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目覚めたら視界全てを包むような、真っ白な光の中にいた。
どうして自分はここにいるのだろうか?
薄い靄のかかったような、どうにもぼんやりとした意識の中で、ゆっくりと視線だけを動かして周囲の様子を伺う。
どうやら自分は大きな寝台の上に横たわっているらしい。白い光だと思っていたものは、純白の天鵞絨で作られた天蓋であることが分かる。
何故自分はここにいるのだろうか?
それよりもここは何処なんだろう?
何時から、何故、どうして……?
疑問符ばかりが頭の中に浮かんでは渦を巻き、益々混乱の極致へと誘われるようだ。
ふと、指先に力を込めると難なく動く。何故か自分の体は動かないんじゃないかと思っていただけに、吃驚して大きく瞬きを繰り返した。しかし、覚醒直後のためか体はどこか重く倦怠感に眉を顰めるが、特にどこも怪我をしている感じもしない。実際に体のあちこちに触れてみてもどこも傷付いたりしていないようで、思わずほっ、と重い息を落とす。
だが、とにかく現状を把握しなければと気持ちは焦るものの、何故か頭の中がすっきりしない。体には異常は見当たらない。意識もしっかりしていると思う。それなのに何故か頭の中だけがぼんやりとしている。
自分の名前も、出自も、ちゃんと分かる。なのに大切な何かが欠落しているような不快感、そして理由の分からない焦燥感。
今は大変な時期のはずだった。
約二十年ぶりに行われるはずの大事な聖婚の儀式は、いよいよ明日に迫っていたはずだ。
自分はその準備のために、連日寝食を削って奔走していたではないか。
当日の段取り――会場の設営の指示や、儀式に関わる神官や巫女の配置、警備担当の神殿騎士との打ち合わせ、来賓の接待の手配、儀式を見に来るであろう一般の市民の対応手配……。やるべきことは山のようにあったのに、段取りも上手くできるように周囲に根回しもきっちり行ってきたのに。肝心なところで肝心な人が動いてくれなくて……。
あの、巫女姫が……――。
……巫女、姫………………?
「お気付きになられましたか?」
誰かの声がする。
恭しい丁寧な口調。けれど媚びへつらうようなそれに彼女は不快感を覚える。彼女が微かに眉を顰めたのを見て、男は彼女の手を取って大袈裟に嘆いて見せる。
「ああ、お痛わしい。連日の聖婚の儀式の準備で疲労が溜まってお倒れになられたのです。御気分が悪いのですか、それとも頭痛がするのでしょうか。貴女様は随分と魘されておいでだった」
男の声が耳障りでしょうがない。
しかし、見たところここにはこの男しかいない。
(わたくしには時間がなかったはず。大事な、役目があったはず……)
不本意ではあるが、男に聞くほかに選択肢はなさそうだ。
「ここは、どこですか?」
「奥殿の貴女様のお部屋です」
言われて周囲を見渡すも覚えがない。確かに自分の部屋は奥殿の中にあったとは思うが、雰囲気が違う。こんな色合いではなかった気がするし、こんなに胸に重くつかえるような甘ったるい香りはしなかったと、思う。
「今は、何時ですか? わたくしはどれくらいここにいるのですか?」
「今は聖婚の儀式当日の早朝です。貴女様がお倒れになって半日が経ちます。でもよかった、お目覚めになって。このままお目覚めにならなかったらどうしようかと、本当に心を痛めていたのです」
儀式の当日――!!
彼女は驚愕に思わず起き上がろうとし、その瞬間に強烈な目眩に襲われる。額を押さえて目眩をやり過ごそうとするも、頭痛は酷くなるばかりだった。
「そうは言っていられないでしょうが、今しばらくは安静になさって下さい。今日は大事な大事な日です。少しでも万全に整えないと」
男は彼女にまだ寝台に横になっているように言う。
いや、そういう状況ではないだろうと反論しようとしても、男は彼女の肩を押さえて寝台に戻されてしまう。
「時間がないのです。わたくしは……」
男の手を退けようとして伸ばした指先に、ふと見慣れないものを見つけて、彼女の動きが止まる。
細い指に輝く宝珠を嵌め込んだ指輪。もう何年も彼女の指にあるそれはこんな色をしていただろうか?
美しく澄んだ輝きを湛えるその宝珠の色は、紫。
その色が示すものは――。
驚きに固まっている彼女に男は静かに告げた。
「貴女様は我々にとってこの上なく大切なお方です。今日という日は貴女様が主役となる日なのですから……」
頭痛はさらに激しくなる。
ズキズキと痛む米神を押さえながら、落ち着こうとして大きく息を吸い込むと、部屋に充満している甘い臭いにさらに気分が悪くなる。意識は明瞭だ。しかし、奇妙な感覚に包まれる。
自分は一体何をしているのか?
自分は今まで何をしてきたのか?
――わたくしは、何者なのか?
「貴女様は午後の儀式に備えてこちらでお休み下さい。準備はお任せ下さいませ、我々が全て万端に行います。どうか、心安らかに……」
頭の中が濃い霧に包まれてくる。
(――わたくしは、誰?)
誰かが耳許で囁いている声がする。
(貴女様が、相応しい。貴女様こそが我々の望んでいる――)
ゾクリ、背筋が凍えた。
やめて、と誰かが制止の声を上げるがすぐに霧に掻き消される。
誰かが泣いている、あれは一体誰?
聞いていけないと誰かが叫んだ。でも耐えられなかった。
自分はずっと耐えていた。
もう楽になりたかった。楽になることを赦されてもいいと思った。
「刻限になりましたらお迎えに上がります。それまではごゆっくりお休み下さい」
男の声が沁みるように自分の裡に入り込んでくる。
不思議ともう、不快感は感じなかった。
何かを喪ったような喪失感がチクリと胸に爪を立てたが、それもすぐに消えた。
「我らの巫女姫様」
指輪の紫の宝珠が、鈍く光ったような気がした。




