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筆頭巫女とは、神殿に仕える巫女たちを束ねるもので、巫女姫の補佐も務めるらしい。
神殿長に次ぐ地位にあり、別格の存在である巫女姫を除けばこのシェーラミルデ神殿の次位の存在だ。しかしローゼリシアの立場はそれだけには留まらない。彼女は表向きは『巫女姫』として、神殿の公式な儀式の幾つかを代理で務めているのだという。
「じゃあ、海都の民が巫女姫だと思っているのは……」
「はい、わたくしです。巫女姫様は気位の高い方。奧殿の外には一歩もお出にはなりません。よって、わたくしたちの民の前に一度もそのお姿を見せたことはないのです」
そういうことか、とルディはようやく噂で聞いた巫女姫と、先程出会った巫女姫との明らかな齟齬の原因を突き止める。それは人々のいう慈悲深い巫女姫は、別人だったからだ。目の前のローゼリシアは噂通りの『巫女姫』で、彼女を見れば納得もいく。慈愛に満ちた眼差し、穏やかな物腰、優しい柔らかな口調、そして可憐な容姿。いかにもな『巫女姫』だ。彼女は純白の絹の、見るからに極上の布地をふんだんに使って仕立てた長衣を身に纏っていて、その襟や裾には銀や濃紺の糸でレースのような繊細な刺繍が施されている。額のサークレットや胸元のネックレスの中央で輝く瑠璃はこれもまた大きさもも極上。神殿に仕える者として、王侯貴族のような過剰な華美さはないものの、隣に控える神官や神殿騎士と同様に煌びやかな装いだ――あの巫女姫の全く装飾もない質素ともいえる装いとはこれも両極のものだった。しかし巫女姫は服装以前にあの圧倒的な存在感から、只者ではないことが子供でも分かるだろうが。
「表に出られない、何か理由があるのか?」
ルディの問いに、ローゼリシアは形のよい眉を下げて、悩ましげに首を傾げた。
視線を落として少し逡巡したのち、言いにくそうに口を開いた。
「巫女姫様は歴代の巫女姫の中でも特に強い霊力をお持ちとか。徒に下々のものと接触することで、ご自身の神聖な霊気が穢れることを疎ましく思われてのことでしょうか……」
海都マーレヴィーナの象徴たる巫女姫が、民の前に出ないこと、しかも理由がそれなら確かに言いにくいだろう。民を慈愛の心で包むはずの巫女姫が、自らの民を疎っているなど知れたら、神殿の立場もない。それで神殿は背格好の似たローゼリシアを代わりに表向きの『巫女姫』としたのか。彼女ならば民の望む理想像通りの巫女姫として相応しいだろう。
それにしても巫女姫は類稀な霊力を持つが故に、周囲に持ち上げられて気位が増長したのか。あのぞっとする眼差しには憎悪や嫌悪、殺意すら感じられた。選民意識も甚だしい。
ルディはそういう人間を最も嫌っていた。
「ですがルディ様、この事を知っているのは神殿でもごく限られた者だけなのです。今回巫女姫様の護衛を依頼するにあたり必要なことなのでお伝えしましたが、どうかくれぐれもご内密に願います」
表向きはこのローゼリシアが巫女姫ということになっているので、奧殿の外ではそのように振る舞ってほしい、彼女の言葉に従うことに異存はない。しかし、
「狙われているのはあんたじゃないんだろ? 敵はこの事を知っている者なんじゃないか」
外部の人間が『巫女姫』を狙うなら、標的はこのローゼリシアになるはず。しかし、先日襲撃の被害に遭ったのはローゼリシアではなく巫女姫だという。それなら襲撃者もしくは黒幕はこの事実を知るものに限られるだろう。
「ご推察の通りです。ですが、忠実なる海神の僕が巫女姫様や神聖な儀式を脅かすなんて信じがたいのです」
「襲われたのが事実なら、内部に敵がいるということだろ」
ルディは言葉を包まず、率直に考えうる事実を追及する。どう考えてもそれ以外考えられない。ならば早急に、それほど多くない内部の人間を調査していく必要があるのではないか。
「…………」
