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マーレヴィーナの巫女姫  作者: 綾野柚月
3章 疾走する願い
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 グラントは焦っていた。

 聖婚の儀式を目前に控え、彼の『計画』も順調に進んでいるはずだったのに、ここにきて雲行きが怪しくなってきた。

 神殿長は姿を見せないし、例の傭兵も今のところ依頼については問題なくこなしているようだが、やはり依頼に不信感を持ったか最近妙な動きを見せている。そして、想定外なことに筆頭巫女ローゼリシア姫がルディに興味を持ってしまったようだ。あの美しくも世間知らずな箱入り姫にとって、件の傭兵は相当刺激的な存在だったらしい。傭兵の際立って秀麗な容姿も余計だった。『敵』の実力に対抗するにはそれなりの実力が必要で、それに見合う実力の持ち主で、こちらの誘いに乗りそうな人物は、ルディしか思い当たらなかったのだから仕方ない。しかし、このままローゼリシアがルディに心を奪われるような事態になれば厄介だ。

 もうすぐ『刻限』だ。このマーレヴィーナの命運に関わる大切な時に、彼はは何としても自分の使命を果たさなければならない。


 ――前回・・の轍を踏むわけにはいかない。


 グラントは決意を新たにする。

 もう、猶予はないのだと、心に刻み付けて。





 薄暗い空洞に蝋燭の明かりがゆうらりと揺れる。その様子はあたかも魔物の息吹のようで、その場に立つものに身を震わせるほどの緊張感をもたらす。

 男は改めて先程の小袋から指輪を取り出すと、掌に乗せてルディに見せた。男の大きな掌の上にあるとその指輪は小さく華奢で、不釣り合いこの上ない。しかしこの指輪はここが定位置であるように馴染み、凛とした輝きを放つ。

「この意匠の指輪は歴代の筆頭巫女が持つもので、これは先代の筆頭巫女だった娘の持ち物だった」

 指輪を見つめる男の眼差しはとても慈愛に満ちていて、それでいてひどく切ない。

「わたしはこの指輪の主に誓った。二度と悲劇は繰り返さないと」

 静かな男の言葉は淡々としていたが、重みがある。その言葉の裏には悲痛なほどの決意が見てとれる。

「その指輪の持ち主は……あんたの大切な人だった、と」

「ああ、その通りだ。前回の聖婚の儀式が終わったら、一緒になるはずだった」

 男は一瞬目を伏せる。その様子から、男の大切な人は彼の手の届かないところに行ってしまったのだと予想がつく。

「わたしの名前はナイジェル、先代の筆頭騎士だった」

 男――ナイジェルの名乗りに、ルディは成程、と納得する。筆頭騎士なら神殿内部のことは熟知しているし、ここのような隠し通路も知っていて当然だろう。ということは、あのライドールも知っているのではないか? ルディの疑問は顔に出ていたらしい。ナイジェルはそれを直ぐに否定した。

「この通路のことは前回の聖婚の儀式以降、秘されている。知っているのは前回の時に神殿の次位だった、今の神殿長くらいだろう」

「何故?」

「それは前回の聖婚の儀式を目前に巫女姫がここから外へ脱走し、その直後に事故死したからだ」

 ナイジェルの表情が苦々しく顰められる。彼は続ける。巫女姫は聖婚の儀式を忌避して心を病ませていた。逃れたい一心でここから外へ向かって、荒波にのまれて呆気なく逝った。ただでも聖婚の直前は海が荒れるらしい。

「どうして儀式を嫌がったんだ?」

「それがマーレヴィーナに巫女姫が必要な理由だ」

 ナイジェルの顔がさらに険しくなる。

 心なしか周囲の気温も急速に下がったように感じられた。息を飲むルディに、ナイジェルは喉の奥から絞り出すように言った。

「巫女姫は海神という名の魔物に捧げる人身御供――つまり生贄だ」

 その低い声音と言葉の内容にルディは知らず背を震わせた。

「その事を知っているのは神官の中でもごく上位の者と、マーレヴィーナの古い貴族だけだ。彼らはマーレヴィーナが建国した当初から海を荒らす魔物を鎮めるために、定期的に贄を捧げていた。贄には霊力の高い、美しい少女が選ばれていた」

 ナイジェルはさらに続ける。海都を守るために贄は必要だった。けれど、贄と分かって娘を差し出すものはいないし、本人も拒む。そこで神殿や支配階級の貴族は考えた。魔物を『神』に、贄を『神の花嫁』にして崇め奉り、神格化して誤魔化した。巫女姫となった者は聖婚の儀式で命を捧げるが、神に嫁いだとして以後の存在が消えることを問題視されないようにした。そして、巫女姫を排出した家には恩恵が与えられ、その筆頭がローゼリシアの実家らしい。彼女の家は今やマーレヴィーナ一の権力を持っているが、先祖を辿れば商家で、豊かではあったが政治的な権力を握るような立場ではなかったらしい。

「先代の巫女姫が逃亡の上に死んだことで神官たちは大いに焦った。そして、その代役とされたのがわたしの婚約者だった当時の筆頭巫女、カレンシェリナだった」

 筆頭巫女は神殿の巫女を束ねるのが役目だが、必要に応じて巫女姫の代役も務める。聖婚の儀式直前で死んだ巫女姫の代わりは、筆頭巫女であった彼女の役目だった。

 そして、カレンシェリナもナイジェルも、巫女姫の真の役割を知ったのは聖婚の儀式直前で、その時の驚愕と絶望は今も彼の胸に深い傷となって残っている。

「全てを神殿長に聞いたカレンシェリナは静かに運命を受け入れたが、わたしは受け入れられなかった」

 ナイジェルは当時のことを思い出したのか、厳しい顔つきになる。掌に乗せた指輪をきつく握り締めて、何かを堪えるように小さく首を振る。

「受け入れられるはずもない!」

「それであんたは聖婚の儀式を阻止してどうしようと言うんだ?」

 ここまで聞いても、ルディにはナイジェルの真意が読み取れない。彼はマーレヴィーナを、神殿を憎んでいる。聖婚の儀式も阻止したいらしい。それで巫女姫を狙っているのかとも考えられるが、そう単純なものには思えない。

「わたしはカレンシェリナとの約束がある。二度と聖婚の儀式は行わせない。これ以上、悪しき伝統は断ち切らなければならない、だが巫女姫については様々な思惑が絡んでいる。特に神官たちはわたしと対極の立場にいる」

 ナイジェルは一旦言葉を止めて、手にした蝋燭の炎を睨み据えた。

「そのために神官たちはお前を利用しようとしている。奴らはお前に端から報酬を支払うつもりは全くない。お前が幾ら要求しようが、払うつもりもないのだから幾らだって構わないんだ」

「それはどういうことだ」

 告げられた話しの中に看過できない言葉を見つけて、ルディの声音が自然と低くなる。ルディの態度が予想通りだったのか、ナイジェルは微かに口角を上げたが、すぐに厳しい表情にに戻す。

「お前は巫女姫暗殺の犯人役に仕立て上げられ、その罪をなすりつけるために用意された駒だ。このままではお前は大罪人として消されるだろう」

 ルディの表情が驚愕に凍りつく。ナイジェルは続けた。

「濡れ衣で抹殺されるのが嫌ならこちら側に付け、傭兵」

 ナイジェルの紅い瞳の奥に宿る真摯な光は、強い意思を秘めてルディを捕らえる。

 信じがたくはあったが、何故かルディはナイジェルが偽りを話しているとは思えなかった。




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