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海の碧と空の蒼が溶け合ったようなとても美しい世界に、高く透き通った鐘の音が響き渡る。神殿前の広場には海都マーレヴィーナだけでなく、広く大陸中から伝統の儀式を一目見ようと大勢の観衆が集まっていた。
マーレヴィーナにおいて約二十年に一度行われる神聖なる儀式。
聖なる乙女が神に嫁ぐ日――それは海神が、この麗しの都の安寧を授ける日。
今日ばかりは大人も子供も同じように好奇心に満ちた瞳を輝かせて、神の花嫁たる巫女姫の登場を心待ちにしていた。
その観衆に紛れて、旅装姿の体格のよい二人組が睨むように神殿を見上げていた。
「これからどうするんだ?」
若い方の金髪の青年が声を顰めて隣の男に訊く。男は視線を神殿にむけたまま、低い声で答えた。
「今は静観するしかないだろう。実際敵が動くのはこの後の『真』の儀式の際だろうし、それまでに奥殿に戻って『巫女姫たち』の身柄を確保しなければ」
マーレヴィーナの民は聖婚の儀式をこの上なく神聖視しているので、一般公開されている儀式の最中に事を起こすことは考えにくい。
観衆の間を縫うように、二人は足早に神殿に近付いていく。
今日はこの神話の時代から続く神聖なる儀式を祝福するように、雲一つない晴天だった。しかしこの二人はこの慶事を疎むような重苦しい灰色に燻んだ外套に身を包んでいる。この南国のマーレヴィーナにおいて、肌を焼くような太陽の光が差し込んでいるこの季節にその姿は異様でしかないが、このお祭り騒ぎの中では特に気に止めるものもいないらしい。
二人は外套の合わせをかけ直し、深刻な表情のまま、さらに先を急ぐ。
その時、
『――――うわあああああっ!!』
世界を揺るがすような、唸るような大歓声に、彼らは弾かれたように顔を上げる。
鋭く観衆の見つめる先を辿ると、その先には純白の婚礼衣装に身を包んだ美しい少女の姿があった。
儀式に挑む巫女姫の様子を、ライドールは厳しい眼差しで見守っていた。儀礼用の白銀の全身鎧に身を包んだ彼の表情は外からは窺うことはできないが、その鋭い気配に気付かないものはいない。神殿騎士たちは彼の異常なまでに張り詰めた様子に、今の事態がどれだけ深刻なものを孕んでいるのかを、どんなに鈍感なものでも察することができる。
目の前で付き添いの神官や巫女たちの声に応え、花のような笑顔を見せる振る女神のように清らかで麗しい少女は『巫女姫』ではない。昨日までは筆頭巫女と呼ばれていた少女だ。その彼女も昨日の夕方忽然と姿を消し、その上巫女姫までも消えて、今朝方発見されたローゼリシアが『巫女姫』となっていた。
そして、神殿の殆どの者が何が何だか分からない混乱の最中、ついに聖婚の儀式は始まってしまった。
何故こうなってしまったのか、誰一人理解している様子はない。しかし、始まってしまった以上は最早誰も止めようがない。
『巫女姫』不在の際の代理は筆頭巫女が行うことになっている。巫女姫がいないのであれば、筆頭巫女たる彼女が代理を務めるのが役目なので不自然なことではないが、今回の件は異常だ。
その違和感の原因は『巫女姫』ローゼリシアが、自分のことを真実巫女姫だと思い込んでいる点にある。昨日までと様子が全く変わらないのに、そこだけが決定的に違う。
神殿騎士たちがこれだけ戸惑いの中で任務に就いているのであれば、これを統べるライドールの心中は如何ばかりかと察せられて、皆遠巻きにしているのだ。それでなくても元々ライドールは生真面目で融通が聞かず、生まれの高貴さから矜持が高いので接しにくい。今日はいつにも増して近寄り難いオーラを纏っているため、祖国から同行してきた側近ですら側にいない――厳密には別の持ち場を指示されていたのであるが、彼が今のように刺々しい気配を纏っているときは近付かない。
しかし今、その彼に影のように添う騎士の姿があった。
その騎士は殆ど気配もなく静かに佇んでいる。
ライドールと同様に儀礼用の全身鎧に身を包んでいるが、真っ直ぐに背筋を伸ばして周囲に油断なく警戒の視線を走らせている。その様子は鋭利な刃のようで、見るものが見ればこの騎士がただ者ではないことはすぐ分かっただろう。
『どうするつもりだ』
振り返りもせず背後の騎士に投げ掛ける言葉は、このマーレヴィーナにはほぼ馴染みのない北方諸国の言葉だった。
ライドールはここに至るまでにこの騎士の素性について聞かされていた。衝撃は相当のものだったが、彼にとってお互いが使えるものであることはよく分かった。お互いに利用してやろうと意見が一致したので共同戦線を張っているが、決して同士ではない。
『表の儀式は当初から彼女が行うものとして計画されていました。今は通常の警備を行うのみで問題ありません』
落ち着いた声にライドールは小さく息をつく。
失敗は許されない。その緊張感に呼吸の仕方すら忘れてしまいそうになっていた。
(――焦ってはいけない、慎重に、冷静に、いつもの自分を取り戻せ)
ライドールは心の中で何度も呪文のように唱えて言い聞かせる。背後の騎士は彼よりも随分年下なのに、この落ち着きようだ。それに比較して自分は……と情けない気持ちになる。これも場数の差なのかと愕然とするが、そんなことを嘆いている場合ではない。
『本来の儀式に至る前に、彼女を確保します。恐らく、彼もそう動いているはずです』
ちらりと兜の隙間から見えた深い蒼色の瞳に、今まで見たことのないような明確な意思の色が窺える。それはこの騎士の決意の強さを何よりも物語っている。
『――――うわあああああっ!!』
巫女姫が神殿の正面から広場に進み出ると、広場に集まった大勢の観衆から大歓声がまきおこる。観衆の声に笑顔で応える巫女姫の姿を見て、ライドールは複雑に燻る自らの感情を押し殺した。
彼はこの微妙な状態に今までにない焦燥感と不安を覚えていた。
途中までは上手くいっていた筈だった。
しかし、どこから狂い始めたのか。
彼はこの日のために、今日の日のためだけに身を捧げて来たのだ。
敬虔な海神の僕たる自分が、しくじるなど有り得ない。
この後が本当の勝負だと、彼は気持ちを切り替え奮い立たせる。
『切り札』は自分の手にある。これが我が手にある限り誰よりも有利に立てるはずだ。
だからもうすぐ宿願叶うはずだと、彼は信じて疑いもしなかった。