ルディの正論に、ローゼリシアは悲しげに俯いた。この見るからに世間知らずの、世俗の穢れを全く知らなさそうな純粋無垢な巫女は、身内に敵がいることなど信じたくはないのだろう。甘いと言ってしまえばそれまでだが、世の中は綺麗事ばかりではない。世間は寧ろその正反対の、醜悪で利己的な、ドロドロしたものに満ちている。
彼女は胸の前で祈るように手を組んで、小さく何かを呟いている。その言葉は耳にしたことのない不思議な響きで、ルディが意味が解らず怪訝そうにしていると、神官があれは海神への祈りの言葉なのだと説明した。
神へ祈れば問題が解決するなら、彼のような傭兵は要らない。
「とにかく、俺の仕事はあの『巫女姫』を儀式が終わるまで護ればいいんだな」
「はい、よろしくお願いいたします」
ローゼリシアは頷くと、再度深く頭を下げた。
ルディは奧殿の中に部屋を与えられ、今日は一旦ここに落ち着くことになった。依頼を受けている期間中はこの部屋を拠点として活動することになるらしい。また、傭兵が奧殿をうろうろしていると悪目立ちするので神殿騎士に擬装することになった。部屋の隅に用意された例の全身鎧が置いてあるが、明日からあれを着るのかと思うと憂鬱な気分になる。人が着ているのを見てあれはちょっとな、と思っていたものをまさか自分が着る羽目になるとは。しかし、奧殿から出てこない巫女姫の護衛をするとわかった地点でこうなることは予想できたはず。ルディは自分の読みの甘さに自己嫌悪した。
またこの部屋に来る途中、奧殿の内部の主だった場所についてグラントから簡単に案内を受けたが、内部はそれほど広くなく、構造も単純だった。非公開領域であるあの気が滅入るような長い通路からが奧殿と呼ばれる領域となる。そして先程ローゼリシアに会ったドーム型の天井があるホールに、そのすぐ奧に海神に祈りを捧げる聖殿。聖殿の両翼、右には巫女たちの居室、左は神官や神殿騎士の居室があり、ルディに割り当てられた部屋もこの領域にある。巫女姫の在所は聖殿のさらに奧、奧殿の中の最奧にあるとのことだが、案内は明日に神殿長の立ち会いのもと行われるとのことだった。
「ったるいな……」
ルディは寝台に飛び込み、行儀悪く寝そべりながら盛大な溜め息をついた。
やっぱりやめとけば良かったと、彼は早くも後悔しはじめていた。
何か隠していそうな神官に、明らかに非協力的な態度の神殿騎士。あのローゼリシアも見た目通りの可憐なだけの少女では無さそうだ。
一番の懸念材料はあの得体の知れない護衛対象――巫女姫だ。
ルディの心の深いところで本能が警鐘を鳴らしているのがはっきりと聞こえる。
しかしその一方で、これは避けられないものなんだと冷静な声もする。
「ああ、くそっ!!」
もう少し詳細な話を聞かなければどうにも動きようもないが、聞けば聞くほど面倒ごとに嵌まりそうな気がしてしかたない。ここまで来たらもはや逃れようもない。腹を括って儀式までの一ヶ月を無事に依頼を完遂出来るようにやるしかない。
ルディは急速に襲いかかってきた睡魔に抗うことが出来ず目を閉じる。
特に体力を使うようなことは何もしていない。しかし今日の出来事はルディの神経を今までになく消耗させるに十分だった。
身分の高い人間の護衛など初めてではない。傲慢な人間に対する免疫も不本意ながら十分だ。
しかし今日のあれは他とは比較出来ないほどのものだった。
神殿の人間にあれほどの恐れを感じたことはない。ローゼリシアからも高位の巫女らしい高い霊力を感じたが恐怖までは感じなかった。
(――何者なんだ、あいつは……)
脳裏に灼きついた深すぎる蒼は闇を連想される。吸い込まれたら二度と戻れなくなる錯覚を覚えて、ルディはそれでもあの瞳に囚われてしまった自分を自覚した。
それは畏怖なのか、別のものなのか。
ルディは深い溜息をゆっくりと吐いて、考えることを放棄した。
今ここで色々思案したところでどうにもならないし、今は情報が少なすぎる。
そのまま襲いかかる睡魔に身を委ねて、ルディは眠りの世界へ落ちてゆく――その刹那、彼は懐かしい気配を感じて瞼を開けようとしたが叶わなかった。
「どうして……あなたはこんなところで、一体何をなさっているのですか。あなたの果たすべき役割をどうか思い出してください」