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翌日、ルディは用意された神殿騎士の鎧を身につけ、指定された時刻に聖殿へとやってきた。
聖殿に入ってすぐ、何気なく仰ぎ見るとドーム型の青い天井が波打つように揺れていて、それはここが海の底であることを思い出させてくれる。どこからか、潮の音も聞こえてくる。
昨日案内されたときも驚いたが、改めて見ても不思議な光景だ。あの天井は水面なのだ。
「この奧殿は海神様の御力により護られております。初めてご覧になられる方は皆様一様に驚かれますが、ご心配には及びません」
天井を仰ぎ見たまま固まっていたルディは、掛けられた声に応じて首の角度をもとに戻す。
そこには数人の巫女と神殿騎士を従えたローゼリシアが、微笑を浮かべながらルディを見つめていた。
「まあ、思っていた通り本当によくお似合いですわ。正規の騎士と言われても判らないくらいに馴染んでいらっしゃる」
ローゼリシアは可愛らしく口許に手を当てて頬を染めていたが、ルディはそんなことを言われても全然嬉しくなかった。神殿騎士の鎧は白と青を基調に波を描いた意匠で、着るものを選ぶ。洗練された着こなしをしないと、鎧に着られているような残念な状態になってしまうからだ。しかし、騎士の従卒たちに寄ってたかって整えられたルディは、自分でも嫌になるくらい恐ろしく似合っていた。彼の白金の髪や薄氷色の瞳に鎧の色合いもこれ以上なく馴染んでいる。流石に兜は鬱陶しいので被っていないが、それが却って彼の秀麗な容貌を際立たせていることに、彼は気付いていない。
「大変結構、見た目は問題ないようだ」
突然背後から掛けられた声に振り返ると、背筋を真っ直ぐに伸ばした初老の小柄な男と、騎士の鎧を着ていなければ文官にしか見えない、縁のない眼鏡をかけた神経質そうな青年が立っていた。
「神殿長様」
ローゼリシアは優雅な所作で最上礼を取る。神殿長と呼ばれた男は軽く頷いて、長身のルディを見上げた。
「お前がグラントが雇ったとか言う傭兵か?」
そう言って、頭の先から足元まで舐めるような視線を走らせる。初対面から不躾な態度にルディの眉間の皺が一層深くなる。
間に立ったローゼリシアは初老の男が神殿長であるゼイオス、後ろに控える騎士が神殿騎士を束ねる筆頭騎士のライドールであると紹介した。
「報酬分の働きは期待してもよいのだろうな」
「ああ」
ゼイオスの挑むような視線に怯むようなルディではないが、相手はこの神殿の最高責任者、いわば依頼人だ。初対面から機嫌を損ねるような真似は止めておくに越したことはない。
しかし相手の立場を考えるなら無礼なルディの態度に、ライドールの米神がピクリと引きつったが、ゼイオスは気にしていないようだった。
「巫女姫様への謁見は叶いますでしょうか」
ローゼリシアの問いにゼイオスはゆっくりと頷いた。
「今の時刻は朝の祈祷のお時間であるが、間もなく終わる刻限であろう」
言ってゼイオスは先導するように歩き出す。ライドールが聖殿の奧の豪奢な装飾の施された重い扉を開けると、ゼイオスは躊躇なく中に入っていった。扉の奧は薄暗く、よく見えない。
ローゼリシアが続いて入ったところで、ライドールがルディに続くように視線で指示する。鷹揚な態度にムッとしたが一々神経を逆立てても仕方ないので、ルディは唇を引き結んで扉の奧へと進む。ルディの後からライドールが入ってきたところで重い扉が鈍い音を軋ませて閉ざされた。
無言で進むこと数分、狭い通路の先に小さな扉がある。
今度の扉に装飾はないが、磨き抜かれた真っ白な扉は薄闇の中で仄かに光を帯びて発光しているように見えた。再びライドールが列の先頭に立ち、扉に手を掛ける。ゼイオスに許可を取るように首を回して振り返ると、ゼイオスは頷いた。
ゆっくりと開かれる扉の向こうに巫女姫がいた。
彼女は大きな幾何学模様の描かれた床の上に素足で跪き、目を閉じて祈りを捧げているようだった。僅かな蝋燭の光しかない部屋に、巫女姫の白すぎる存在が異様なほどに目に焼きつく。白い肌も、髪も、長衣も闇に浮き立つようで、ルディは視線を釘付けにされる。
そしてもっと異様なのが彼女の体に纏わりつく青白い光。
彼女を薄衣で包むような淡く儚い光は、何故かルディの胸を締め付ける。光はふわりと巫女姫の体から立ちのぼり、小さな部屋の奥に鎮座する、成人男性の手のひらくらいの大きさの透明な球体に吸い込まれていく。
『――――――』
巫女姫の唇から微かな音が漏れる。その音は微か過ぎてはっきりと聞き取れないので確証はないが、マーレヴィーナの公用語であり、大陸のほとんどの国で使われているサクリス語ではないように聞こえた。その小さな響きに、ルディはゾクリと身を震わせた。聞きたくない、忘れようとしていた母国語に聞こえたからだ。しかし、よく耳を澄ませて聞いてみるとそれは間違いで、それは聞いたこともない言葉に聞こえる。知らず、ルディは無意識にぎゅ、と手を固く握りしめていた。
やがて巫女姫を包む光が消え、室内の闇が濃くなったころを見計らって、ゼイオスが跪づいて頭を垂れる。
「巫女姫様」
恭しく声を掛けると、巫女姫は緩慢な動作で首を動かしてこちらを見た。
紅の一つも引かれていない、青白い顔。大きな闇色の瞳が、ゼイオスを映すもそこには何の感情の欠片も見つけることができない。
「聖婚までの間、あなた様の護衛を務めます者をお連れいたしました」
突っ立ったままのルディは、後ろからライドールに肩を掴まれ乱暴に跪づかされる。そのやり方に思わず睨み付けると、ライドールも眼鏡の向こうの翠の瞳を細めて睨み返してきた。
「…………」
巫女姫はその様子を瞳を動かして一瞥しただけで、すぐに視線を動かしてゼイオスを見下ろした。
「疲れたゆえ、もう下がります」
「巫女姫様っ」
何事もなかったように立ち去ろうとする巫女姫を、慌ててローゼリシアが呼び止めるが、巫女姫は奧の小さな扉を開けてその向こうに消えてしまった。
「またご不興を買ってしまったようだな」
言葉の内容のわりに、ゼイオスの口調は軽い。取り合えず今後の詳細はライドールに聞くよう告げて、ゼイオスは聖殿の方へ戻っていく。ローゼリシアは後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながら最後ゼイオスに従った。
その後ろ姿を無言で見送って、二人の姿が扉の向こうに消えたことを確認してから、ライドールは冷ややかにルディに告げた。
「グラントが何のつもりで大金積んだのかは知らないが、神殿騎士としてはお前のことは容認できない。しかし、神殿長の命ゆえ致し方なく従っているまで。傭兵風情が調子に乗るなよ」