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深い深い森の奥。
真っ白な雪に閉ざされた森の奥深くに潜むようにその屋敷はあった。
いや、屋敷と言うほどの規模はない。その昔、とある貴族が趣味の狩猟を行うために趣味で建てた、彼らの感覚でいうなれば「小屋」のような建物。持ち主からも忘れ去られたその石造りのその建物には、数か月前からひっそりと小さな家族が住みついていた。家族はまだ二十歳過ぎの美しく嫋やかな女性と、幼い子供たち。年長の子供は十を少し過ぎたばかりで、下の子は少し歳が離れて五歳と三歳。
家族は都から落ち延びてきた。
都では半年前に内乱があって、当時の王が家臣に陥れられ、一族もろとも国を追われた。その事件から、国王の側に付いていた貴族は、新たな王の迫害を恐れ、また追われた王について国外に脱出した。
女性――エリーシャの家族は、故郷では高位の貴族だった。夫は将軍職を拝していたが、王を逃すため盾となって果てた。夫の最後を看取ったのは彼の長子クラウティーエだった。クラウティーエはまだ従騎士になったばかりだったにも関わらず、王から授けられた剣を持ってこの勝ち目のない闘いに身を投じていた。奇跡的に戦場から生還したクラウティーエは父の言いつけ守り、母親と幼い弟妹、従者を連れて都から脱出した。しかしこの古びた屋敷に辿りついた時、従者はここに至るまでに受けた怪我が元で命を落としてしまった。
エリーシャとクラウティーエは実の母子ではない。
彼女は後妻で、クラウティーエは先妻の子だった。エリーシャは先妻であったクラウティーエの母親の従妹にあたり、先妻はクラウティーエを出産してまもなく儚くなっていた。
エリーシャが夫のもとに嫁いだ時はまだ十五で、彼女自身も幼く、夫よりも歳近い継子への接し方が分からなかった。だからか、母子関係はぎこちなく、互いに遠慮と言う厚い壁があった。とくにそれはエリーシャの方が顕著だった。
彼女は継子がまだ幼く、親の愛情に飢えていることに気づいていたが、自分の子が生まれたばかりで手が掛かり、また自身も体が弱かったため、もしかすると自分よりも大人びたクラウティーエの強がりを看過するしかなかった。
クラウティーエは物心つくかつかないかの頃から父親に騎士となるべく育てられてきたからか、まだ幼いのに清廉潔白で、他人に弱みを見せることはなかった。
いつも穏やかな笑みを絶やさず、エリーシャと弟妹を労わった。日々の糧はクラウティーエが森で狩りをしたり、山菜や果物を採ってきてそれを町で売ったお金で何とか凌いだ。王都での生活と比べることも出来ないささやかな暮らしだったが、小さなクラウティーエ一人で出来ることはこれが精一杯であることはわかっていた。エリーシャが何か手伝おうと思っても、生粋の貴族令嬢である彼女に出来ることは全くなく、かえってクラウティーエの仕事を増やしてしまう。
彼女は申し訳ないと思いながらも、クラウティーエの厚意に甘えるしかなかった。
そんな生活が数カ月続いた冬の初め。クラウティーエが雪の中から少年を拾ってきた。
雪の中で凍死寸前だったという少年は、淡い金髪に透き通るような白い肌をしていた。かつて見慣れた上質な外套に身を包んだ麗しい少年の顔に、エリーシャは見覚えがあった。
――このお方は?!
エリーシャが驚きの声を上げると、クラウティーエは人差指を唇にあてて無言で首を横に振った。
クラウティーエが連れてきたのは故国の王子だった。忘れもしない、あの秀麗な姿はかつてエリーシャも眩しく見つめたことがあった。しかし、今はそんなことを思う心の余裕もない。
――義母上、王子は従者と逸れてしまったようです。従者が見つかるまで、もしくは春になるまでここでお守りすることに致しました。
クラウティーエの声は静かで、凛とした強さがある。クラウティーエは王子をここに置くと決めた、その決定は覆ることはないのだと、彼女に言ったのだ。
エリーシャは本音を言うなら反対だった。王子は亡き夫が忠誠を誓った王家の最後の希望ではあるが、女子供しかいないこの屋敷で、もし追手が来たならお守りするどころか巻き添えになれば、自分も幼い我が子も生きてはいられないだろう。
――王子をお守りするのは、臣としての義務です、義母上。
クラウティーエの決意は揺るがない。もともと父親からこれ以上なく厳格に育てられてきたクラウティーエは、王家に心酔し心からの忠誠を誓っている。ゆえにこの選択しかあり得ないのだろうし、元々クラウティーエは父親と同じで一度決めたら揺るがない。そして幼いながらに、騎士としての忠義を果たそうとしているのが分かった。そしてクラウティーエは今ではこの家族にとって家長であったから、クラウティーエが決めたというなら彼女は従うしかない。
そして家族と王子との奇妙な共同生活が始まる。
エリーシャの危惧を余所に、王都からの追手の気配もなく、何事もなく時は過ぎていく。
王子もクラウティーエの支えで傷を癒し、時折微かな笑みさえ見せるようになって、このままこのささやかな生活が続くかと思った時。転機は唐突に訪れた。王子と逸れた従者が王子の消息を辿って麓の町まで辿りついたのだ。しかし、従者は追手に見つかっており、このままここに王子が潜んでいたら、この小さな家族も巻き添えになることは必至だった。
王子の決断は早かった。王子はすぐさまここを発つと言いだした。彼が自分たちを巻き込まないようにしようとしているのは明らかだった。王子が危険な状況に追い詰められようとしているのは明らかで、それを回避し王子を守るためにクラウティーエは自らが囮になると提案したが、王子はそれを厳しい口調で窘めた。
――お前には守るべき家族があるだろう。お前がいなければ病身の母上や幼い弟妹はこれからどうするのか。
厳しくも優しい王子の言葉に、最終的にはクラウティーエは従った。けれど、幼いと言えばクラウティーエもまだ幼かった。この時はまだ十二歳の誕生日を迎えたばかりだった。こんな場面でも、幼いクラウティーエにばかり重荷を背負わせ、枷をつける自分が彼女はとても情けなく、みじめに思った。
王子が発って、春になり、クラウティーエは今までと変わりなく幼い小さな手に傷を重ねながら、泣き言も言わずに家族のために働き続けていた。それでも、クラウティーエが時折遠くを見ながら辛そうに、長い睫毛を瞬かせるているのをエリーシャは知っていたが、どうすることもできなかった。
そして夏になり秋になり、あれから一年の時が過ぎて冬を迎えたとき、クラウティーエは家族の前から消えた。
『それ』はあっという間のことだった。
クラウティーエは家族の幸せを願い、王子の凱旋を信じ願って、エリーシャたちの前から静かにいなくなってしまった。
そして、残された彼女の胸に残されたのは、言いようのない悔恨と、絶望だった。




