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気付いた時には、もう手の打ちようがなかった。
ここに通じる扉を完全に塞がれてしまい、二人はこの薄暗い礼拝室に数十人の刺客の死骸と一緒に閉じ込められてしまった。この室内に敵はもういないが、濃い血の臭いが充満し息をするのも辛い状態だ。
ルディは扉を開けようと剣の柄で何度も打ち付けて見たり、勢いをつけて体当たりしてみたり、思い付くことはやり尽くしたが、扉はびくともしない。扉は実は幻で、実は壁に描かれた絵であるかのようにさえ思えてきた。
荒い息を弾ませながら結局座り込んだルディは、正面の壁を背にずっと座ったままの巫女姫を睨んだ。
「あんたの霊力でこの状況を何とかできないのかよ」
彼女は刺客を片付けた後、現状に気付き、必死になって扉と格闘するルディの姿を眺めていただけで、全く手伝おうとしなかった。
「……霊力で何でも出来るわけではありません」
彼女は座ったまま視線だけをこちらに向ける。先ほど見せた瞳の光は消え、また例の冥い闇がぼんやりと灯っている。覇気はなく、まるで人形のようだ。
「わたしは万能ではありません……むしろ貴方よりずっと、とても無力です」
目を伏せて膝を抱える姿は幼子のようだった。と、彼女の袖から赤い流れが滴っているのが目に入る。ポタリ、ポタリと白い床にこぼれ落ちるそれは紛れもなく――
「おい、お前!」
声を上げて近付くと、彼女は怯えるように後退ったがルディがその腕を捕らえると、顔を背けてしまう。長い袖を捲り上げ、腕を見ると生白い二の腕を真一文字に切り裂かれており、ドクドクと血が流れている。白すぎる肌に真っ赤な鮮血が鮮やかに、そして禍々しく映える。しかし、ルディの目を奪ったのは傷ではなかった。
その傷の上に刻まれた黒い――
「これは……!!」
そこに刻まれていたのは忘れることもできないものだった。
重厚な盾を、豊穣を司る女神アケイセリスの象徴でもある葡萄の蔓が囲むように描かれている紋章は、今は亡き、ルディの家の紋章――
「どうしてこれが!!」
巫女姫は顔色一つ変えず、逆の手で隠すように「それ」を押さえると真っ直ぐにこちらを見上げる。
「わたしは罪人です。故にこの命は祖国のために捧げるよう定められていました」
確かにルディの祖国アーベルでは重罪人に対して、王家の紋章の焼印を刻み、王家のために命を捧げることを誓わせる。その罰を受けるのはアーベルの貴族階級の者が死刑や終身幽閉、国外追放に次ぐ罪を犯した場合に適用される。しかし、彼女はどうみてもまだ二十歳以下だ。旧王家が失墜したのが約八年前なら、彼女は当時まだ十歳前後だ。一体彼女はどんな罪を犯したというのか。
「お前はアーベルの民なのか!?」
驚愕に声が掠れた。改めて見れば、彼女の容姿は祖国の民に多い色を纏っている。ローゼリシアがマーレヴィーナの民に関わらず似たような色だったために、特に深く考えてはいなかったのだ。
『けれど祖国はもう、亡い。わたしは罪の鎖からは解放されたのです……』
彼女の唇から零れたのは紛れもない祖国の言葉、セルビナ語。その懐かしい響きは思いの外、ルディの心を鋭く深く切り裂いた。
『わたしは自由を手に入れた、もうわたしを縛るものは何もない』
言葉の内容に反して、彼女の声音は何かを堪えるように微かに震えていた。
そしてゆっくりと顔を上げ、血に濡れた腕を伸ばす。それは何かに縋り付くようにも、逆に何かから身を守るような仕草にも見えた。
『わたしは解き放たれた。だからわたしは今、望みのままにいる』
『巫女姫であることが、か?』
セルビナ語で問い掛けると彼女はゆっくりと瞬きして、口元を緩める。
『そうです。わたしはやっと力を手に入れた』
『巫女姫の務めは何か、知っているんだろ?!』
巫女姫は明日の聖婚の儀式で、神の花嫁と言う名の生贄になる。彼女はそれを理解しているらしいとナイジェルは話していた。
本当にそうなのか?
彼女は明日の運命を、本当に理解して受け入れているというのか?
だからこんなに落ち着いていられるのか。しかし死んでしまって何の力が得られるというのか?
『全て承知の上のこと。なのにどうして……』
彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
それに驚き、気を取られてしまったお陰で巫女姫の不審な動きに気が付かなかった。
彼女は血に濡れた指先でルディの額に触れる。
氷のような指が触れた瞬間、突然ルディの視界がぐにゃり、と歪む。立っていられないほどの目眩と吐き気にルディは堪らず膝を付く。
『お前、……何をし…………てっ……』
頭の中を乱暴に掻き回されるような耐え難い不快感に、あっという間に意識を持っていかれそうになる。ルディは懸命に全身に力を入れて意識を保とうと足掻いたが、全く体が言うことを利かない。
せめて、と力の限り巫女姫を睨むもゆっくりと地面が迫ってくる。
『どうして貴方はここに来たのですか、貴方だけは来てはいけなかった』
巫女姫の声が闇に呑まれる意識のなか、何故か明瞭に響く。
頬に触れる冷たい感触が、どういうことだか温かなものに思えてルディは狼狽える。
『我が君、必ずやお役に立って見せます。この命に賭けて』
そこにいるのは誰だ、ルディは闇に問いかけるも声にならない。
そしてもちろん、答える声もない。
けれどどこか懐かしい、不思議な気配を感じながら、ルディは意識を手離した。




