3
柔らかい光に、彼は睫毛を震わせた。
一月近く、海底の奥殿で生活していたため、直接日の光を浴びるのは久しぶりで、奇妙な感覚だ。
それにしてもどうして自分はここにいるのだろうか? と彼はぼんやりとした意識の中で考える。頭の中に深い霧がかかったようだ。
ゆっくりと深呼吸して、周囲を見渡すと、ここはお世辞にも綺麗とは言い難い狭い一室だった。下町の安宿のような印象を受ける。傭兵として諸国を渡り歩いていた時は、だいたい同じような宿を利用していたため、特に不快感はないがどうしてここにいるのかが全く分からない。
意識を失う前、彼は奥殿の礼拝室に閉じ込められていたはずだった。
刺客の屍の山と、巫女姫と。
(そう、巫女姫――――)
彼女がおかしな術をかけたのは覚えている。
彼女の冷たい指先が額に触れた瞬間、堪え難い不快感に襲われたのだ。
しかし、彼女の目的がいまいち分からない。巫女姫は『罪』の焼印を刻まれた祖国の民だった。何の罪を犯したのかは分からないが、彼女がかつての自分の民だったのなら、あれは自分に対して何らかの意図をもっているのは間違いない。そして、意識が途切れる直前に聞こえた言葉が妙に引っ掛かっている。あれが幻聴でなければ、彼女は――。しかし、彼女のような類稀な容姿の少女なら、忘れる筈もないのに全く心当たりがない。
分からないことが多過ぎて、しかも覚醒直後の緩慢な思考回路では上手く整理することが出来なかった。だが、目覚めた以上はこんなところで横になっている場合ではない。どことなく気だるさを訴える体を叱咤して、半身を起こそうとした。
「――やっと起きたか……」
突然かけられた声に反応して顔を上げると、扉に背を預けるような姿勢でナイジェルが彼を見下ろしていた。
未だに状況が把握出来なくて訝しげな表情のルディを見て、ナイジェルは露骨に眉を顰めた。心底呆れた、とあからさまな嘆息まで吐いてみせる。
「ここは――――」
「陸の上だ、アーベルの元王子」
「なっ……!」
ルディは全く想定外の奇襲を受けたかのように、目を瞠り、言葉を失う。ナイジェルは扉を静かに閉めると、手にしていた小さな盆を傍らの机に乗せ、ゆっくりと近づいてくる。
「こちらとしても一度きりの機会を逃すわけにはいかないからな。作戦を万全にするためにも正確な情報は不可欠だ。だから色々調べさせて貰った……と言っても判ったのは数刻前だがな。巫女姫の素性を探っていたら、偶然お前がおまけで付いてきた」
「巫女姫の素性……って、一体あいつは何者なんだ?!」
掴み掛からんばかりの勢いのルディを片手で軽く制して、ナイジェルは窓辺に立ちカーテンの細い隙間から外に視線を遣る。その表情はとても厳しい。
「それをわたしに訊くのか? お前の方が付き合いも長いのではないか?」
「どういう、……ことだ?!」
知らず、声が掠れる。得体の知れない焦燥感に、目眩すら感じる。
「彼女はお前の国の民だろう? 旧王家に忠誠を未だに捧げる忠義の騎士――」
ルディは必死に記憶の糸を手繰り寄せる。しかし、どんなに思い出そうとしても『巫女姫』に重なる人物を思い浮かべることが出来ない。いや、一人だけ思い当たる者がいる。けれどもそれは最も有り得ない人物のはずだった。
「お前を奥殿から出したのは彼女の依頼だ。彼女はどうしてもお前を神殿に関わらせたくなかったようだ。あのまま奥殿にいたら、確実に濡れ衣を着せられ消されるのは明白だったからな。それは彼女が今まで必死になって成そうとしてきたことを、一瞬で無駄にしてしまうことでもあり、唯一の希望を失うことでもあったから」
ナイジェルは窓に掛かるカーテンを勢いよく開けて、振り返る。窓からは目映い光と海都の喧騒が飛び込んでくる。それは凍っていた時が溶けて、動きだすのを象徴しているかのようだった。
「彼女は国が落ちる前からずっと、お前の為だけに生きてきた。そして最後に命懸けでお前への忠に殉じようとしている」
ナイジェルの声が、静かに響く。ルディはともすれば震えだしそうな体を必死に押さえつけ、男を見返す。その真摯な表情から、ナイジェルが嘘や偽りを語っているようには見えなかった。
(どこかで俺は間違えたのか?)
繰り返し、繰り返し自分に問いかける。その度にそんなことは有り得ないと青年が叫び、でもそれが本当だったら、と少年が叫び返す。
「彼女の名前は?」
ルディの声が震える。絞り出すようなそれに、ナイジェルは一瞬冷ややかな視線を向けたが、少しの沈黙のあと、はっきりと告げた。
「クラウティーエ・エリン・ヴァルディス」
ナイジェルの返答を受けて、ルディは溢れる感情を抑えるために目を閉じた。
クラウティーエが生きていた。その事が、ルディの中で嵐のように秘めてきたものを激しく揺さぶる。
なぜ、彼女の母親はクラウティーエが死んだなどと嘘を言ったのか?
なぜ生きていたなら再会した時に彼女は自分に何も言わないどころか、敵意すら向けてきたのか?
そして彼女は最終的に何を成そうとしているのか?
固く拳を握り締め、ルディは呼吸を整え、じっとこちらを伺うようにしているナイジェルに告げた。
「あんたはこの後、奥殿に戻るんだろう?」
知ってしまった以上は、何もしない訳にはいかない。寧ろ、あの子を放っておけるはずはなかった。あの雪の中に残してきたことを後悔して、絶望に沈んだ日々は忘れようもなく、未だに彼の心に深い傷となって血を流し続けている。
このままなら、クラウティーエは『巫女姫』として命を落としてしまう。そんなことは許せるはずはなかった。
「俺を奥殿に戻してくれ」
固い決意を込めた言葉に、ナイジェルはそう来なくては、と口角を上げた。




