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大陸の北に位置する小さな国、アーベルで多くの武人を輩出してきたヴァルディス侯爵家に、彼女は生まれた。
父親のヴァルディス侯爵カーマインは当時の王の側近として絶大な信頼を得、また無双の将軍として国内外に知られた存在で、剛の者として畏怖されていたが、一転家庭では大変な愛妻家として知られていた。妻レティシアは女神のようだと賞賛されており、容姿だけでなく心根も美しい女性で、カーマインの溺愛ぶりは誰もが知る有名な話だった。また、結婚に至るまでの大恋愛の様子は吟遊詩人の詩になるほどで、多くの世の令嬢たちに羨望の溜息をつかせていたものだ。
幸せのうちに結ばれた二人であったが、一方で二人は長年同じ悩みを抱えていた。それは二人の間に子がいないことだった。アーベルの社交界ではカーマインが妻を愛し過ぎ、大切にし過ぎるから恵まれないのだと噂したが、当の二人にとっては深刻な問題で、それこそ夫婦関係に影を落とすほどのものだった。
アーベルの剣として、あるいは楯として代々アーベルの武門を代表してきたヴァルディス侯爵家としては、一刻も早い後継者の男子を必要としていた。しかし、当代の侯爵であるカーマインは結婚後十年以上経っても一向に子宝に恵まれず、どちらかに原因があるのではないか、もう一人妻を迎えるべきではないか、と一族から詰め寄られることが多くなっていた。
アーベルの貴族は複数の妻を迎えることに法律的な問題はない。しかし、カーマインは妻レティシアを唯一の妻と公言し、第二夫人を迎えるなど考えられないと拒否した。彼の愛が、愛しい妻を精神的に追い詰めているとも知らずに。
しかし、二人の愛が、祈りがついに神に届いたのか、結婚後十五年にしてようやくレティシアが懐妊した。カーマインの歓喜は語り草になるほどだった。彼は妻の腹部を撫で、妻の中に芽生えた命に早く産まれてくるよう毎晩のように囁き続けた。そんな夫の様子を彼の美しい妻は切なげな瞳で見つめていた。
レティシアは妊娠してからというもの体調を崩し、寝込むことが多くなった。彼女は愛する夫のために無事に子を産むことだけを考えて過ごしていた。どうか、夫の望む男児が産まれますように、そう願い続けていた。しかし、難産の上命懸けで産んだ我が子は、願いに反して彼女にそっくりな女児だった。白銀の雪のような髪に夜空を映したような深い蒼色の瞳を持つ天使のように美しい子供。しかし、レティシアは夫に申し訳ありません、と謝罪しながら、産まれた我が子に触れることなく失意のままにこの世を去った。
カーマインの絶望は深く、その悲しみと怒りは産まれて間もない娘へとまっすぐに向かった。
彼は娘を抱くことはおろか指一本触れることもなく、名前すら与えず、妻を殺したと言って赤子の腕に自ら罪人の焼印を押し当てた。アーベルにおいて親殺しは大罪だった。カーマインにとっては赤子は娘ではなく、妻を彼から奪った仇でしかなかったのだ。
赤子はクラウティーエと名付けられた。生前レティシアが考えていた男児の名前。誰も名付けないから侯爵家の誰かが便宜上そう呼び始めると、いつの間にかそれが定着していた。
クラウティーエは家族の愛を全く知らずに育った。
父親は彼女の存在を徹底的に疎んでいたのでクラウティーエの顔を見れば酷い虐待を繰り返し、一族の主であるカーマインの態度に一族は従うので、屋敷では誰も彼女を庇うものなどいなかった。
アーベルの貴族階級の女性は髪を長く伸ばすのが慣例であるが、彼女は髪を伸ばすことを許されず、何時も彼女は男性のそれよりも短い髪であることを強制されていた。
クラウティーエは聡い子供だった。
彼女は物心つく頃には自分の存在が周囲にとってどんなものであるかを、恐らく正確に理解していた。女児を望まない一族にあって、新たな妻を望まないカーマインのせいで、侯爵家は嫡流の後継者不在の状態が続いていた。そのため彼女は自ら女であることを切り捨てて、男として振る舞うようになった。剣術の修練にも勉学にも必死に励んだ。同じ年頃の貴族の子女が誰もまだ学びの時期に入らない頃から、何とか父親に認められたい一心で懸命に励み続けた。
しかし、そんなクラウティーエの想いも届くことはなく、一族の再三の説得に折れたカーマインが、妻の一族から妻に似ていない娘を後妻に迎え、そして後妻との間に待望の男子が誕生したことで、クラウティーエは自らの存在の意味を完全に失ってしまった。
義母や弟に何の恨みもなかったが、幼い彼女が折れる心を保ち続けることはできるはずもなかった。
その後すぐに妹が産まれたが、あちらは蝶よ花よと大切に愛で育てられ、一体自分はどれほど罪深い存在なのかと思い知らされる。父の――侯爵の最愛の女性の命を奪った忌まわしい存在、それが自分なのだと、彼女は寄る辺のない思いをもて余していた。
この世界において、彼女にはどこにも居場所はなかった。
生きる意味もなくした彼女に唯一残されたものは、腕に刻まれた焼印――国のために死ぬことだけだった。そのためにずっと相応しい死に場所を探していた。自分で命を絶つことは、侯爵夫人を殺した彼女に許されることではなく、誰かがこの永遠に続くであろう絶望の連鎖から死という剣で解き放ってくれることを、彼女は焦がれるように切望していた。
そんな時、彼女に射し込んだ鮮やかな光。
彼は初めて、何の蟠りもなく、ただ個人としての彼女を見てくれた人だった。
彼女に先入観なく接し、手を差しのべてくれた人。
眩しすぎて、不相応なことは誰よりも自覚していたが、胸を抉るような切ない痛みは、彼女に初めて温かい心も教えてくれた。
彼女は決意した。
この方のために死のう、と。
自分の命はこの方のためだけに使うものだと。
彼女が仕えるべき王家の嫡流であり、次期国王であった王子レイスルディアード。
彼こそが彼女の生きる意味。存在の理由。
魂の一欠片まで、彼女の全てを捧げるべきひと。
彼の願いを叶えるために、この命は生かされているのだと。
今日も彼女は目を閉じ、無慈悲な神に祈りを捧げる。
どうか、彼の未来が輝けるものとなるように。
あの日に見た笑顔を、取り戻せるように。
ただ、一心に、祈る。




