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時間というものは、情け容赦もなく淡々と過ぎていくものだ。
聖殿の天井から降り注ぐ淡く柔らかい光を恨めしく見上げながら、ライドールは忸怩たる思いを噛み締めていた。
昨日の夕方に姿を消した巫女姫とローゼリシアを発見することができないまま、遂に朝を迎えてしまった――聖婚の儀式当日の朝を。二人を夜を徹して探し回ったライドールは体力的にもそうだが、精神的に限界が近かった。ローゼリシアも巫女姫もそれなりに護衛がついていたはずだ。それなのに彼女たちは忽然と姿を消した。ライドールは警備上の責任を問われるだろうが、今の彼にとって重要な問題はそこではない。
――例の傭兵の姿も消えていた。奴がこの事態に関わっていることは間違いないだろう。
素性の知れない、怪しい男を何故神殿に入れたのか。あの仕事の出来ない高級神官が、むざむざと鳥籠に猫を入れるような真似をしたとしか思えない。それを阻止できなかった彼にも非はある。それが悔やまれてならない。
ローゼリシアは一体どこに消えてしまったというのか。
昨日の昼過ぎまでは明日の最終確認のため熱心に動き回っていたはず。疲労のためか顔色の悪い彼女を案じながらも、彼自身も務めに忙殺されていて補佐に回れなかった。あの場では誰もが自分のことで精一杯で、他人の動きに気が回らなくなっていた。そこに隙があったのかもしれない。
今は悔やんでいる場合ではない。一刻も早く神殿長に会って、今日の儀式をどうするのか相談しなければならない。神殿長の元にもこの報告は当然もたらされているだろうから、そこでも何らかの動きがあるはずだ。そう思ってライドールは神殿長の執務室へと急いだ。
表の神殿にある神殿長の執務室では、神殿長ゼイオスとオルシュタット公爵の姿があった。二人とも表情は一様に険しく、執務室内の空気は凍りついている。部屋の扉が不用意にも半分開いていたため、ライドールは許可も得ず室内を窺うことが出来た。いつもはこのようなことはあり得ないほど慎重な人物だけに、こんな基本的なことにすら気が回らなくなるような、緊迫した事態であることが分かる。
「巫女姫が姿を消したというのは誠か?!」
オルシュタット公爵が苛々した口調で神殿長に詰め寄っている。本性はともかく表面上は努めて温厚な人物を装っている公爵が、ここまで感情を露にすることはとても珍しい。そして対峙する神殿長ゼイオスも常の平静さを欠き、すっかり青ざめてしまっている。
「恐らく、内部の者の仕業かとは思われますが……」
言葉は推測の体を示しているが、口調は断定的だ。
「聖婚の儀式はどうなるんだ。このままでは二十年前の二の舞だ。これでは一体何のためにお前に別の巫女姫を立てさせたのかわからぬわ。ローゼリシアはどうしている?」
「奥の別室に。しかし、様子がおかしいのです。とても混乱しているご様子で、御自身が『巫女姫』だと」
「暗示でも掛けられたか? 忌々しい! これもなにも二十年前のことを根に持ったアラザイド家の仕業だろうよ。あんな家は前回の咎でさっさと潰しておくべきであったわ。それをお前が挽回の機会を与えてやれと温情など与えるからに……」
早口で捲し立てるオルシュタット公爵の激高ぶりに、神殿長も返す言葉もなく神妙に項垂れている。
それにしてもローゼリシアが見つかったらしいが、そのような報告はライドールのもとへはなされていない。これは一体どういうことなのか、とライドールは訝しむ。ライドールは扉の影に身を潜ませて、二人の重鎮の会話を盗み聞きすることにした。
「そもそもの発端は前代の神殿長が先の巫女姫に年甲斐もなく傾倒して、巫女姫の本当の役割を教え、逃がそうとしたからだろう。結果巫女姫は海の怒りを買って大波に呑まれて落命し、代わりのカレンシェリナが巫女姫を務めたことで、筆頭騎士のナイジェルが秘密を持ったまま行方知れずになったのだ!」
感情に任せて怒鳴り散らすオルシュタット公爵は、怒りのあまりいつもの冷静さを完全に失ってしまっている。そのせいか随分と失言が多い。日頃は胸に溜め込んできたものを、一気に吐き出すような勢いだ。
「ローゼリシアをむざむざと贄にしないために、あの小娘を拉致してきて巫女姫に仕立て上げてきたのに、この土壇場で姿を消されるとはどういうことだ!」
「あの娘は納得して、自らの意思で神殿に来たのです。それにあれにも目的はあります」
「しかし、交換条件の家族の安全の保証はともかく、エディスガルドの宝鏡など神殿のどこにあると言うのだ。死んでからなら反故にしても分からんだろうと安請け合いしたゆえに、気付かれてしまったのではないか?!」
公爵の口調はますます激しさを増す一方だ。聞いているだけでこちらの耳が痛くなる。
そして、比例するように話の内容が更にキナ臭くなっていく。混乱する思考をどうにか落ち着かせながら、ライドールは必死に会話から得た情報をまとめることに集中した。
巫女姫はローゼリシアを『巫女姫にしないために』オルシュタット公爵の命で神殿長がどこからか連れてきた。
巫女姫には『巫女姫になるために』神殿から交換条件が出された。それは神殿の秘宝とされるエディスガルドの宝鏡を与えることが含まれていたが、宝鏡は神殿になく、神殿は約束を守るつもりはないし、また、守ることも不可能である。
巫女姫は『贄』である。マーレヴィーナの安寧を守るための人身御供だ。
オルシュタット公爵は愛娘を『巫女姫』にする気は全くない。けれど娘の神殿で立場は下げたくない。大事な娘はマーレヴィーナの民から敬愛される貴い身分に置いておきたい。けれど喪いたくもない。
そこで立てられたのが『裏』の『巫女姫』。表の華やかな仕事はローゼリシアが『代役』として務め、巫女姫の『真』の仕事は『裏』の『巫女姫』が行う。
確かに巫女姫の霊力はローゼリシアを凌ぎ、ライドールもこの件に関しては畏怖の念を抱くほどだ。しかし、彼女は決して表には出ることはなかった。それは巫女姫の傲慢な自尊心からくるものだと思っていた。それが間違いだとしたら……?
「いずれにせよ巫女姫には束縛の禁呪が掛けられている。この奥殿から生きて出ることは叶わないのだ。早急に探し出して、『海神』に差し出すんだ!」
公爵が動く気配がして、ライドールは咄嗟にもと来た回廊に戻る。急いでローゼリシアを見つけ出さなければ。角を曲がり、神殿長の部屋が見えなくなるとライドールは奥殿に向かって駆け出した。




