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巫女姫の私室と聖殿を繋ぐ回廊は出入りが限られた者のみとなっているため、いつもひっそりと静まり返っている。入口扉の向こうには複数人の上級騎士が厳重に警護しているし、巫女姫の私室の前にもルディの仕事中以外は二人以上の神殿騎士が詰めている。しかしながら、聖殿から私室までは数分の距離があり、入口から私室の扉は見えない。途中に何もない回廊がただ続くだけなので、特に何も問題はないと思われていた。
ルディはこの回廊のとある場所で静かに立ち止まった。夜も深い時間、この場所にはルディの他に誰もいない。自分の足音だけが嫌に耳について彼を落ち着かない気分にさせる。そこは何の変哲もない場所だったが、ルディは慎重に回廊の壁に手を当てて、ゆっくりと探るように奥へと移動する。
――と、指先に微かな違和感を感じ、ルディはその部分を凝視する。
一見したところ、何処にも問題になりそうなものは見受けられない。しかしながら、その指先に感じたものは『ここ』だとルディに伝えていた。
どうしてルディがこんな盗人のような不審な行動をとっているのかというと、理由は一通の手紙だった。
『深夜二刻、指定の場所にて待つ』
特に何の特徴もないただ白い紙に、黒いインクで書かれた簡潔な言葉の下には、奥殿の見取り図のように見える、これもかなり簡潔な図形が書き加えられている。その図が示す場所にルディはいた。手紙自体が罠なのかもしれない。けれど、現状のままでいると事態に何の進展もない。このままでは敵の動きも目的も未だに不明瞭のままで、徒に時だけが流れ過ぎていく。
ルディの受けた依頼は巫女姫の護衛だけだが、この異様な状況で、それだけで終わるとは思えない。破格の報酬もそうだが、内部の者の行動も腑に落ちないからだ。グラントは最近全く姿を見せないし、神殿長に至っては初めに一度顔を見たきりだ。聖婚の準備で多忙なのはわかるが、この閉鎖された奥殿の中で主に仕事をしているのであれば姿くらい見かけることもあるだろう。実際、巫女姫やローゼリシア、ライドールといった面々は意図しなくても出くわすことがあるのだから。
神官たちに何か裏があるのではないか? というのがルディの今のところの推論だが、確かな確信があるわけではない。
そして、『敵』であるあの黒くずめの男と、討ち払っても払っても後を絶たない雑魚たちと、関係があるようにはどうしても思えない。恐らく彼らは別の目的で動いている。裏に指示を出した主がいるなら、別勢力だろう。
そんな中で、聖婚まで間もなくと迫った今、ルディの元に届いた一通の手紙。その手紙は与えられた私室の扉の下に差し込まれていた。
宛名も差出人の名前もなかったが、ルディには誰から誰宛のものかはすぐにわかった。
指先に感じた僅かな凹みに力を加えて押すと、カチリ、と小さな音がする。そのまま壁に手をつくと、何かを引きずるような音がして、見ると壁に細く隙間が出来ている。
(――これは……?!)
さらに力を加えると、思ったよりも簡単に壁の一部が回転し、ルディは壁に添うようにして中に滑り込んだ。彼が壁の奥に入ると同時に回転した壁が元に戻り、まるで何事もなかったように静けさを取り戻している。
これは王宮などによく見られる隠し通路に違いない。有事の際、王族などが脱出するために作られたものだ。かつて、王宮の隠し通路から数人の従者や騎士とともにそこから王宮の外へ脱出したことを彼は苦々しい記憶と共に思い出していた。
壁の奥は想像通り通路になっていて、上へと続く細い階段が見える。視線を上げて階段の先を窺うと、古びた小さな扉が見えた。
ルディは躊躇うことなく階段を昇っていく。通路より、靴音は響かない。余計な気を遣う必要がなくなったので自然と歩調も早くなる。ただ真っすぐ、階段の先にある扉だけを睨むように見据えて進んでいくと、ほどなくその扉に行き当たる。そっと扉の取っ手に触れると、驚くほど簡単に回る。鍵は掛かっておらず、錆び付いてもいないようだ。そのまま扉を押し開けると、そこは小さな空洞のような薄暗い空間が広がっており、壁際に置かれた蝋燭の炎がゆうらりと揺れ、側に立つ人物の顔を浮かび上がらせた。
「時間通りだな」
ルディの予想通りの人物がそこにいた。黒くずめの男は、重い頭巾を払いのける。その下から闇のような黒髪と、禍々しいまでに赤い瞳が現れる。男は赤い眼を細めて微かに嗤ったようだった。
「そうでなくては困るが、お前は案外度胸があるらしい」
男は蝋燭を掲げて近づいてくる。腰には長剣が差してあるが、鞘に入ったままだ。ルディは警戒を解くことなく男を見据える。逆にこちらは何時でも対応できるように手を剣の柄に添えた。
「前置きは余計だ」
ルディは間合いを保ったまま、男の正面に移動する。男が何故ルディを呼び出したのか。その理由は恐らく男がルディにこれまでと違う形で接触したいと思ったからだと、ルディは考えていた。男は少し口角を上げただけで、直ぐに真顔に戻る。
「そうだな、時間もない。だがその前に……」
男はルディの前に手を差し出した。
「先日お前が拾った指輪を返してくれないか? こんなことを言えた義理ではないが、あれはわたしにとってとても大切なものだ」
男のあまりの真剣な様子に、特にこの指輪に対して重要性を感じていなかったルディは、懐に仕舞っていた指輪を取り出してそっと男の掌に乗せる。心なしか指輪の蒼い石がキラリと光ったような気がして、思わず男の顔をみると、彼は指輪を大切そうに指先で撫で、直ぐに小さな袋に入れた。
「それは誰のものなんだ? 筆頭巫女が持っていたものと同じものだろう」
ルディの問いに、男はしばらく指輪の入った袋に視線を落とし、じっと黙り込んでいたがやがて袋ごと指輪をぎゅ、と握りしめると再び顔を上げる。
男の目には今までにない、色んなものを凝縮したような複雑な感情の色が見える。
そして、男はゆっくりと語り始めた。




