い濃厚なー闇があるだけだった。それが動く度にコプリ、コプリと泥水が波打つような音がする。この世の醜悪な絶望を凝縮したような強烈な存在感を放つそれは、見ているだけで呪われそうだ。
その魔物は、この小さな部屋へ突き破った岩壁の隙間から、その醜悪な顔と腕の一部のみを突き出しているらしい。その実体はどれ程の大きさなのかと考えると背筋が凍る。出来るなら全てを放棄してここから逃げ出したい衝動に駆られるのをルディは必死に耐えた。
周囲を見渡すと、部屋の中央で腰を抜かしたのかへたりこんでガタガタと震えているローゼリシアが見える。彼女の青い瞳は恐怖と絶望に大きく見開かれ、強ばった表情は血の気もなく紙のように真っ白だ。
数歩前の位置に立つナイジェルは目の前のおぞましい魔物を見据えている。
背後に立っていたライドールは初め驚愕に固まっていたが、ローゼリシアの姿を見つけるとすぐに駆け寄った。
「ローゼリシア!」
ライドールがその肩を揺すり、必死に呼び掛けても彼女は震えるばかりだ。あんな醜悪なモノを見てしまったのだから仕方がないことだが、その場所に留まるのはあまりにも危険過ぎる。ライドールはとにかく彼女を抱き上げて、とにかく後方へ下がろうとしていた。
その様子を視界の端に捉えながら、ルディはこのさして広くはない部屋に視線を巡らした。ここにいるはずのもう一人の人物の姿が見えないからだ。
「……ラ……ィエさ……が…………」
ローゼリシアのか細い声が懸命に何かを訴えていた。
「どうしたというのですか、ローゼリシア?」
ライドールの問いかけに、ローゼリシアはただ唇を震わせる。彼女の視線の先に、白銀の兜が転がっていた。そしてその奥に銀色の髪が見える。
「クラウ、ティーエ……?」
探していたものは魔物の陰にいた。地面に広がる禍々しい紅い液体の正体が何であるかは、この状況下においては言われるまでもなく分かることだ。
「クラウティーエ!!」
魔物の腕に遮られて、彼女の様子がはっきり見えない。けれど床に広がる血の量から無事であるとはどう頑張っても楽観視できない。寧ろ逆に最悪の可能性が頭を過る。
「ルディ、彼女は『巫女姫』だ。『儀式』も終らぬうちに奴が命を奪うことはない」
脇から掛けられた冷静な声に、ルディは剣の柄を握り締めたまま魔物の動きを注視した。何かを引き摺るような音がする。魔物は壁の向こうからこちらへとさらに進み出ようとしているが、何かに阻まれて儘ならないようだ。
「ルディ……?」
ライドールが腕にローゼリシアを抱き上げたまま、ルディに怒りも顕な顔を向ける。
「どうしてお前がここにいるんだ、何が目的だ、こいつは何物なんだ、横の者は誰だ!」
彼も相当混乱しているらしい。矢継ぎ早に疑問を畳み掛ける。ナイジェルは静かに兜を取って、ライドールの方に向き直った。
「わたしはナイジェル、お前の前の筆頭騎士」
ナイジェルの名乗りを聞いて、ライドールは目を見張る。
「前の聖婚の儀式の後に姿を消したとか言う……」
「…………」
「どういうことだ、何が一体!」
混乱の局地にいるらしいライドールは、 いつもの貴公子然とした態度をかなぐり捨てている。腕にローゼリシアがいなかったら掴みかかっていたかもしれない。
「昔語りをしている時間も余裕もない」
きっぱりと言い切って、ナイジェルは魔物を見据えながら間合いを計ろうとしている。
隠し持っていた小袋を探りながら、機会を伺っているように見えた。
しかしルディにとっては二人の遣り取りよりも重要なことがある。
「クラウティーエ!!」
故国に残してきたはずの、彼の小さな希望。喪ったはずの、大切な存在。
彼にとってはあの真っ白い絶望を繰り返すなど、到底有り得ない話だった。
「ルディ!」
ナイジェルの制止を振り切って、ルディは剣を構え魔物の脇に走り込む。その瞬間、魔物がその巨体からは考えられない速さで腕の一部を動かし、ルディに降り下ろしてきた。その様子はまる羽虫を払うように気だるげで、残忍だ。
ルディはその重い一撃を身体を捻って床に転がりながら間一髪のところで躱す。まともに喰らっていたら、その衝撃で潰され命も危うかったかもしれない代物だった。
冷たいものが背中を滑り落ちていくのを感じながら、ルディはクラウティーエがいるであろう場所を目指す。
「…………どうして…………っ!」
震える声が聞こえた。驚愕と絶望に満ちたそれは、間違いなく遠い異国の地で巫女姫として再会した故国の小さな騎士、クラウティーエのものだった。クラウティーエは今ようやくルディがここにいることに気づいたらしい。何度も名前を叫んだのに全く気付いていなかったようだ。魔物の影でルディたちの姿を見ることが出来なかったからかもしれないし、この絶望的な状況下で他に意識が集中し過ぎたからかもしれない。
クラウティーエにとって有り得ない人物の登場に、彼女は一気に現実の世界に引き戻されたようだ。
「どうして、戻ってきたのですか?! 貴方はここにいるべきではないのに!!」
血の気の引いた青白い顔を苦し気に歪ませて、クラウティーエは叫んだ。彼女は床に膝をつき、こちらを睨んでいる。
その傍らにはうつ伏せで倒れている男がいる。頭部をは叩き潰されて原型を留めていないため誰であるか全く判別は付かないが、着ている長衣の意匠から高位の神官であることが分かった。
クラウティーエは肩を負傷しているようで、右肩を庇うように左手で押さえていた。白銀の鎧の下がどういう状態になっているのかは分からないが、彼女の様子を見れば軽傷とはいえないだろう。
「お前が俺に命ずるのか?!」
こんなことを言いたいわけではないんだ、とルディは内心言い訳を言いながら努めて冷静に続ける。今までと様子の違うルディに彼女も違和感を覚えたらしい。訝しむような視線向けてくるのを、ルディは正面から受け止めた。
「俺は待ってろと言ったのに、先に約束を破ったのはお前の方だ」
「…………」
ひゅ、と息を飲む音がする。クラウティーエの深い蒼色の瞳が大きく揺れるのがはっきりと分かった。
「まさかこんなところで会えるとは思ってもみなかった」
近付いて膝をつき、視線の高さを合わせるとクラウティーエはゆっくりと頭を垂れた。
「全てはわたしの浅慮に依るものです。赦しを乞う厚顔さは持ち合わせておりません、レイ様」
地面に平伏せんばかりの彼女の様子に、クラウティーエもようやく自分の正体がバレたことを悟ったらしい。懐かしい呼称にルディも一瞬現状を忘れて懐かしいアーベルの雪原が脳裏を過るも、過去に浸る余裕もないことを思い出して表情を引き締める。
「……この化け物は何なんだ?」
ルディの問いかけに、クラウティーエは視界を覆うおぞましい存在を見上げて呻くように答えた。
「マーレヴィーナの民が海神と呼び崇めていたものです」




