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ライドールは自分の執務室に急いだ。
まずは情報を整理し、今後の対策を練らなければならない。方向を間違えては取り返しのつかないことになるが、慎重に検討する時間もない。これからの予定を考えたなら、事態は一刻を争う。
執務室に駆け込むと、そこには彼の側近が厳しい顔つきで他の神殿騎士と話し込んでいたが、主の姿を認めると駆け寄ってきた。
「閣下、巫女姫が見つかったようです」
公国時代からの側近の一人であるハーヴィが、いつになく取り乱した様子で膝を折る。
「巫女姫?」
先程神殿長の執務室で聞いたのは『ローゼリシア』の所在が知れているということだった。ライドールはが訝しげに眉を寄せると、ハーヴィも困惑した様子で報告を続ける。
「いえ、巫女姫と名乗ってはおられるのですが……」
彼らしくない歯切れの悪さにピンときた。
「ローゼリシア姫のことか?」
神殿長たちの話からするとそうなるのだろう。ハーヴィは困惑した表情のまま頷いた。
「はい、ご存知でいらっしゃいましたか。左様にごさいます。ローゼリシア姫が奥殿の一室から発見されたのですが、ご様子がおかしいことに気付いてお話を伺ったところ、どうやら御自身のことを巫女姫だと思っていらっしゃるようなのです」
続けて詳細を聞くと、意識ははっきりしているし、記憶も『巫女姫』のことを除いては問題ない様子とのことだが、自身を『巫女姫』だと思い込んでいることが問題だ。このまま巫女姫が見つからなければ、オルシュタット公爵や神殿長がどう足掻こうがローゼリシアは『巫女姫』として海神に捧げられてしまうだろう。
「どちらにおられるのだ?」
「はい、奥殿の一室に。御自身の部屋ではなく今まで空室となっていた部屋なのですが……」
報告を聞きながら、ライドールはハーヴィをはじめ数人の部下を引き連れて奥殿のローゼリシアの元へ足早に向かう。
今はとにかく時間がない。移動時間すら惜しい。
殆ど駆け足で案内された部屋に飛び込むと、そこには聖婚の儀式のために巫女姫に用意された婚礼衣装を着たローゼリシアが、穏やかな表情で長椅子に腰掛けていた。
純白の可憐な衣装は以前ライドールが賞賛した以上に、彼女によく似合っていた。
まるで彼女のために誂えたように。
「まあ、ライドール様。そんなに慌てて如何なさいましたか?」
ローゼリシアは小さく首を傾げながら見上げてくる。
この状況にあって、彼女のおっとりとした口調は思いの外ライドールに不快感をもたらす。気を取り直してローゼリシアを観察すると、表情にも口調にも危うさは見られない。至って通常のローゼリシアだった。しかし、彼女の瞳の奥にいつも湛えられていた澄んだ光が感じ取れない。ライドールが何よりも惹かれた、美しい光が。
「ローゼ……いえ、巫女姫。お姿が見えずみな心配しておりました。今まで一体どちらにいらしたのですか?」
ローゼリシアの前で膝を付き、視線を合わせて尋ねると彼女は少し考えるように瞬きしたあと、ゆっくりと花が綻ぶように笑った。
「こ心配をお掛けして申し訳ありません。昨日の夕刻、どうやら疲れが溜まっていたのか部屋に着くなり倒れてしまったようなのです。ですが今はすっかり体調も戻って、午後の儀式を執り行うのには問題ありませんから、どうか安心なさって下さいませ」
彼女は自分が『巫女姫』であることに何の疑問も抱いていない様子だ。
ライドールはこの後も幾つか質問を重ねて、ローゼリシアの状態を測ろうと試みた。結果、ローゼリシアは『巫女姫』の存在だけを綺麗に忘れているようだ。
そこに意図的な悪意を感じることができる。ローゼリシアのこの状態を作った者と、巫女姫が姿を消すことになった原因は恐らく同じだろう。
昨日から姿を消している男、グラント。
オルシュタット公爵が忌々しげに吐き捨てた言葉にアラザイド家の名があったが、彼はそのアラザイド家の出身だったはずだ。前代の神殿長もアラザイド家の出で、前回の聖婚の儀式の後すぐに解任されたと聞いている。その後、アラザイド家の権威は一気に失墜した。家柄から、神殿長の座も常に射程圏にあったアラザイド家の立場は一転してしまった。
グラントは一族の復権に躍起になっているように見えた。卑屈にすら見える慇懃な態度も、一族のために必死にやっていると思えばさして不快には思わなかった。ライドールも状況的は似たような立場と言うこと出来たからだ。
しかし、ある意味で彼に共感できたのも昨日までだ。
彼は彼で自らの目的を果たすために、虎視眈々と時期を見計らっていたのかもしれない。無能の仮面を被っていたのかもしれないし、見たままの存在なのかもしれない。
だが、たった今グラントとライドールは完全に対立する立場に立った。
完全に敵となった以上は容赦しない。
グラントはハーヴィたちにローゼリシアを託すと、次の行動に移る。
敵の先を往かねばならない。考える時間は全くない。だから考えながら動かなくてはならない。
次に確保すべき人物は―――
ライドールは奥殿の最奥に向かう。
ここは人の行き来が殆どない。しかし、以前通りがった時に気になる箇所があった。
一見何もない通路だ。
しかし、空気の流れが不自然であることに気付いたのはいつのことだったか。
ライドールは神経を研ぎ澄まして通路の壁を探る。通路の半分以上を過ぎ、思い過ごしかと嘆息しかけたその時、指先に違和感を感じて立ち止まる。
腕に力を込めると壁の一部がくるりと回転して、ライドールは勢いよく中に転がり込んだ。
「――――!!」
飛び込んだ壁の中は空洞となっていた。
すぐに身を起こし周囲を窺う。その瞬間、背後から凍てつくような鋭い気配を感じて振り返った。
「……巫女、姫…………っ」
そこにいたのは薄闇にぼんやりと浮かび上がる、白い影。
氷のように怜悧な眼差しを向けて、彼女はゆっくりと近づいてくる。
「ローゼリシア姫をお救いしたいですか?」
抑揚のない声。それは状況が状況だけに、一層冷たく響く。ライドールは突然のことに言葉を失って目を瞠った。
「利害が一致する部分もあると思います。姫君を都に生きて帰したいなら、力を貸して頂けませんか」
意外な言葉に、ライドールは返答も忘れて巫女姫の顔を凝視する。
彼女の真摯な瞳に、目が離せなくなった。




