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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
間章 凍えた涙
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 あれは儚い夢のような、つかの間の幸福だったのかもしれない。

 そして、長い長い悲しみと絶望の始まりだったのだろう。




 ――どうか約束を、王子……




 あの子は眩い光に輝く瞳で見上げる。色素の薄い短い髪が、強い北風にそよぐと逆立つように波立って、それでもあの子は向かい風の中でもしっかりと自分の両足で大地を踏みしめて立っていた。


 あの頃の彼は、ひどい孤独の中にいた。

 誰も信じられず、誰も許せず―――誰も愛することなど出来ず。

 全てを失ったと思っていた。

 思えば本当に碌でもない状態だった彼に、あの子供は我慢強く優しく、強い想いを寄せてくれていた。

 あの日の約束は彼の心の奥底で、今もしっかりと根付いている。


 ――わたしは絶対に貴方の味方であり続けます。たとえこの命が尽きても。


 ――ですから王子、必ずアーベルにお戻りください。


 幼いあの子は本来ならまだ大人の庇護下に守られるべき年頃だった。

 なのにあの子は病身の母とさらに幼い弟妹を抱え、泣き言一つ言わず懸命に生きていた。

 別れ際、腕に抱いたあの子は儚くて、こんなにも小さな存在だったのかと驚いたほどだ。

 あの日も芯まで凍える様な寒い寒い雪の降る冬の日だったのに、あの子は厚手の麻の上着を数枚重ね着しただけの姿でそこにいた。腕の中の存在はとても冷たくて、腕の中で微かに震える命に少しでも熱を分け与えたくて、彼は抱きしめる両手に力を込めた。あの子は温かい毛織の服は他の家族に与えていた。貧しくて、自分の分まで買うお金がなかったからだ。日々の暮らしがやっとだったのに、従者とはぐれた生活力のない自分を匿うのはどれほど大変だっただろうか。


 ――王子のお役に立てて光栄でした。


 なのにあの子はそう言って笑う。

 本当にいたたまれなかった。自分よりもずっと幼い子供が、自分よりもずっと強い。それにあの子は自分たちのせいで父親を亡くし、国を追われ、生きるのがやっとの生活を強いられていたのに。

 握りしめた手は小さくて、冷たくて。あかぎれやしもやけ、それに生傷だらけの本当に酷い状態で。本来の立場なら白くて傷一つない綺麗な手であったろうに、その落差に謝罪の言葉も出なくて、自分がどうしようもなく情けなくて彼は逃げ出したい気持ちになった。


 ――約束するから。


 やっとのことで絞り出した言葉は掠れて、酷い声だった。

 見上げる澄んだ蒼い瞳に、彼は誓いを立てた。


 ――必ず、国を取り戻してお前を迎えに行くから。だから……


 叶うことのない約束だと、この時にはもう予感していた。

 言葉遊びのつもりはなかったけれど、どう考えても雲をつかむような話なのは承知していた。

 味方もほとんどおらず、財力もない。全てを無くした自分に一体何が出来るのか。喪った信頼を取り戻す術もなくて、途方もない夢物語だとわかっていたのに。

 でも、あの子のために、自分のために一縷の希望が欲しかった。


 ――どうか、ここで待っていて欲しい。


 ゆっくりと、あの子の見開いた大きな双眸から一筋の涙が流れて、あの子はようやく初めて年相応の表情を見せた。長い睫毛が瞬いて、切なげに揺れた。

 あの子と出会ってもう五年以上経つのに、あの子のこんな素の感情を表に出した表情は初めて見た。


 ――ありがとう、ございます……ありがとうございます…………


 ひっく、ひっくと嗚咽を漏らしながら、あの子は傷だらけの指で懸命に涙を拭った。

 たまらなくなって両手を広げて愛しい存在を胸に抱きとめ、その旋毛に唇を寄せた。このまま、この子を攫って遠い遠いところへ逃げられたらと思う。この健気で哀れな子供を、彼は心の底から愛しいと思っていたから。誰よりもかけがえのない存在だと分かってしまったから。

 けれど連れていくことは出来なかった。彼が行く道は当てのない地獄道で、道連れには出来なかった。

 それにあの子も、家族を残してここから去ることはできないだろう。

 だから、ここで別れるしかなかった。

 この子を、この真白な凍えた世界に残していくしかなかった。


 ――わたしはここで、あなたが宿願叶えて凱旋されることを信じてお待ち申し上げております。

 

 あの子の声は震えていた。寒さだけではなかったはずだ。きっとあの子も分かっていたのかもしれない。


 これが、今生の別れになるであろうこと。


 この後すぐ、彼は心をこの純白の雪の中に佇む子供に残したまま、旅立った。

 一度だけ振り返った時の、懸命に笑みを浮かべて手を振る子供の姿が、今もまぶたに焼き付いている。

 深々と降る雪に、霞む小さな、彼のただ一つの希望だった。





 そして二年後、再びこの地に約束を叶えることのないまま舞い戻った彼を迎えたのは、新たな絶望だった。



  

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