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別に疚しいことをしているわけでもなかったのに、居たたまれなさが急に込み上げてきて、ローゼリシアは慌ててルディから離れた。その瞬間、聖殿の入口に立っていたはずのライドールが思わぬ早さで近付いてきて、ローゼリシアとルディの間に割って入る。
「どういうことだ」
「どうもこうも」
低く威嚇するようなライドールに、ルディは酷薄な笑みを浮かべて両手を挙げる。一触即発の気配にローゼリシアはどうしたらいいのか分からなくて、ただおろおろしていた。
「わたしの忠告が耳に入らなかったのか?」
まるで冷静なルディの態度に苛立ちを募らせて、ライドールがルディに掴み掛かろうとしたときは、ローゼリシアも慌てて割って入ろうとしたが、ライドールの余りの剣幕に足が竦んでしまう。
(ルディ様は何も悪くないのに、わたくしが一方的に……)
泣きそうになりながらも、それで何とか意を決していがみ合う二人の間に入ろうとしたとき、ふとそばに冷ややかな気配を感じた。恐る恐る首を向けると、入口でこちらを静観していたはずの巫女姫が立っていた。
「どこで誰と誰が何をなさろうが、わたしの関知するところではありませんが……」
巫女姫は真っ直ぐにルディ、ライドールと順に見て、最後にローゼリシアの前で視線を止める。その瞳に相変わらず何の感情も読み取れなかったが、今回はそれが却って恐ろしさを増幅させる。
「時と場合を弁えて頂きましょうか。聖婚の儀式は明後日です。準備に手落ちがあって困るのはマーレヴィーナの民でしょう。そのために何年も準備してきたのですから」
抑揚のない声は、他人事のように白々しく響く。まるで自分には関係ないとでも言いたげだ。聖婚の儀式の主役は他でもない巫女姫だと言うのに。言いたいことだけ一方的に告げると、巫女姫はそのまま長い長衣の裾を翻して聖殿の奥へと消えた。
ばつが悪そうに顔を顰め、ライドールはローゼリシアを見、巫女姫の背中を見て、結局は巫女姫を追って足早にその場を去る。彼はその生真面目な性質から、現在の職務を私事で放棄出来なかったらしい。しかし、ライドールは去り際にルディをしっかりと睨みつけていった。背筋が凍りつくような殺気に満ちていたが、ルディは全く動じなかった。あの程度のもので怯んでいては、裏の世界では生きていけない。ルディは気にする素振りも見せず、どことなく疲れた様子で改めてローゼリシアに向き直った。
「俺はあくまでも依頼のためにここにいるだけだ」
いつもより硬く、低い声音にローゼリシアは次に告げられる言葉を予感して小さく肩を震わせる。聞きたくない、と無意識に耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、それは辛うじて堪えることができた。
「俺はある約束の為だけに生き恥を晒して生きている。その約束が果たされるまでは何者にも心を移すことはない」
ルディの表情はこれまでになく真摯で揺るがない。彼が心からの言葉を口にしていることは明らかだった。
「お前――いや、貴女のことは悪いとは思わない。俺が今の立場でなければ多分、貴女の前に跪いてその心を乞うたかもしれない。けれど……」
「大切な人なのですね」
「――ああ、この命の全てだ」
ルディの顔は思いがけず優しく、その約束の相手に対する愛情がせつないほどに伝わってくる。恐らく彼にとってその人は本当に大切な人で、誰であっても代わることの出来ない存在に違いない。その場所は、ローゼリシアが欲しいと願ったものだった。けれど、それがもう他の誰かものだと判って、ローゼリシアの胸は締め付けられるように痛んだ。
「早く約束を叶えて、その方の所へ行って差し上げないと……」
精一杯の強がりを、ローゼリシアは口にした。誰かに恋をしたことも初めてなら、恋に破れたことも初めてで。予感ではなく、本当にこれが恋だったとはっきりと自覚したのも、悲しいことにこの瞬間だった。どうしようもなくて、ローゼリシアはせめて彼の前にいる自分は少しでも綺麗なままでいたい思った。未練は自分でももて余すほどにあったが、縋ったところで彼の心が自分に向くとは思えなかったから。
そんなローゼリシアの気持ちが伝わったのか、ルディは微笑してローゼリシアの頭を撫でた。子供扱いされているようでこそばゆかったが、彼の笑みが優しいのに何故か悲しくて、ローゼリシアは思わずルディの手を掴む。
「あの子にはもう、会えないんだ」
見下ろすルディの水色の瞳が揺れていた。
「生きていたら貴女と同じ年頃だろうと思う。健気で融通のきかない……とても、誰よりも優しい子だったんだ」
ルディの眼差しが切なく翳る。それはどういうことだろうかと、ローゼリシアはルディの瞳を覗きこむ。彼はローゼリシアの視線を静かに受け止めた。その目に涙が見えないのが不思議なほどだった。
ルディの大切な人は逝ってしまったのか?
彼を、悲しみの中に残して――約束だけを、残して。
「とにかく」
儚い雰囲気を振り払うように、ルディは何度か頭を振ると表情も元の「ルディ」に戻す。
「この話はこれっきりだ。」
ルディはいつもの調子で話を打ち切ると、ローゼリシアの肩に触れた。
「俺は仕事の時間までゆっくりさせてもらうから」
そのままルディは先程巫女姫やライドールが行ったのとは逆に向かって立ち去ろうとする。
ローゼリシアはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
色んな事が一気に起きて、彼女の脳は処理に手間取っているようだった。
「ああ、そうだ」
聖殿の出入口でルディがふと足を止めて振り返る。
「さっきの春茶は、柑橘系の果物を浮かべて飲むといい。アーベルの姫君たちはそうして飲むことを好んでいた。風味が増して、落ち着くらしい」
本当は久し振りで、とても懐かしかった、とルディは小さく笑うと、そのまま聖殿を後にする。
ローゼリシアはその姿を見送って、一人聖殿の中央で胸を押さえ、重いため息をついた。




