6
潮風に舞う真っ白い小花に、人々の熱狂的な大歓声、神秘的でいてどこか情熱的な弦楽の調べに、ここは現世ではないのではないかという錯覚すら覚える。
この身に纏う純白の衣装はこの日のために海都の民が丹精込めて仕立てたものだ。裾の繊細で可憐なレースも、布地に散りばめられた小さな薄蒼の宝玉も、滑らかな絹の光沢も何もかもが美しい。この衣装を身に纏うだけで、本当に海神に相応しい者になれたのではないかとすら感じてしまう。
どこか夢見心地のまま、ローゼリシアは付き添いの神官や巫女たちに誘われるがままに儀式を進めていく。
何度も予行を行ったのだ。手順を間違えるはずもない。
この日のために彼女はずっと海の底で務めて来たのだから。
『偉大なる海神にわたくしの愛と、誠実と、真心の全てをここに捧げます。どうかこの麗しき蒼の都、マーレヴィーナに永の安寧をお授け下さい……』
滑るように唇から紡がれる言葉は古代の言語だ。今は儀式や呪術を行う際にしか使われない言葉であるが、これも彼女は幼い頃からずっと学んでいたので、日常使っている公用語と同様に自然に話すことができる。
(ついに、この日が来たのね……。この日のためにわたくしはずっと、ずっと懸命に修練を重ねてきたのよ――)
眩しい太陽、澄みわたる蒼穹に紺碧の海。極彩色の花々に明るく朗らかな気質の海都の民たち。その美しい世界を守り続けるために今日の『聖婚の儀式』が必要なのだ。神の花嫁――巫女姫としてここに立つことがどれだけの栄誉であるか。
ローゼリシアは目が眩むほどの熱い感情に支配され、心はここにあらずといった様子だった。だから、周囲が感じる戸惑いと違和感に気付くことはなかった。
表の儀式が終わり、『巫女姫』が奥殿に移動し始めると、どこか奇妙な空気が流れ出した。探るような、ねっとりとした気配にただの警備兵ですら違和感に気付いて首を傾げる。しかし、その違和感の原因について思い当たるものはほんの一握りだったため、彼らの計画は思うように進むことはなかった。
「これは……どういうことなのでしょうか……」
現在自分が置かれている状況にすっかり怯え立ち竦んだローゼリシアを、護衛の神殿騎士たちが囲むが、さらにその周囲を黒くづめの集団が取り囲んでいた。
「聖婚の儀式の最中であると知っての狼藉か!!」
ローゼリシアを庇うように正面に立つ騎士が、低く重い声音で相手を威嚇するが、敵は静かに距離を詰めて来るだけだ。
ここは奥殿に続く細長く薄暗い通路。
特に隠れ潜む場所もないことから、必要以上の警備は行われていない場所だった。
じりじりと詰め寄る漆黒の集団に、ローゼリシアは小さな悲鳴を上げた。
この通路さえ抜ければ、奥殿では多くの騎士たちが次の儀式のために控えているはずだった。何とかこの場を突破したい。そうすればたくさんの味方がいるはずだからだ。しかし、前後を塞がれた状態では前にも後にも進めそうにない。
ローゼリシアは小刻みに震えだす身体を必死に宥めた。震えることしかできない自分があまりに不甲斐なかった。彼女の霊力は治癒や補助に特化している。直接敵を討ったりするような攻撃的な力がないのは、彼女の性質によるものなのかもしれない。
「聖婚の儀式が成らねば、マーレヴィーナに次の安寧はもたらされません。どうか、ここを通しては下さいませんか?」
ローゼリシアの心からの言葉は、残念ながら相手には響かなかったらしい。ならば、強行突破しかない。
指先に力を込めて、周囲に意識を集中させる。
彼女たちを取り囲む敵の数は味方の数倍の人数だ。統率された動きに、それなりの訓練を受けてきたものであろうことは、武術に嗜みのないローゼリシアですら分かる。
「わたくしが隙を作ります。その隙に一気に奥殿へ……」
ローゼリシアが右隣を守る神殿騎士に耳打ちすると、彼は剣を構え正面の敵と対峙したまま小さく頷いた。
(風よ……光よ、我が手に宿れ……)
言葉には出さず、ローゼリシアは呪文を詠唱しながら脳裏に幻影を描く。指先に仄かな熱を感じて、彼女は手を正面にかざした。
『―――――――っ!!』
目映い光と彼女の周囲を取り囲む強い旋風に、黒くづめの集団が一瞬怯んだ隙を突いて、一歩前にいた神殿騎士はローゼリシアの手を引いて駆け出した。その後を残りの騎士たちが追撃する男たちに対峙する。
純白の婚礼衣装の長い裾が足に纏わりついて走りにくかった。しかしそんな弱音を吐いている状況ではないので、必死に足を動かして出口を目指す。男たちは追ってはくるものの、何故かローゼリシアに攻撃してくることはない。
違和感を感じながらも必死に駆けて、奥殿への扉を押し開き、中へ滑り込んだ時、奥殿の騎士が異変に気付いて一斉に動き出した――その中にライドールの姿もあった。見知った顔を見つけてローゼリシアは安堵の息をつく。
「巫女姫をお守りしろ!!」
聞いたこともないような鋭いライドールの怒声に、銀色の鎧を纏った騎士たちが剣を抜いて黒くづめの集団を迎え撃つ。激しい剣戟の音が恐ろしく響き、ローゼリシアは恐怖のあまりに両手で耳を塞いで目をぎゅ、と瞑った。
「ローゼリシア姫、こちらに」
ふと、耳元に涼やかな声がしてそちらをに顔を向けると、すらりとした小柄な騎士がローゼリシアの手を取った。兜に隠されて顔は全く見えないが、声からすればまだ年若い騎士であることが分かる。しかし、こんな声の騎士に覚えがない。
「ここは危険です。どうか」
柔らかな口調に反して、ローゼリシアの手を握る力は強い。切迫した状況にこの騎士が本当に味方なのか、何者なのか考える余裕もなかった。
騎士は襲い掛かる敵を躊躇なく一閃し、ローゼリシアを庇うように一歩前へ進み出る。
「いきますよ」
正面を見据えたまま、騎士はそう告げるとローゼリシアの返事を待つことなく敵の裏を突いて奥殿の回廊へと駆け出す。無我夢中で、騎士に導かれるままに奥へと進んだ。
聖婚の儀式はこのマーレヴィーナにとって最も神聖で重要な儀式だったはずなのに、何故こんなことになったのか?
ローゼリシアは混乱する頭で考えても、答えは全く見えない。
ただ、分かるのは自分の手を引く騎士の手が意外に細く、氷のように冷たかったということだけだった。




