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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
4章 絡まり、縺れゆくもの
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 聖婚の儀式はいよいよ明日に迫った。

 神殿内も今まで以上の慌ただしさを見せており、皆一様に緊張感と疲労を顔にべったりと貼り付けている。これまでなら何かしら巫女や神官の話し声が聞こえ、活気があるというよりどこか緩い雰囲気だった奥殿の回廊も、今は物音一つ立てることさえ気を遣うような緊迫した状況だった。

 ローゼリシアの忙しさもここに来て頂点を迎えていた。

 予想通りというか、この間際になっても巫女姫は奥から出てこない。相変わらずの通常業務を黙々とこなしているだけで、聖婚の儀式の準備には関わってこようともしない。ここまできてさすがのローゼリシアも苛立ちを隠せなくなってきた。

『聖婚の儀式は明日でございます!! 巫女姫におかれましてはこのマーレヴィーナの一大儀式を何と心得られますか。海都の民がこの日のためにどれだけの心血を注いで準備してきたか、どうかお考え下さいませ』

 堪らなくなったローゼリシアは先刻、朝の潔斎を終えた巫女姫のところへ直談判に行った。しかし巫女姫は全く表情一つ動かすことなく言い捨てたのだ。

『――ならば貴女が巫女姫になればいいでしょう』

 抑揚のない言葉は、冷たいを通り越して空虚だった。彼女の深い蒼色の双眸にローゼリシアは映っていなかった。

 あんまりな言い草にローゼリシアの胸に昏い感情が渦を巻く。

(彼女さえ現れなかったら本当はわたくしが巫女姫になるはずだった……)

 考えることを避けていた思いだった。考えてはいけないと思って、ずっと胸に秘めていた思いが、鎌首をもたげてくる。

(どうして、わたくしではなかったの?!) 

 巫女姫になるために、物心つく前から神殿での修練に全てを捧げてきたのは一体何のためだったのか。悔しくて、苦しくて、遣り場のない思いに気がおかしくなってしまいそうだった。そんなローゼリシアの思いに気が付く様子もなく、巫女姫は何の感情の色も映さない昏い瞳でローゼリシアを一瞥すると、そのまま回廊の向こうに消えてしまう。

 今日ほど、無力な自分が恨めしく、悔しいと思ったことはなかった。

 掌をぎゅっと握り締め、唇を噛む。

 ローゼリシアの表情に、いつもの穏やかな色はすっかり消え失せていた。





 ルディは聖殿の奥から気配を殺して、その様子を見つめていた。巫女姫の意図は未だに分からないが、彼女はどうやら巫女姫の役目・・・・・・は果たすつもりらしい。ナイジェルによると、あの巫女姫はこれまでの巫女姫と異なり、その勤め・・について正しく理解しているらしい。だがその理由も、ここにいる経緯もまるで不明だ。巫女姫はどう見てもマーレヴィーナの民とは異なる容姿をしている。あの色彩はむしろルディの生国、アーベルなど北方諸国の民に近い。その彼女は、ただ静かに自らの運命を受け入れているという。

 あの後、ナイジェルから事の経緯・・・・を聞いた。聞いて見れば腑に落ちるが、彼の話を信用出来るかと言えばまた別の話だ。しかしながら、今の現状ではナイジェルの側に着く方が得策と判断した。もし彼の話が真実なら、ルディの命は明日にでも消されるだろうから。

 それにしても、とルディは改めて二人の少女を見る。

 背格好はよく似ている。身に纏う色彩もほとんど同じだ。そして、二人とも一度見たら夢に見そうなほどの美貌だ。これほどの美しい絵を彼は見たことがない。しかし、その対極とも言える雰囲気の差はどうか。ローゼリシアが花の綻ぶ春なら、巫女姫は吹雪く冬。ローゼリシアは大事に大事に育てられたことが良く分かる佇まいだが、巫女姫を包む、あの全てに無関心な、全てを拒絶したような空気は明日の運命を受け入れているからなのだろうか。

 巫女姫については誰も素性を知らない――神殿長ただひとりを除いて。

 本人は語らないし、周囲も聞くことができない。

 彼女の過去については特に関心がないわけではなくむしろ気になって仕方がない。初めて会った時の衝撃たるや、形容のしようがないのだ。彼女があのとき見せた怜悧な殺気は一体何だったのか。あの殺気を感じたのは初対面の一度だけで、以降は彼女からルディに対して何の感情も読み取れない。それが不可解でならない。

 やがて巫女姫が立ち去っていくのを見て、ルディは気配を消したまま巫女姫の後を追った。





 ライドールの苛立ちも限界にきていた。

 計画がまるでなかったかのように上手くいかない。計画とは一体何のためにあるのかと、ライドールは苛立ちのまま近くにあった椅子を蹴り飛ばした。

 ローゼリシアはすっかり例の傭兵に心を奪われた様子だ。あの後、傭兵の方からローゼリシアに接触した形跡はないが、あの無垢な姫君の心はもはや自分にはないだろう。

 初めは丁度都合のよい人形だと思っていた。世間知らずで、素直で、その上美しい。南方諸国で権勢を誇る公爵の息女というのも都合が良かった。彼女を妻に迎えることが出来れば、彼はかつて失った多くのものを取り戻せるだろう。公国での地位も、父大公からの期待と信頼も。そして、新たな後ろ楯を得て、以前よりも大きな力を得ることが出来るだろう。


 そう、考えていた。

 しかし、今は少し違う。


 彼女の裏のない優しい微笑みを見ると、やさぐれていた自分の心が浄化されていくような不思議な感覚に気づいたのは一体いつのことだっただろうか。

 あの傭兵のお陰で気付くことができたことがある。

(――わたしはこんなにも彼女のことを…………)

 ライドールは締め付けるように痛む胸を押さえて目を伏せる。

(そう、誰よりも愛おしいと――)

 彼は今はっきりと自分の気持ちを自覚する。彼女を誰にも渡したくない、彼女の全てを自分だけのものにしたい。初めの、まるで道具のように思っていた気持ちはどこにもない。彼女が例えどんなものであっても、そう、貧民の生まれであっても彼女を手に入れることを躊躇しないだろう。

(そのために計画は完遂するんだ、どんなことがあっても)

 ライドールは聖殿に佇むローゼリシアの背中を見つめながら、決意を新たにした。




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