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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
5章 海神の花嫁
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 無我夢中で駆けた先にたどり着いた場所は薄暗く、小さな部屋だった。

 追っ手がいないことを慎重に確認した騎士が、部屋の扉を音を立てないようにそっと閉じる。その姿を見て、ローゼリシアは思わず大きな息をついた。

 部屋を囲む剥き出しの岩肌はほんのり湿っていて、どこからか潮の香りがする。乱れた息を整えていると、吸い込む空気は喉を刺すように冷たく、薄手の婚礼衣装では肌寒い。小さく肩を震わせると、騎士はどうぞ、自らが纏っていた群青のマントをローゼリシアの肩に掛けてくれた。


 この部屋へは、どこをどう通ってたどり着いたのかさえ分からない。小柄な騎士に誘われるままに必死で駆けて来たからだ。年齢と余り変わらない年月をこの神殿で過ごしているローゼリシアだが、この部屋には全く見覚えがなかった。不安な気持ちのまま周囲を見渡していると、騎士がローゼリシアの前で静かに膝をついた。

「わたしは決して貴女を害することはありません。どうか、ご安心を。しかし、貴女にこれ以上儀式に出て頂いては困るのです。ですから貴女には、全てが終わるまでここで隠れていて頂きます」

 騎士は淡々と告げる。しかし、その声音には明確な強い意志が込められていて、彼女に一切の反論を許さない響きがあった。

「どういうことですか」

 はいそうですか、と簡単に従える内容ではなかった。聖婚の儀式が成されなければ、このマーレヴィーナは海神の加護を失ってしまうと言われている。神話の時代から続く儀式を継続することが、マーレヴィーナの民に課せられた使命であると、ずっと信じて育ってきたのだ。それを自分の代でなくすことなど有り得ない。

「儀式を完遂することがわたくしの務めです。お言葉には従えません」

 跪く騎士を見下ろし、睨む。渾身の迫力を込めたつもりだったが、騎士は怯むこともなく、小さく首を振って立ち上がった。

「そうおっしゃるのは分かっていましたが、貴女には従って頂くしかない。ご心配なされなくても、聖婚の儀式を行わなかったからといって海都は神罰を受けることはありません。わたしが――わたしたちが成そうとしていることは、寧ろこれまで代々の巫女姫が心から望んでいたこと……」

 騎士の言葉には揺るがない信念がある。しかし、その意味が全然分からない。儀式を完遂しないことが、どうして代々の巫女姫が望んでいたことに繋がるのか。

「貴女には未来がある。神殿を出れば、貴女はこれまで知らなかった大きな世界を知ることでしょう。そして貴女にはまだやるべきことがある。その為に、神殿に留まっている場合ではないはずです」

「貴方の言葉にどんな意図が含まれているのか、わたくしには分かりかねます。それ以前にわたくしは貴方がどこの誰なのかさえ分からない。どうしてこの状態で貴方の言葉を、わたくしは信じられるのでしょうか?」

 ローゼリシアの反論に、騎士は無言でゆっくりと顔を覆い隠していた兜を取った。

 兜の下に隠されていたのは月光のように美しく流れる白銀の髪。深い蒼色の双眸は一点の濁りも見られないほど清く、澄んでいる。整い過ぎるあまり、人とは思えない、まるで精霊のような白皙の美貌に知らず、背筋が凍えた。


 ローゼリシアはこの人物をよく知っていた。

 その存在にいつも狂おしいほどに焦がれ、その力を妬み、羨望して、心の奥底では憎んでいた――。

 霊力でも、美貌でも、ただひとり、どうしても敵わなかったひと。

 目眩と刺すような頭痛に、ローゼリシアは眉を顰めて額に手を当てる。

 どこかでやめてと警鐘が激しく鳴り響くが、ローゼリシアはそれを無視して目の前の人物を直視した。すぐに相手の蒼い瞳と視線がぶつかる。騎士の瞳は静かにローゼリシアを写していた。

「……あ、……ああ…………っ」

 不快な音が脳裏に煩いほどに鳴り響く。ともすれば意識すら持っていかれそうなほどに激しいそれに、ローゼリシアは震え出す身体を叱咤しながら懸命に耐える。耐えなければ、と何度も念じながら。

『――清浄なる光を、御手に。安らぎと祈りを我が手に……』

 古語で呪文を詠唱しながら騎士がそっとローゼリシアの額にを手を当てると、不快な警鐘が心地よい凪とともに収まっていく。不思議な感覚にローゼリシアは目を見張る。その瞬間、何の前触れもなくローゼリシアの脳裏に大量の『映像』が流れ込んできた。


「――――――きゃっ!」

「――――――――――っ!!」


 騎士も、これ以上ないと思われるくらいに目を見開いてこちらを見ている。その表情は驚愕に凍りついていた。



 ――どうか、約束を。王子……。

 この命の全ては我が君だけに捧げるべきもの――魂の一欠片に至るまで全て。


 神よ、これ以上なく罪深いわたしの命をどうか早く消し去って下さい。もう、だれも傷つけたくはないのです――父上を、苦しませたくはないのです……



 過去視の力が暴走する。こんなことは今までに一度もなかった。ローゼリシアの意思に反して膨大な記憶が一気に雪崩れ込んでくる――!



『……生まれてきて、ごめんなさい……』



 真っ白い世界にぽつんと佇む幼い子供が、虚空を見上げて呟いた。

 アザだらけの身体を小さく縮こませ、祈るように組んだ手を額に押し当てて、震える声で自らの死を乞い願う。

 その余りに切なく、悲痛な感情に、胸が潰れるような痛みに心が悲鳴をあげる。



「ああ」

 ローゼリシアは涙が止まらなかった。知ってしまった。分かってしまった。

 目の前の騎士は――彼女はルディの……

「巫女姫……クラウティーエ様……」

 どうして忘れていたのか。ローゼリシアは巫女姫などではない。どうしてそんなふうに思い込んでいたのか。ローゼリシアは彼女に力及ばず次位に――筆頭巫女の立場に甘んじていたではないか。

「いえ、巫女姫は最初から貴女だった。その証拠に貴女の指に証の指輪があり、わたしの指にそれは一度たりとも在ったことはありません」

 騎士は――クラウティーエは自嘲の笑みを口の端に僅かに刻みながらも、ローゼリシアを真っ直ぐに見据える。それはこれまでの人形のような生気のない姿とは異なり、今の彼女は自らの意思で力強く行動していることが分かる。いつも得体が知れなくて不気味な印象が強かったのに、今はローゼリシアと同年代の少女らしく、瑞々しい命の躍動を感じ取ることができた。

「詳しい話をしている時間はありません。今は納得してもらおうとも思いません。ですが、貴女の存在は私たちにとって『枷』でしかない。だから、ここでじっと待っていて欲しい。必ず海都の未来は守ると約束します」

 騎士姿のクラウティーエは、それだけでいつもと全く印象が異なる。目の前の彼女は常に感情を表に出さず、全てに関心を示さず、流れるままに身を委ねているようなかつての人形みこひめではなかった。


 

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